意識



 夢が終わってしまったんだ、と告げられたあの日から、春原くんは元気がなかった。


 あれから春原くんは普通に学校に登校してきていたけど、一週間以上も少し元気がない様子で、でも、それでも友達と一緒にいる時は何もなかったようにニコニコ笑いながら過ごしてる。私は春原くんのことを知ってしまったけど、きっと何も知らない人たちはいつも通りの春原くんといった様子でいるのかもしれない。正直、この間のことがなかったら、私は気を遣い続けてくれる春原くんのお陰で、いつまでもそれに気付いていなかったと思う。
 春原くんの心の中には、ぽっかりと穴が空いたままで、いつもと同じように明るく振舞っている春原くんを教室の片隅から見つめながら、私はこれからどう過ごしていくべきなのかを考えていた。あの時、お姉さんは私がなんとかするからと言ってくれていたけど、私がその穴を埋める術って、時間を掛けて、励ましながら過ごしていくことくらいしか思いつかない。それがお姉さんの言っていたことの何か手助けになるかもしれないし、そういうの無しに、春原くんには少しでも元気でいてもらいたかった。

「なまえ、最近よく春原と一緒にいるようになったよね?」
「んー。 うん、まーね」

 だからそう舞子に言われるくらい、なるべく春原くんの傍にいて過ごそうと思った。今まではいつも友達と一緒に過ごしていて、春原くんとは周りの目も気になっていたこともあって、学校の中では挨拶を交えたり休憩時間に軽く話す程度だった。でも最近の私は、昼休みに一緒に購買に行ったり、短い休み時間の合間にずっと話していたり、放課後はスチーム暖房器に腰掛けて30分くらい話していたり、そういうことをするようにした。

「なんの心変わり? なんかあった?」
「なにもないけど……あ、ほら、高橋さんと小林くんが付き合い出したじゃんか」
「あーね。 四六時中イチャついてるね」
「ま、真似してみようと思って……?」

 最近、同じクラスの2人が付き合い始めていた。あの2人付き合ってんのかな!?って、実は数週間前から私たちの話題には出ていた2人だったけど、最近その通りになったようで、舞子の言う通り四六時中他所の目も気にしないで教室の中でイチャついてる。クラスの人数はそれなりに多いけど、このクラス内で付き合ってる人たちって少ない。私の知る限りでは私と春原くんと、その2人だけだ。
 2人の姿を見てやってみようと思った気はないんだけど、口にするにはちょうど良かった。私がそれを告げると舞子は「ほほー!」と心の声をダダ漏れに、なるほどと手を打って私に寄り掛かってくる。

「そういえば私、今日知ったんだけどさー」
「えっ、なにを?」

 教室の後ろのロッカーでたむろしていたら、舞子はなおも私に寄りかかりながら、携帯片手にいつにない口調で、溜息を吐いて小声で呟いてきた。いきなりそんなテンションでそんなことを言い出されたもので、私は春原くんのことなんじゃないかとギョッとしてしまった。

「こゆきの彼氏、春原と同じ中学のヤツみたいなんだけど」
「え、そうなんだ」
「なーんかヤバイにおいがする」
「なんじゃそりゃ」

 話の内容は、春原くん本人のことじゃないみたいだけど、でも春原くんはちょっと関わっているらしい。なにやら携帯の画面をスクロールしている舞子と携帯の画面を見つめるけど、ヤバイにおいっていうのがイマイチわからなくて、とりあえず舞子が切り出してくるのを待っていた。

 こゆきの彼氏のことは他校の人だってことしかわからなくて、写真を見せてもらったたことならあるけど、面識は全くない。中学の友達と遊んでいたら出会って、その場のノリでカラオケに行った先で一目惚れしたという話を聞いていたけど、その相手が春原くんの同級生だったとは、世間って狭い。

「……あ、そういうことか」
「え? なに?」
「や、最近春原くんが、こゆきのこと下の名前で呼んでた謎が解けた」

 忘れてはいたものの、そういえばこの間ふと思ったことがそこで繋がると、舞子を真似したわけじゃないけど、今度は私がなるほどと手を打った。まぁその話は、今は関係ない話かもしれないんだけど。舞子の先の話が気になった私は「それで?」と携帯を覗き込んだ。

