意識



 高校3年生の10月の終わり、春原くんが女の子に告白されているのを目撃してしまった。


 どうしてこのタイミングで、と心の中で溜息を吐いてしまった。告白している女子生徒は私と春原くんが付き合っていることは知らないのかもしれないし、今の私たちの関係など知る由もなく、意を決して告白したのだろうとは思う。
 今の関係というのは、周りは気付いていないかもしれないけれど、春原くんが本当は一番落ち込んでいる時期で、その中で頼ってくれているのは傲慢さが沸き立ってしまうけれど私であるということ。ここ最近、教室の中では周りの目を気にせず2人で一緒に過ごしていたり、付き合っていることをオープンな感じにしている。交際の面で見れば私たちの関係は順調そのものだけれど、なんだか突然、窓ガラスを割って泥棒が侵入してきたように、第三者の立ち入りを、険しい顔を浮かべて首を傾げてしまいそうになるほど面白くはないと感じてしまった。
 これには正直、私も自分で驚いてしまったけど。私、いつの間にか嫌な人間になってしまっているのだろうか。

 過去にも、春原くんに好意を抱いている人は見ていた。友達だったり、先輩だったり。それを知るたびに私は臆病にもビビっていたけど、今回ばかりは違っていた。名前も知らない初めて目にした女子生徒を見て「泥棒が侵入してきたように」と私の中で例えてしまっている時点で、過去に抱いたことのない感情が渦巻いていた。ちょっと、というより、とてもモヤモヤとしている。独占欲、みたいな……。

 2人がどのような会話をしているのかなど、私の耳には入ってくるはずもない。

 これを偶然目撃してしまったのは、日課になりかけている春原くんと過ごす数十分の時間を「ちょっとトイレに行ってくる!」と春原くんに待ったされたことだ。いつの間にやら知り尽くしてしまった春原くんの性格上、本当にトイレに行っただけだと思うけれど、その間にあの女子生徒に声を掛けられたりでもしたのだろう。
 最近、春原くんと私が放課後教室に残って話していることを知った洋太が、俺も春原と遊びたい精神で同じように待とうとしたけれど「ちょうどいいや。ジュース買ってこい」とパシられた。自分で行けと言いたかったけれど、500円玉を渡されてしまったら行くしかなかった。洋太の性格上、これは残りのお金は好きに使っていいと言っているようなものだからだ。だけどこれもタイミングが悪かった。洋太はこのことを知っていたのだろうかと一瞬考えるものの、これはただの偶然である。真意はわからないけど、そんな気がした。

 うちの学校には自販機は購買にしか置いてない。昇降口とかに置いてくれたらいいのに。そしてローファーを履き替えて外に出たら、購買の道先で春原くんと見慣れない女子生徒を見つけてしまった。さらに、見ないふりなどすることもできなかったし、私一人だったから、ひっそりと後をつけてしまったのだ。


「−−春原は?」
「……知らないけど」
「アイツ、遅くね? うんこ?」

 ほらやっぱり、これはただの偶然だった。自販機で買ってきた紙パックのジュースにストローを挿しながら、ごくごくと飲みつつ自分の席で携帯を弄っている洋太を横目で眺める。席替えをしたばかりだけれど、洋太の席は窓際の一番前。私はそのすぐ斜め前に置いてあるスチーム暖房機に腰掛けた。私の専用ポジションみたいなものである。

「……なんかあった?」
「え? なんで?」
「や、うんこうんこ言ってても反応がねぇから」
「私に春原くんの便通事情聞かれても知らないからね」
「そういう意味で言ってるわけじゃねぇよ」

 ちょっと、あんまりこういうことに触れないでほしい、今は。洋太の御駄賃で買ってきたココアを横に一旦置いて、スカートのポケットから携帯を取り出して、画面を開く。通知なんて何も来ていないけれど、ざっくりとメールやSNSの画面を確認していれば、洋太との間には少しの沈黙が広まった。

 私の様子を怪訝そうに見つめている洋太の姿は視界の端っこに見えていた。けれど洋太は何も言わなくて、私と同じように携帯を眺める。やたら沈黙が長く、時間も長く感じられる。何か喋ってよ。と思ったけれど、閉めていた教室の扉がガラガラと音を立てて開いたことで、同時に顔を上げた。

「……マジでうんこだった?」
「へ? オレ?」
「便所に行って15分は長すぎー」
「ああ……トイレ行く前に、後輩に呼び出されちゃって」
「告白かぁ?」
「んはは、まさか。ただのサッカー部」

