意識



 春原くんが、珍しく学校を2日間休んでいた。


 風邪なんて滅多に引かないし、休むのは部活関係でのことくらいしかない皆勤賞って感じの春原くんが珍しく学校を休んでいたのは、日にちを間違えていたっていう病院に行った翌日のことだった。春原くんは病院に行った次の日に学校を休んで、その次の日だって学校を休んだ。病院の関係で、と春原くんが休んだ理由を担任は話していたけれど、具体的な内容がなくそれだけと言った感じだった。

「病院行ったら、数日間歩くの控えろって言われたらしいぜ。ドクターストップってやつ?」
「なにそれ。 怪我、治ってきてたじゃん」
「俺も知らないけど。春原に連絡してもなんも返ってこないし。 担任が言ってた」

 1日休んだくらいじゃ、珍しいけどアイツも人間だからそんなこともあるよな程度だった洋太も、続けて休んだってことを不思議に思ったらしい。さすが行動の早い洋太は担任に休んだ理由を聞きに行ったそうだけど、担任からはそういった理由を返されたそうだ。最近はギプスも取れて普通に歩けるようになっていたし、怪我の容態は良い方向に進んでいると思っていた。精密検査をした結果、まだ完治には遠い診断をされてしまったんだろうか。
 
「お見舞い、行ってこようかな」
「お、珍しい」

 あれだけ部活をしたいと行っていた春原くんだったから、歩くのを控えろと言われてしまったならば、もしかしたら落ち込んでいたり、元気が無いんじゃないかと思ってしまった。心配だから様子を見に行ってこようかな、そう口にして返ってきた洋太の言葉はそのまま珍しいといった様子だけど、洋太こそ、俺も行くと言わないところが珍しいじゃんか。洋太も行こうよ、とは言わなかった。誰かを誘ってお見舞いに行く気も起きず、自分でも珍しいなと思ってしまうくらい、私は一人で春原くんの家に行って様子を見に行こうと思っていた。


 ……春原くんの家ってどこだっけ。
 雨の日に1回だけしか行ったことのない春原くんの家を目がけて、最寄駅から記憶を辿るように歩いてきたけど、おそらくこの辺りだろうと思われる住宅街に入り込むと、家の外装を覚えていなくて道に迷っていた。辺りを見渡しても家はたくさんあるのに、どれも似たようなお家ばかりで、一つ一つの家の表札を見ながら歩く。絶対、不審者だと思われる。早く見つけてしまいのも山々なんだけど、一応何かしら連絡を入れてから行こうと思って学校を出た時に春原くんに電話をしてみたものの留守電に繋がり、途中コンビニに寄ったりして時間を潰したりもしたけれど、ここに来るまで折り返しの電話すら掛かってこなかった。

 やばい、どうしよう。ここまで来たのに帰るってこと今更できない。ダメ元でもう1度春原くんの携帯に電話を掛けつつ、繋がっていることを確認すると表札と携帯の画面を交互に見つめながら足を進めた。すると、画面が通話画面に切り替わった。

「……あ、春原くん?」
『なまえ、どうかした?』
「……風邪でも引いてんの?」

 やっと繋がった、良かった。安堵の息を吐きながら携帯を耳に押し当てると、電話越しに聞こえた春原くんの声はやけに掠れててビックリした。

「春原くん、2日も学校休んでるから心配になっちゃって」
『心配させちゃってごめんね! 来週からは行けるようになるから!』
「元気そうならよかった。 あのさ、春原くん……あ」
『なに、どうしたの?』

 春原くんの家ってどこだっけ? そう訊ねようとすると、目の前の表札に『春原』という文字が書かれてあって、足を止めた。

「春原くんち、どこかわかんなくなっちゃったんだけど。見つけた」
『……え? 家?』
「心配だから様子見に行こうかなって思ってたんだけど、わかんなくなっちゃって」
『え!?』
「今、家の前にいるんだけど……」
『ちょ、ちょっと待って!』

 ブツっと電話が切れた。通話画面が連絡先の画面に戻ってしまったのを呆然と見つめながら顔を上げると、すぐに目の前の家の玄関からガチャっと鍵が開く音が聞こえてきた。そして春原くんが顔を出す。

「なにしに来たの!?」
「だから、様子見にきたんだってば」

 ここが春原くんの家であることを再度確認すると、携帯をスカートのポケットに入れてそっちに向かった。

「はいこれ、駅のコンビニで買ったお菓子。家の人いるかわかんないから、パックの牛乳プリンも買ってきた、けど……春原くん?」
「ありがと」

 ……泣いてたの? 顔を上げて、やっと間近で見ることができた春原くんの目の端っこが赤くなってるのが目について、胸にどしりと重みを感じた。え、どういうこと?どうしたの?っていう、どうしたらいいのかわからない焦燥から来たものだと思うけど、心拍数が高まった。