「見て、チャラい!」
「わ、ほんとだ」
「元カノもたくさんいるっぽい」
「……ねぇ、もしかして探ったの?」
「気になるんだよねーこーゆーの」
「……怖いんだけど」

 SNSに載せてるらしいこゆきの彼氏は髪の毛を茶髪に染めてて、ピアスを開けてて、大きめのYシャツをだらしなく出してて、おまけに腰パン。こゆきから見せられた2人のツーショットは胸から上の部分しか見えなくて、へぇーこういう人なんだ、としか思わなかったけど、こう、全身姿と、似たような雰囲気の友達と大勢で写ってる姿には「だって、あのこゆきだよ?」と言った舞子の心配になる気持ちはわからなくはない。純粋でうぶなこゆきにはチャラい系の人とはあんまり、というのが舞子の本心らしい。正直、私もビックリである。

「んでさー、こいつのこと春原にちょろっと聞いたんだけど」
「え、うん」
「アイツはアレなの? この世に存在する人間は全員善人だと思ってるの?」
「はぁ? や、それは知らないけど。でも人の悪口とかは言わないよね」
「はーあ、どんな生き方したらあんなふうになれるんだか」
「なんて言われたの?」
「良いヤツだよ! ってしか言わなかった」
「じゃ、舞子の考えすぎだよ」
「やっぱそうなる?」

 春原くんが人の悪口とか愚痴って全く吐かない良い性格をしてるってことは、ずっと前から知ってたけど。悪いところを見ない人なのかもわかんないけど、春原くんの肩を持った私は春原くんがそう言っているならそこまで気にすることはないんじゃないかってことを伝えた。舞子はケロッとしたようにそう言ってたけど、ふーんとため息を吐いた舞子に、私はもしかして、と訊ねてしまった。

「もしかしてだけど、春原くんのこととかもなんか探ったりしてたの?」
「まさかーー友達だし。こゆきの彼氏は面識ないから調べたくなるじゃん!」

 やばいよ舞子。これ、意味は違うけど前に祐未が言ってたネットストーカーみたいなもんだよ。春原くんのことは特に漁っていなかった舞子にはいはいと携帯を伏せさせると、舞子は「今日の放課後はどうすんの?」と訊ねられた。

「この前なまえがやらかしておじゃんにさせたお家デートのリベンジ戦、そろそろやったら!?」
「え!? や、それは……」
「はー、あたしもそろそろ彼氏ほしー」
「え、うん、いいんじゃない?」
「誰かいいヤツいたら紹介して!」
「私、男友達いないし……」

 舞子の言葉に先日の出来事を思い出して、心臓が浮いた感覚がした。心臓がやらたと音を立て始めるけど、勢いよく話している舞子に押し流されて、そうやって話している舞子は私の気持ちに気付きはしない。


 最近の放課後は30分くらい春原くんと話している。みんなが下校を始めて教室の中に人が少なくなると、スチーム暖房器に移動して座り込んでいると春原くんが来てくれるようになった。祐未とこゆきは変わらずに一緒に行動してて、最近は祐未にも彼氏が出来たらしく、お互い彼氏との約束があるからってすぐに帰ってってしまう。舞子は変わらず私と一緒に行動してくれるけど、最近の私を見て、気を利かせてくれてるのか他のクラスの部活仲間の元に遊びに行く。それで、舞子が戻ってきたら、春原くんとはお開きとなる。これが、最近の日課だ。

「なまえ、今日さ」
「え!? なに!?」
「え!? や、何時までいるのかなって思って」
「あ、たぶん、いつも通りだと思うけど」

 今日も先に暖房器に腰を下ろして携帯を弄っていたら、春原くんが近付いてきて、さっと隣に腰を下ろしてきた。ここ最近、やたら格好良く見えてしまう春原くんに今日の舞子の発言もあって無駄にドキドキしてしまうけど「今日さ」と言われて思考が舞子の会話を引き連れてきて、ちょっと大袈裟な反応を見せてしまう。

「16時になったら、友達んちに行こうと思ってて」
「私のことなんか気にしなくてもいいよ」
「でも最近、なまえの方から来てくれるからさ。オレも構わなきゃって思って!」

