意識



 翌日、その日は一日中、春原くんの顔を見ていられなかった。


「おっはよー!」
「おはよー」
「おはようー」

 昨日はこゆきと舞子と遊ぶ約束をしたけど、結局2人で遊んだこゆきと舞子は、昨日は盛り上がった延長でこゆきの自宅にお泊まりコースだったらしい。2人そろって挨拶をしてくる姿に羨ましいと思いながら、挨拶をして、今度は私もお願いねって声を掛けていると、その後ろから春原くんと洋太が教室に入ってきた。

「おっはー」
「お、おはよう」
「うん、おはよう……」

 上機嫌に挨拶をしている2人だったけど、春原くんは私を見て視線をそらした。私だって春原くんと目を合わせることもできなくて、視線をそらして挨拶を返した。やばい、気まずい、なんだこれ。

「……春原とまだ喧嘩してんの?」
「え、まだ仲直りしてないの!?」
「え!? あ、いや、したけど……」
「そう?」
「うん、なんで?」
「なーんか、気まずそうな気配を察知した」

 春原くんと仲直りしていたし、昨日や数ヶ月前に覚えた春原くんと話しているのが嫌だっていう気持ちは皆無だった。なのに昨日のことがあったせいでまともに目も合わせられない。そんなお互いの気まずい空気は、さすが女の勘って感じで舞子には察せられていて、私はそんなことはないと首を振って否定した。気まずそうな気配を察した、と言われて図星だったそれにはなにも返せなかったんだけど。


「あ、百くんだ」

 そんな気まずい空気を漂わせて午前中の授業をほとんど終わらせたけど、春原くんと話したのは4時間目の体育が始まる前だった。体育の授業が始まる前は、体育館の更衣室は汚いから女子は更衣室がわりに教室を占拠して、男子は先に教室を出ていって体育館の更衣室で着替えを済ませるけど、この日の春原くんは体育着を忘れたっていうクラスの男子と一緒にいた。借りる予定の友達のクラスの授業が長引いてて、女子が着替え終わった時間に鉢合わせしたという形だった。今日に限って、なんてタイミングが悪いんだ。
 こゆきの言葉に肩がビクッと反応した。春原くんの名前を聞くだけで反応してしまうって、いよいよやばいんじゃないか。

「なにー、ジャージ忘れたの?」
「そー。丸々一式忘れてた」
「かっこわるー」

 体育着を忘れた男子に舞子が話しかける。4人で出たけど、結局は祐未とこゆきは前に出て先に歩いてしまうし、一緒にいる舞子は男子に声を掛けるから、自然と春原くん達と一緒に体育館に向かうことになる。だけどその瞬間に「わ、カップルが揃った!」っていう男子のいらない一言で、舞子は笑って私たちを置き去りにするように足を早めたのだ。周囲にはぞろぞろと体育館へ向かうクラスメイトの姿があるのに、まるでこの空間に2人きりで取り残されてしまったような私と春原くんの姿がここにある。まだ喧嘩をしていて仲直りしていないと思われてるのか、あからさまに2人だけを引き離すこの空気に飲まれながら、前を歩く舞子と男子の姿を見つめていた。

「なまえ、あの」
「ん?」

 めちゃくちゃ気まずい。そんな空気の中でみんなの背中を追いかけて歩いている最中、先に声をかけてきたのは春原くんだった。

「大丈夫? その、身体……」
「え、うん……ちょっとだけ、まだ痛いけど」
「ご、ごめん……」

 私ばかりが勝手に気まずいと思っているのではなく、やっぱり春原くんも同じような気持ちを抱いていたようで、その発端となってしまった昨日の出来事を思い返してしまうな言葉を投げかけられる。終わったことだけど、今日になっても心配してくれることに嬉しさを覚えながら、正直な返事を返してしまった。
 どこが、とは口にはできないけれど私の身体はまだ痛みを残していた。それがはっきりとあの行為が現実にあったものなんだと教えてくれてるわけだけど、それを思い出すとかあっと顔が赤くなってしまいそうだし、心臓が一際うるさい音を鳴りあげた。さすがの春原くんもそれを察してくれるようで、ごめん、と口にしたきり何も言い出さない。
 がやがやと賑わう廊下の中で、私と春原くんの間には沈黙が流れる。今まで話す会話に尽きて沈黙が流れることは幾度とあったし、サッカー場で部活を眺めていた時の春原くんとの空気の居心地の悪さも経験していたけど、今回のものは全体とは違って、いろんな意味で、居心地の悪すぎる空気が流れてしまっていた。

「ねー、なまえー」
「えっ、なに?」
「今日、原宿行かない!?」
「原宿? いいけど」

 春原くんと何喋ってたらいいんだろ、ていうか、春原くんなんか喋ってよ。気まずい空気の中で心の中で一人戦っていると、この沈黙を破ったのはさっきまで前を歩いていた舞子だった。春原くんとのことでいっぱいいっぱいで、舞子が何を話してそう言い出したのかわからないけど、原宿に行こうと言われてすぐに反応を見せる。そしたら「あれ、なんてとこだっけー?」と舞子が大声でもっと前を歩いていた祐未に声を掛けた。少し先から何かしらのショップの名前を大声で返す祐未の声が聞こえて、ああなるほど、祐未が行きたい場所に行くって流れになっているんだと察した。