「牛乳プリン、父ちゃんが好きなんだ。喜ぶよ」
「春原くん」
「……ん?」
「どうかしたの?」

 と、聞いてはいけないようなことを聞いてしまった。知らないふりをすることができなかった。心配だったから、それは当たり前のことだけど、どうにも放っておけないような気がしてしまった。

「ちょっと、いろいろ」

 珍しく春原くんが言葉を濁した。 いろいろって、なに。いろいろあって泣いてたの?なんで?なんかあったの? 私の頭には春原くんを問いただす言葉がいくつも浮かび上がってきた。だけどそれを聞くべきか、聞かないべきか。そっか、そうやって理由を聞かずに、早く学校に来てよねって帰るべきかを数秒悩んだけれど、私はどちらも口にすることができなかった。

「あ、あがってく?」
「いいの?」
「うん」

 長い沈黙だった。体感では5分くらい経ってたような気がするくらいの重たい沈黙だったけど、たぶん10秒とか20秒とかそのくらい。それでも長い気がしたけど、帰る選択肢がなくなった私は春原くんの言葉に甘えた。

「お邪魔しまーす」
「あ、誰もいないよ」
「今日もいないんだ。 仕事?」
「今日はね。 こないだは、母ちゃんは仕事行ってたけど、父ちゃんと姉ちゃんは友達と遊びに行ってたんだ」

 平日だから、ご両親は仕事だろうとは思っていた。お姉さんは学生なのかわからなかったけど、お姉さんもアパレルの仕事をしているらしい。なるほどな、どうりで可愛い人なわけだと納得しながら、元気のなさげな春原くんの背中を追いながら通される部屋についていった。

 春原くんの家に来たのは2度目で、春原くんが過ごしてる部屋に入るのも2回目だった。短期間じゃ何も変わらない部屋だけど、あの時は顔を知らなかったお姉さんを知って、印象がガラッと変わる。あの人が、アイドルにハマってる人なんだ。と、貼られたポスターを見ながら、春原くんのお姉さんの顔を思い出した。

「なんかあったの?」

 ここに座っていいよと、前と同じ場所を指さされて腰を下ろした。なんか飲む?と訊かれたけど首を横に振った。そっか、そう言って隣に腰を下ろした春原くんは、なぜか私に背中を向けて座り込むし、一向にこちらを向いてくれなくて、私はついに訊いてしまった。「うん、まぁ……」と詳しいことを言ってくれない春原くんだったけど、その声は弱くて、細くて、心配が募る。

「数日間、歩くの控えろって言われたって聞いたけど」
「誰に?」
「洋太。担任に聞いたらそう言われたって。 あ、そういえば洋太が返信来ないって言ってたし」
「……そう言ってくれてたんだ」
「え?」
「洋太には、後で連絡しとくよ。返信遅れてごめんって」
「ねぇ、春原くん! ……あ……」

 私の質問に答えてよ。どうしたの。そんな気持ちで春原くんの肩に強く触れた。ちょっとこちらを振り返った春原くんの目には涙が溜まって赤くなっていて、短い言葉がこぼれ落ちて、掴んだ手を硬直させてしまった。そのまま力なく手を降ろせば、後を追ってきたように私の手が置かれていた場所に手をあてて握りしめる春原くんの手があった。

 どうしたの。何度も思い浮かぶ言葉だったけど、泣いてる春原くんを見たらそれが喉の奥に詰まって出てこなかった。私自身がすごく焦ってしまっているから、声が出てこなくてその姿を見ていることしかできない。腕でごしごしと目元を拭って、作り笑いを浮かべているとはっきりそうわかる表情を向けられた。春原くん、とやっと動かすことができた身体に目一杯力を込めて、降ろした手でもう一度春原くんに触れた。少し躊躇ったように、袖を引っ張る。そうすると、春原くんは身体を寄せてきて距離を詰めてきた。

「なんもしないから、抱きしめさせて」
「あ、当たり前でしょ、足、治ってないんでしょ」

 何もしないから、という言葉にその「何も」の意味全てが理解できてしまっている私は、この場に及んで余計なことを考えてしまいそうになった。

 春原くんに抱きしめられると、その腕の力はやたらと強かった。初めて抱きしめられた時に痛いと零してしまったのと同じくらいの力強さだった。そういえばあの時も、春原くんは落ち込んでいたんだっけ。きっと、今もそれなんだろう。あの時みたいに、それ以上に、すすり泣く音がすぐ耳元で大きく聞こえて、少しでも落ち着けるようにと背中を撫でた。