 座りながら私に身体を向けて話してくれる春原くんと視線を合わせるように、見ていた携帯から視線を離す。伸ばした脚の足首を交差させて宙に浮かせながら、春原くんの言葉に「なにそれ」と返すけど、内心は嬉しかった。でも16時なら、まだ少し時間がある。それならもう少しだけ、と嬉しさで落ち着きがなくなった窮屈な身体を解放させるように一度腰を浮かせて座りなおした。

「あ、そういえば、こゆきの彼氏と友達なんだっけ?」
「うん、そう!」
「全然知らなかった」
「オレもびっくりした!」

 春原くんとの話のネタを掴んでいた私はそれを訊ねた。そういえば、と思い出したようにその話をしている春原くんはどこか楽しげに見えて、釣られて私も笑ってみせる。

「こゆきの彼氏って、どういう人……?」
「ウエイトリフティング部!」
「え、そうなの? あれで?」
「脱いだら筋肉凄いんだよ! 細マッチョってやつ? カッコイイよね!」

 こゆきの彼氏の話は、まぁ私も気になってはいたから、当たり障りのないことを訊いてみる。仲が良かったのか春原くんは部活動のことまで教えてくれるんだけど、私は失礼ながらも本音を口走ってしまった。あんな外見してて、腰パンっていうチャラいのかヤンキーなのか、そういう印象しか受けていなかったけど、ウエイトリフティング部って……。

「写真見たけど、チャラそうな感じだった」
「うん、チャラいね! でも、いいヤツだよ」

 チャラいっていうのは春原くんも分かっているらしい。ていうか春原くんからチャラいって言葉が出てくるとは思わなかった。舞子にも告げたらしい「いいヤツ」って言葉を私にも向けてくれたから、人は見かけに寄らないという言葉がある通り、内面はまともな人なんだろうなとは伺えた。まぁ春原くんがそう言うなら、信頼は置ける人だとは思うけど。

 あんまり人のことを聞くのは良くないだろうと思って、そうなんだねと言えば、一度会話が途切れた。次は何を話そう。首筋に掛かる髪の毛を首裏をなぞって掻き上げながら春原くんを見てみると、春原くんはにこやかに笑って私のことを見ていた。見ているって言うか、眺めているって言った方がいいと思うんだけど。あんまり見られてると恥ずかしくなってくるんだけど……と顔を背けようとすれば、今度は春原くんが「そういえばさ」と話を切り出した。

「姉ちゃんがさ、オレのこと、Re:valeのライブに連れてってくれようとしてんだよね」
「お姉さんが? あのアイドルのライブに?」
「うん。 友達がライブに来れなくなったから、ついてきてって」
「行ってくればいいじゃんか」
「ううん……アイドルとか、嫌いじゃないけど……」
「あんま気乗りしない感じなんだ?」
「なんつーか、見に来るお客さんも女の子ばっかりだと思うし……」
「なにうじうじしてんの」

 春原くんは、アイドルどころか芸能人にすらあんまり興味関心を抱いていないことは知っていた。興味があるのはスポーツ選手ばかり。サッカーのみならず、野球や水泳や柔道や陸上選手に詳しかったりする。根っからの運動バカ。そんな春原くんがアイドルが好きなお姉さんの趣味に付き合わされるのは、こういうのもなんだけど、面白くはあった。アイドルのライブなんて女の子ばっかりだとは思うけど、春原くん的にそれが気乗りしない原因らしい。そういうことも気にするんだって、堪えきれずに笑い声が唇から漏れてしまった。

「お姉さんも、春原くんのこと元気付けようとしてくれてるんだよ」
「うん。 行ったら、姉ちゃんが喜んでくれると思うし」

 あんまり乗り気ではない空気を感じていたけど、春原くんは行く気ではあるらしい。お姉さんが喜んでくれるから、と言った春原くんのついて行こうとしている気持ちには少し驚いたけど。友達が行けなくなった代わりに仕方なくとか、きっと聴き慣れはしてるだろう曲をちょっとでも知ってるからとか、そういう理由じゃなくて、お姉さんが喜んでくれるからという理由で付いて行こうとする春原くんは、どこまでも優しい人で、家族思いだ。

「本当に仲良いんだね」
「まぁね。オレのことも、ずっと応援しててくれてたし。 なまえ、あの時、姉ちゃんになんか言われたりした?」
「んー、まぁ、ちょっとだけ……。 あの、春原くん」
「なに?」
「こういうの触れていいのかわかんないし、私の勘違いかもしれないんだけど」
「ん?」
「お姉さん、春原くんは家の中じゃずっと放っておいてオーラ出してるって言ってたけど」
「えっ……、うん」
「私が家に行った時のアレって、放っておいてって感じじゃなかったよね?」
「……うん」