 教室に入ってきたのは春原くんだったけれど、教室に入って来る春原くんに質問を投げかけていたのは洋太だった。そこで嘘を吐いちゃうんだ、と私は思ってしまった。呼び出し、後輩、サッカー部。もしかしたらあの女子生徒はサッカー部の関係者だったのかもしれないけど、あたかも男子生徒を連想させる言葉たちに、私は横に置いていたココアを手にとって握りしめる。

「開かない……」
「貸して」

 不意に握りしめてしまったココアを何もせずにいることなどできるはずもなく。プルタブを起こそうと思ったけれど、深くめり込んでいるせいで爪が痛くて開けることができなかった。助けを求めたわけではないけれど、傍に近寄ってきた春原くんの気配を感じるや否やぽつりと零してしまった言葉は春原くんの耳に届いて、手を差し出されてしまった。

「……あのさ」

 と、プルタブを開けてくれてすぐに切り出しの言葉を投げかけてきたのは春原くんだった。あのさ、それは何かを告げようしていた前触れだ。顔を上げて、私ではない別の方向に視線を向ける。

「……なんで洋太が間に入ってくんの?」

 3人がやっと収まりきるスペースのスチーム暖房機の端っこに座った春原くんが、不満そうに声を上げた。私にではなく洋太に対してだ。だってこいつ、私と春原くんの間を陣取るように座り込んでいるのだから。さっきまで自分の席に座って、ジュース飲みながら携帯弄ってたじゃん。ココアの蓋を開けている隙に忍者のごとく私の隣に座り込んだ。

「邪魔しようと思って」
「なんだよそれ。 何飲んでんの、一口ちょうだい!」
「ピーチジュース」
「オレ、桃のジュース大好き!」

 ただでさえ3人で収まりきるのがきつい状態であるというのに、隣で男子2人がもそもそとジュースの奪い合いをしている。洋太の肘が二の腕に当たってきて痛いんだけど。

「ねぇ、揺らさないでくれない!? ココア零したらどうすんの!?」
「怒鳴るなよ、うるせーな! だって春原が……っあー!? ふざけんなお前!」
「怒鳴んないでよ、うるさいなぁ、だって、一口くれるっつったのは洋太じゃん」
「お前の一口でかすぎだろ!? もう入ってねぇじゃん、馬鹿!」
「これ、めっちゃ美味いんだけど、こんなの自販機にあったっけ!?」
「今朝から出たらしいよー」
「吐き出せ、今すぐ吐き出せ!」
「い、痛い痛い痛い痛いっ、無理だよ、飲み込んじゃったもん」

 春原くんの頬と顎を大きな手でまるごと包み込んで吐き出せと要求する洋太は、相当怒っているのか私の姿が見えていないらしい。これ以上ぶつけられておかしく痣なんて付けられてしまっては困る。普通に痛いし、邪魔だし。そこから逃れるには私が立ち上がって避けるしか方法がなくて、これ以上の被害を受ける前に暖房機から立ち上がった。
 立ち上がった時に、私は無意識にココアを置いて立ち上がってしまったようで、手元にココアが無いことに気付いた瞬間、カコンッとスチール音がぶつかる音が目の前で響いた。ココアの缶が、洋太の振り払われた片腕によって暖房機から離れる瞬間も落ちる瞬間もスローモーションで見えたけれど、受け止められるはずもなく。

「あっ……」
「……最っ悪」

 無残にも散らばる茶色い液体は−−ココアを落とした。これに尽きる。飛び散って汚れはしなかったものの、まだ一口二口しか飲んでいなかったんだけど。最悪すぎる。「お前がそこに置きっぱなしにしとくのが悪いんだろ!」と責任を擦りつけられたことも最悪だけど、洋太は咄嗟に立ち上がって教室を徘徊し始めた。「五十嵐くん、借ります!」そしてクラスメイトが常備していて机の横のフックに引っ掛けたままの箱ティッシュを取り上げて、ティッシュを一枚一枚乱暴に取り上げながら戻ってきた。やらかしたのは本人だけど、こういうきっちりしているところは好感が持てる。当たり前の行動なんだけどさ。

「大丈夫? 制服、汚れてない?」
「それは大丈夫だけど、飲むものがなくなった」
「俺の飲むもんも誰かさんのせいでなくなった」
「えっ……ご、ごめん」
「買ってくる? さっきもらったお金、ちょうど300円余ってる」
「おんなじやつ買ってきて。ここ片付けとくから」
「わかった。春原くんは?」
「オレも付いていこうかな」
「けっ」
「なんだよ、寂しいの? 一緒に片付けよっか!?」
「一人でできるわ、早く行ってこいよ」
「……怒ってんの? 洋太って、結構根に持つタイプだよね」
「お前だって根に持ってたからジュース飲んだんだろ!?」