「−−オレ、夢が、終わっちゃったんだ」

 よしよしと背中を撫で続けていると、落ち着いた春原くんは唇を噛みながらそう言った。言われている意味がわからなかったけど、意を決したように吐き出した言葉で糸が切れてしまったのか、鼻をすすりながら嗚咽を交えた震える声で「ごめん、ごめんねなまえ、かっこわるいオレで」と何度も繰り返されてしまって、私はなんて声を掛けたらいいのかわからず、ひたすらに背中を撫でていた。

「私は、格好悪い春原くんも、泣いてる春原くんも好きだよ」

 泣いている人を慰める術は背中を撫でて落ち着かせることしかできなくて、慰めの言葉なんて何も思い浮かぶことができなかったけど、私は必死に泣きじゃくる春原くんに好きだと告げていた。

 そこから春原くんは話してくれた。足の状態は少しずつ回復しているけど、高校生のうちにサッカーができる状態には戻れないってお医者さんに言われてしまったこと。春原くんの足の中には、怪我をした日に埋め込まれたボルトがまだ残ったままで、その状態でサッカーを続けることはボールを蹴った衝撃で痛みを引き起こしたり悪化する可能性が十分にあるらしい。だからボルトの除去手術を勧められた、その手術をすれば完治期間は伸びてしまうけれど。在学中にサッカーは諦めた方がいいと言われ、続け様に一昨日の夜に監督から連絡が来て、契約を結ぶ予定だったチームに契約は白紙にほしいと言われてしまったそうだ。だから、春原くんがプロのサッカー選手になるという夢は消えてしまった。

 小さい頃からずっとそれだけを夢見てサッカーに人生を掛けてきたけど、もう無理なんだって泣きながらボロボロと零れ落ちる春原くんの絶望じみた話は聞いているだけでも相槌を忘れるほど私だってショックだった。それなのに、私にはどうすることもできなくて、だからこそどうしようもない気持ちも溢れかえって、心が痛くなって息苦しさを覚える。

「春原くん、私」

 どうしよう、どうしたらいいんだろう。怪我をして何も言ってくれなかった春原くんに、なんでも話してくれと願ったのは私の方だ。けれどどうすることもできない話に声が震えてしまう。

「傍にいるから」

 大丈夫だよ、だなんて言葉を軽率には吐き出せなかった。力強く抱きしめられたまま、嗚咽を交えて泣きじゃくる春原くんから零れ落ちたのは「ありがとう」って言葉だった。
 春原くんが落ち着くまで背中をさすって、落ち着いたのは5分くらい経った頃だった。少しずつ部屋の中が静寂に包まれていく中で、静かに身体を離されて、代わりに顔が近付いてきた。瞼を落とせばすぐに唇に春原くんの唇が触れる。優しく、2度唇が軽く触れ合った先で、どちらからともなく唇を開くと深いキスに変わった。落ちていた指先同士が絡み合って、吐息を零しながら、熱く伝わってくる熱を感じていた。

「っ、す、のはら、くん」
「好き」

 甘えるように何度もキスを繰り返してくる春原くんを受け入れていると、外から、近い場所で車のドアが閉まる音が聞こえてきた。それを耳にして動きを止めた春原くんがゆっくり離れていく。好き、ともう一度言われて、少しぼんやりとした私は小さい声で私もだと零したけど、春原くんは腫れた瞼を向けたまま苦笑いを漏らした。

「姉ちゃん、帰ってきちゃった」
「えっ」

 と言った言葉通り、下から玄関のドアが閉まる音と、「百ーー!?」と声を発しながら階段を駆け上がってくる音が聞こえて、私は背筋を伸ばした。私から身体を引き離した春原くんはすぐに部屋のドアに近寄っていくと、タイミング良く部屋のドアが開いた。

「姉ちゃん、帰ってきたんだ。おかえり」
「ただいま……って、あんたその顔、なに!? また泣いてたの!?」
「……う、うん」

 ドアに背中を向けたまま、恐る恐る、というよりは、一度会ったとはいえ、春原くんの家族に会うってことに緊張が入って、ゆっくりと後ろを振り返った。

「あれ、なまえちゃんだ!」

 春原くんよりも頭一つ分背が低いというのに、さっきまでの春原くんを見ていたら逆に春原くんの方が小さく見えてしまった。春原くんが落ち着いて私も落ち着きを取り戻したところでそういう呑気なことを考えてしまったけれど、相変わらず可愛らしい春原くんのお姉さんは手をひらひらさせて私に挨拶をしてくれた。

「お、お邪魔してます……」

 軽くお辞儀をしたけど「邪魔なのは私の方だったんじゃない?」とコソッと春原くんに耳打ちしている声はちゃんと私の耳にまで届いてしまっている。床に置いていた鞄を持ち上げると、私より先に春原くんが口を開いた。