 春原くんの怪我のこととかってあれから触れていないけど、ずっと勘違いしているかもしれないことを切り出した。勘違いだったら恥ずかしいけど、春原くんは眉を八の字にして頷いてくれていた。

「ごめん、迷惑だったよね。あんな大泣きしてさ、困らせるようなことばっか言っちゃって」
「え、いや! 全然、そういうのはないんだけど、ビックリしちゃった。家族にも言わないこと、私に言ってくれたんだ、って。嬉しいって言ったら、いけないことなのかもしれないけど。でも、春原くんが私だけにそう言ってくれたことが、私、嬉しかった」

 困っている表情を見せられて、私は慌てるように首を左右に振りながら告げた。友達とか部活仲間とか、そういう周囲の人間よりも春原くんが一番頼りにしているであろう家族にすら見せなかったことを、私だけに見せてくれていたことは嬉しかった。こんなところで嬉しいだなんて思ってしまうことは、いけないことかもしれないけど。春原くんは相変わらず眉を下ろしたまま、私のことを見つめていた。その変わらない表情に、私は指先を伸ばす。

「……そんな顔しないでよ」
「っ、なまえが触ってくんの、珍しいね」
「触りたくなっちゃって」

 あからさまに元気がなくなる姿を見せてくれた春原くんの頬っぺたを指先で抓る。初めて春原くんの頬に触れたけど、思ったよりも柔らかくて驚いた。もうちょっと力を入れても痛くなさそうな柔らかさ。子供の頃に一時期流行ったたこ焼きほっぺがそのまんまできちゃうくらい。それが面白くて、少しだけ春原くんの頬を触って遊んでみるけど、春原くんは私のことを楽しそうに眺めている。

「あーー! カップルが! イチャついてる!」

 終わりの見えない行為を続けていたけど、教室に響き渡ったその一声で私は指先を離してしまった。というか、春原くんが教室の扉の方に顔を向けてしまったから、自然と離れてしまった。声の主は、どこかのクラスに遊びに行っていた舞子である。

「最近なまえが積極的になってますけど、どんな気持ちですか、春原さん!」
「めっちゃ嬉しいです!」
「はい、めっちゃ嬉しい貰いました! だってさ、なまえ!」
「はぁ……?」

 この状況を見て声を上げてすっ飛んできた舞子は、どこからか持ってきた筒状のマーブルチョコを春原くんに向けていた。どんなノリで話し掛けられてるのかわかんないんだけど。それでも春原くんは舞子のノリに乗っかってて、そこでやっと、これはマーブルチョコをマイク代わりにインタビューみたいなノリで話し掛けてきたんだと悟る。イマイチノリに付いていけなくて言葉を失った私だけど、ニヤ付いた舞子は私に「イチャつきやがって、このっ」とちょっかいを出しはじめた。

「ねぇ、これってイチャつきに入るの?」
「うん、入ると思うけど……」
「なまえちゃーん、今のは普通にイチャついてたよー」
「え、じゃあ止めよ」

 舞子が大袈裟な反応をしてくるものだから、教室に残っていたクラスメイトも反応を見せてくる。横槍を入れるように今のは普通にイチャついてたって、舞子でも春原くんでもない第三者からそんなことを言われてしまったら、私はさっきまでの行為を自覚して、宙に浮きっぱなしだった腕を引っ込めた。

「ご、ごめんねー」
「いいよいいよー」

 教室の中でのイチャついてしまうだなんて。見られていて反応してくれた遠い席に座っている数人に声を掛けて笑ってみせると「照れてるなまえちゃんも可愛いよー」なんて冷やかしの声が混じって返ってきた。照れ隠しのように「あはは、ありがとー」と笑って返事をすれば、隣に座っていた春原くんは不満げに呟く。
 「オレが可愛いって言っても、やめてって言ってくるくせに」。それに先に反応を見せたのは舞子で「何その話、詳しく!」なんて私のことを巻き込もうとするから、舞子の身体を引っ張って、今日の春原くんとの放課後を無理矢理お開きにする。