「春原も行くー?」

 誰と何をしに行くのか具体的なことはわからなかった中で、気を利かせたのか舞子は私の隣を歩いている春原くんにも声を掛けていた。

「オレ、今日は病院の日だからパス!」
「あ、そうだった! 今日は日付間違えてない? 大丈夫?」
「大丈夫だって!」

 ワハハっと舞子が思いっきり笑っている。6と8を間違えたっていう春原くんは、今日が本当の病院の日だった。舞子はわかった、と一つ口にして再び前を向いて祐未と話しだした。

「……姉ちゃんがさ」
「えっ?」
「なまえのこと、可愛いって言ってた!」
「え!? そ、そうかな?」

 一瞬輪の中に溶け込んだと思った舞子がすぐに抜けてしまうと、再び2人きりの空気が漂った。また気まずい空気が流れてきそうだと思った時、春原くんが話を切り出してきた。突然話かけられたことと、お姉さんに可愛いと言ってもらえたことに二重に驚いたけど、衝撃や嬉しさとかよりも恥かしさが込み上げてきた。

「うん、なまえ、可愛いよ」
「……やめて、恥ずかしくなるから」

 どうしてこんな状況の中で、そんなことを平然と言いだしてくるのだ春原くんは。パッと見上げた春原くんの微笑んでいる姿に小っ恥ずかしくなった私は慌てて顔を俯かせるけど、無意識に両手で顔を覆っていた。

「でも私も、春原くんのこと、格好良いと思うよ」
「……めっちゃ恥ずかしい」
「言われ慣れてるでしょ」
「そうだけど。 でも、なまえに言われると、なんか違うね」

 そこは否定しないんだ。口元を手で覆いながらチラッと横目で春原くんを盗み見ると、春原くんは照れ臭そうに笑っていた。


 友達からの気の利かせ方って、ある意味大きなお世話になる。春原くんとはもう普通に話せるようになったから、別にそういうことは考えてはいなかったけど、先に話せるようになってて良かったと思ったのが本音だった。

「ついでにポッキー買ってきて」
「洋太も行こうよ」
「えー、怠いわー」
「お金」
「はい200円。お釣りはお駄賃にしてやるよ」
「やった! ブラックサンダー買っちゃおっと」

 これはいつメンに飲み物とかお菓子が欲しいから購買に行ってきてよ、と言われたのが始まりだ。いつも一緒に行ってくれる舞子もこゆきもそれを言ってきただけで知らん顔をしているし、祐未に至ってはいろいろあるから弄っているスマホから目を逸らさない。なんで私一人だけ!?と3人の目の前をうろついていれば、舞子がわざとらしく教室の後ろでたむろっている春原くんに声をかけてきた。「なまえが一人で行けないって言うから一緒に行ってきて!」何余計なこと言っちゃってんの、と思ったけれど春原くんは「いいよ!」と言ってくれて、春原くんと2人で購買に行くことになった。
 そして一緒にいた洋太も空気を察しでもしたのか、私にパシリを頼んできた。余ったお金は好きに使っていいと言ってくれたから、それはそれで良しとしよう。

「ごめんね、付いてきてもらっちゃって」
「平気だよ。なまえと話したいって思ってたし……」
「あ、うん、そっか」

 春原くんがそう思ってくれたことに安心した。気まずいのわかってんだから話しかけてくるなよって思われてたらどうしようと思っていたから。春原くんがそんなこと思う人じゃないことくらい分かっているんだけど。

「あの、なまえ」
「どうかした?」

 とはいえ、春原くんとの会話はほとんどなかった。購買に行くまではほぼ沈黙状態、たまに廊下ですれ違う友達に挨拶を交わしている春原くんに「今の、1組の野球部の人でさ」と丁寧に紹介をされて、へぇそうなんだと相槌を打っていたくらい。だけど、購買で頼まれていた飲み物とお菓子を一式買った後に、春原くんが話を切り出してきた。
 ペットボトルと紙パックのジュースを2本、お菓子も抱えていると切り出される話よりも先に「持つよ」と言ってくれた。ジュースを手渡す時に指先が触れてしまったけど、慌てたように引かれてしまった。その姿を怪訝に見つめると、ペットボトルを持った手で鼻をこすりながら春原くんは言った。

「なんか……なまえ見てると、ドキドキしてくる……」
「は?」

 一体なにを切り出されるのかと思えば、わけのわからない言葉を言われてしまった。

「いやっごめんっ、なんかオレ、めっちゃキモいこと言っちゃった!」
「いや、別に、ビックリはしたけど……」
「だからオレ、今日、なまえの顔全然見れなくて」

 あ、そういうことか。私も、春原くんを見るとなぜかドキドキと心臓の鼓動を感じてしまうから、春原くんの顔を見ていられないんだ。春原くんを見ていると、おかしな意識が私の中に入り込んでいる。

「私もそんな感じだから、気にしなくていいよ」
「うん。 でも、普通に喋れてるから……そのうち落ち着くと思うけど」
「大丈夫だよ。 だからまた……」
「えっ」
「あっ、いや、あの、また、一緒に帰ったり、遊びに行ったりしようね」
「あ、う、うん、そうだね!」

 何かおかしなことを言おうとしたつもりはなく、また普通に話をしながら遊びに行ったりしようね−−そんなニュアンスで言ったつもりが、春原くんが途中で驚いた声をあげてくれるものだから一気に違う方向に話が傾いたのかと思って焦ってしまった。

 きっと明日になったら普通に話せる仲に戻っているはずだから。だから今日は気まずいオーラ出しちゃっててごめん。明日から、また暇な放課後は一緒に行ったり遊びに行ったりしようね。休みの日だってデートしよ。そんな約束を一通り立てた翌日、春原くんは珍しく学校を休んでいた。