「大丈夫、もう帰すから……」
「帰すって、そんな言い方しちゃだめでしょ」
「いえ、私、帰ります。学校休んでいて、心配になって様子見に来ただけなので……」

 誰もいないところでキスしちゃってたけど、それもあって心臓の音は落ち着いてはくれていなかった。お姉さんは、春原くんを少し怒っているようだったけど、春原くんの言葉に私は何も思わず、返って切りよく感じたため私は立ち上がった。

「なまえちゃん、家どこ?」
「え、ええっと」

 お邪魔しましたを告げる前にお姉さんにそう問われ、困惑気味に家の場所を告げてしまった。すると「遠くない!?」と驚かれ「私、車で送っていってあげようか!?」とまで言われてしまい、わかりやすくキョドりそうになる。

「だ、大丈夫です。歩いて帰れる距離だし、いざとなったら電車使うので」
「じゃあ、駅まで送ってってあげるよ!」
「えっ」

 初対面ってわけじゃないけど、慣れない、おまけに彼氏の姉と2人きりでって、なかなかハードルが高い。だけど、さすが春原くんと血の繋がった姉って感じがある。そういう気まずさとかって気にしないんだろうな。その態度に、春原くんと同じくコミュニケーション能力の高さが伺えた。
 ゴリ押ししてくるお姉さんのご好意をこれ以上断ることもできずに、私はお願いしますと頷くことしかできなかった。


 会話の空気や流れからして、お姉さんと2人きりで駅まで送られると思ったけれど、春原くんも付いてきてくれるんじゃないかって期待はあった。だけど、春原くんは玄関までのお見送りだけで「ありがとうね」と言われてさようならを交わした。え、本当に2人きりになっちゃうんだ……と心の中で呟いてしまったけれど、こういうのは私が知らなかっただけで、世の中には普通に存在する話なのかもしれないと自分を納得させる。

「百に何か言われちゃった?」
「え、いえ……まぁ、はい……」

 車に乗り込んで、狭い住宅街を抜けて、少し広い道路に出るまではぎこちない空気が漂っていたけど、見通しの良い通りに出るとお姉さんは口を開いた。

「その、プロ入りの話がなくなったこと聞いて……元気なかったかなって」
「そっか。 本当はあの子、怪我してからずっと元気なかったんだよね。それで一昨日、悪いことが重なっちゃって、ずっとあんな感じなの」
「……そうだったんですか」

 私、なにも知らなかったんだなと、お姉さんの言葉を聞いてうら寂しい気持ちになってしまった。怪我をしてから少し落ち込んでいたことはあったけど、最近の春原くんは元気を取り戻していたと思っていたから。早く怪我を治すよって、怪我の完治に前向きだったし、一緒に遊んだりもして、今までと変わりなく思えていたのに。本当は家の中ではずっと元気がなかったのだと知って、それは春原くんが悟られないように振舞ってくれていたこともあるんだろうけど、何にも気付けなかった私に失望感みたいなものが押し寄せてきてしまった。

「でも大丈夫! きっと、そのうち元気になるから!」
「……本当ですか?」
「うん、大丈夫! 私が元気にさせるから! 大丈夫。きっと、元気になったら、なまえちゃんに元気な姿見せてくれるよ」

 私に隠して家で落ち込み続けていたことを知ったことと、今まで見たことない、泣きながら弱々しい姿をさらけ出していた春原くんを思い返すと、そう簡単に立ち直れはしないだろうと思って、思わず本当ですか、だなんて失礼なことを言ってしまった。けど、お姉さんは特に困った様子も見せずに自信あり気に笑っていた。家族だし、春原くんの一番近くにいて、春原くんのことを良く解りきっているお姉さんがそういうのならそれを信じるしかなかった私は、その笑顔に釣られるように笑ってみせた。「ありがとうございます」と小さく告げると、その言葉を耳にしたお姉さんは逆に私を励ますように口を開く。

「慰めの言葉じゃないかもしれないけど、お父さんやお母さんや私にだって、あんな感じだから。ずっと落ち込んで、泣いてて、放っといてっていうオーラ出しちゃってて。意地になっちゃってるだけ。だから、気にしないで!」

 あれ、と首を傾げてしまいそうになった。あんな感じって、どんな感じ? 泣きながら弱音を吐いて甘えてくるように身を寄せてきた春原くんの姿を思い出すけど、お姉さんの口にしている放っておいてオーラとは、なんだか私が受けたものと異なるような気がした。少し引っ掛かりを覚えながら、それでも私はお姉さんを頼る以外の方法がなくて「そうですね」と短い言葉を返していた。