 一体どんな揉め事をしているんだ。仲が良くて言い合いを始めた2人を他所にそそくさ教室から出れば、すぐに春原くんが後をついてきてくれた。ちょっと駆け足で私の隣に並ぶと、春原くんは「ごめんね」と笑っていた。なんか楽しそうだなぁと思うけれど、そんなことよりも、こうして放課後の静かな廊下を2人で歩くのは久しぶりである。

 まっすぐ前を向いた視界の傍、春原くんの身体がぴくりと反応したのは、左手にある階段が目前に迫って、立ち並んだ教室の廊下から歩いていた軌道を外れた時だった。この学校の校舎は何階でも同じだけど、3年生の教室が立ち並ぶ3階の廊下は階段を通り過ぎた先に準備室が2部屋とトイレがある。準備室の先の男子トイレから、一人の男子生徒が出てきた。春原くんが彼の姿を視界に入れて反応を見せたということは瞬時に理解した。私はあの日から話すどころか顔も見ていなかったけれど、あれは、春原くんと同じサッカー部の柴岡くんだ。
 ほとんど関わりのない私がすぐに柴岡くんの存在に気付いてしまうのだから、春原くんはもっと早くに気付いていたはず……だけど。

「−−百瀬」

 春原くんが柴岡くんに呼び止められて、そのまま「よう」「うん」春原くんと柴岡くんの挨拶は、それだけだった。
 軽い挨拶を交えていただけだし、男子の挨拶って結構あっさりしているというか、女子と違って立ち止まって唐突に話をすることってあんまりない。と、思う。男子の知り合いなんて春原くんと洋太くらいしか知らないし、男子の挨拶場面にいちいち注目しているわけでもないけど、私にはそういう印象がある。
 でも、舞子じゃないけど、なんだか、今の一瞬で2人の気まずそうな気配を察知した、ような気がする。もしかして、もしかしてだけど、気付かないふりをしようとしてた?なんてことすら考えてしまう。だって春原くんって、私といる時にも友達と会えば結構フレンドリーに声を掛けたりしているし。こんなあっさり挨拶をするところって、見たことがない。

「お腹空いてきちゃったなー! 唐揚げってまだ売ってるかな!?」
「残ってればあるんじゃない? ていうか、お金持ってきたの?」
「あ、持ってきてないや!」

 階段を下りながら陽気に声を上げ始めた春原くん。あの態度は、私の思い込みか何かだったんだろうか。


 購買の唐揚げは1袋120円。自販機のジュースは紙パックと小さな缶の飲み物は100円。洋太からもらった余りのお金は300円。洋太と春原くんが買おうとしていた桃のジュースも私がもう一度買おうとしていたココアも100円の値段だけれど、唐揚げを買うには何かを犠牲にしなければ買うこともできない。500mlのペットボトルの飲み物を2人で分け合うならば買えないことはなかったけれど、男子2人で飲み合うのは春原くん的にも優先度を下げる結果だったのだろう。かくいう私は、まだ一口二口しか飲めていないココアをあのまま終わらせることもできなかったから、私はココアを買うという気持ちは譲れなかった。
 だから結果、春原くんはお腹を空かせているのを我慢して桃のジュースを買っていた。最初はちょっとだけご機嫌だった。美味しかったんだって、落ちてきた桃ジュースに早速ストローを差し込んでいる。

「なまえにさ、言わなきゃって思うことがあるんだけど……」
「え、なに?」

 購買から出て、昇降口を通り過ぎて、教室に戻る階段を上っていたら、春原くんが突然口を開いた。今さっきまで他愛のない話をしていたけど、会話がひと段落吐けば思い切ったことを切り出そうとする口振りで、私は足の動きを緩めながら返事をした。

「……いや、やっぱ、また今度でいいや」
「なにそれ。気になるんだけど」

 言わなきゃいけないことがあるくせに、言い出そうとしてくれていたのに、今度言うって、なんだそれ。
 私が足の動きを緩めている間にも、ペースを落とさなかった春原くんは数段先で私を振り返っていた。とても何か言いたげな表情を見せてくれたけれど、結局春原くんは何も言いださない。首を傾げながら怪訝に春原くんを見上げるけれど、誤魔化すようにニッと笑った春原くんは再び前を向いて階段を登り始めた。

 言わなきゃって思うこと……告白されたとか? あ、そういえば春原くん、さっき女の子と一緒にいて、告白、されてたんだよね。ココアを落とされた衝撃か、春原くんと一緒にいる安心感のせいかわからないけど、そのことを忘れかけていた。
 私自身は特に気に留めてはいないようだった。ていうかそういうこと、春原くんは自分から言ってくることはないんだよね。私は知りたいのか知りたくないのか、わからないんだけど。今ここで春原くんが何も言う気がないのなら、私は知らないふりをするしかない。