意識



 私は春原くんのことを、高校2年になって同じクラスになってから知ったけど、春原くんは私のことを、1年生の頃から知っていてくれたらしい。


「お邪魔しまーす! わっ、なまえの匂いがする!」
「それって、どんな匂い?」
「なまえも言ってたじゃん」
「なにそれ、私のこと真似したの?」

 初めてうちに上がった春原くんは、玄関をくぐるとそんな第一声を発した。私も初めて春原くんの家に上がった時に鼻についたのは春原くんの香りだった。どんな匂い?と言われたら言葉にしようがないんだけど、春原くんは「抱きしめた時にするなまえの匂いだよ」って恥じらいのないことを言う。

「ちょっと待ってて。先に飲み物とってくるから」
「水でいいよ」
「オレンジジュースで勘弁して。うちのお母さん、こないだジューサー買ってハマってんの」
「なまえのお母さん、可愛いね」
「でしょ」

 部屋に行く前にキッチンに向かう。先日エアコンを買い換えると電気屋に行ったはずのお母さんが、何故か買っちゃった!とジューサーを購入してきてしまったのだ。最近はそれにハマっていて、今ではお茶や麦茶と一緒に、冷蔵庫の中にはジューサーで作った果物のジュースがボトルに入って置かれてあった。昨日スーパーで買ってきたオレンジをジューサーにかけていたので、今うちに置いてあるジュースはオレンジジュースだった。水でいい、と言われたけれど、春原くんが家に遊びに来てお母さんが作ったジュースを飲ませてあげたと言えば、きっとお母さんは喜んでくれる。 

「なんか見る? 卒アルは洋太んちで見たでしょ」
「見た! なまえ、副委員長やってたんだね、すごいね!」
「友達に誘われてやってただけだよ」

 オレンジジュースの入った容器とグラスを2つ、お菓子は部屋に置いてあるからそれだけを持って部屋にあがった。折りたたみテーブルの上にとってきた飲み物を並べて、春原くんを絨毯に座らせる。私は向かい合うこともせずに、少し間を空けて隣に座り込んだ。
 部屋にあげたものの、趣味のない私の部屋は、春原くんの部屋みたいに賑やかなものではない。これといって見せるものもなく、あるものといえば先日洋太が先に見せてしまった卒アルくらい。洋太とは何度も言うけど小学校から一緒だったから、卒アルは中学のものだけじゃなく小学校のアルバムも拝見済みだろう。

 やっぱり中学校のアルバムを見てきた春原くんは、座り込むなり思い出したように口を開いた。友達に誘われてやっていたことだけど、それくらいしか言えない私は笑って誤魔化す。でも、知らなかった私の情報を知った春原くんは、私の話をもっと聞きたいと言いたげな様子で私を見てくれるものだから、私は口を開いた。

「中学の頃仲良くしてた友達がさ、広報委員長に立候補するって言ってたんだよね。私の中学、委員会の委員長は投票制でさ。選挙みたいに意気込み語って、それで全校生徒から投票されて決めんの。演説する友達の横に立って、私も彼女の意見に賛成なので清き一票をお願いします、みたいな感じで演説したのね」
「へぇー。なまえも、立候補して副委員長と演説手伝った感じ?」
「違うよ。 友達がやってって言うから、いいよってやった感じ」
「なまえって、そういうところあるよね」
「そうかな?」

 そういうところって、どういうところ。春原くんの言葉に耳を傾けながらグラスにオレンジジュースを注ぎながら、咄嗟に「そうかな?」と言ってしまったけれど「そうだよ」とすぐに返ってくる。

「誰かに何か頼まれると、いいよって言うんだよ。私がやるよって。文化祭の時もそうだったでしょ?」

 まぁ、言われてみれば確かにそういうところはある。流されやすいわけではないけど、やってと言われたらそれをすんなりを引き受けるタイプではあるし、誰もやらなければ私がやるよと引き受けてしまう。文化祭の時もそうだった。だって、みんな部活動で忙しい時期だったから、帰宅部の私はやっておくねと言っていた。
 だけど文化祭の話題は、春原くんとするのはちょっと恥ずかしい話だった。あの出来事があったから、春原くんと仲良くなれて、今こうしていられてるんだから。当時のことを思い返せば、引き受けて良かったな、と思うけれど、やっぱり恥ずかしくなってしまって、誤魔化すように「よく見てんじゃんか」と告げる。

「クラス一緒になった時から見てたからね」
「ちゃんとクラスのこと見てんの、偉いじゃん」
「うん。 でも、なまえのことは1年の頃から知ってたから」
「え?」

 私が少し恥ずかしい気持ちを抱いていることを春原くんは知る由もない。やたら落ち着いた様子の春原くんは、オレンジジュースの入ったグラスを手に持って、揺れるオレンジ色の液体を眺めながら私が耳を疑ってしまうことを言い出した。

「オレ、なまえのこと1年の頃から知ってたよ」
「え、なんで? ビックリなんだけど」
「洋太とは入学してから知り合いでさ。 なまえのこと、ずっと同じクラスのヤツなんだって言ってたから、知ってたよ」
「えっ、そんな前から知り合いだったの!?」
「そうだよ」

 私は春原くんのことを、2年生になって同じクラスになったことをきっかけに認識した。それまでの春原くんのことは何も知らない。気付いたら春原くんは洋太の傍にいた。運動部仲間って形ですぐに友達になったんだろうなと勝手に思い込んでいたけれど、どうやら入学した頃からの友達だったらしく、私はそれにまた驚く。

「洋太はオレの友達の友達って形で知り合ったんだけど、すぐに意気投合したんだ。1年の頃からずっと話してたけど、同じクラスの時は嬉しかったなー。 んで、同じクラスになまえもいて、マジで洋太と同じクラスになってる!?って感激しちゃって、真っ先になまえと喋りたいなって思ってたんだけど」
「そうだったんだ」
「うん。 でもなまえ、サバサバしてるっていうか、取っ付きにくい感じがあって……」
「それ、よく言われるんだよね。普通にしているだけなのに」

 どうやら春原くんの私に対する第一印象って、あんまりよくないものだったらしい。あの春原くんが取っ付きにくいと感じる私って、どんな態度を春原くんにとってたんだろう。今更になって申し訳なさが浮かび上がってくるけど、思い出しても思い出しても、なにも思い出せなかった。

「文化祭の時に初めてまともに喋ったじゃん、オレ達。 思ったより意外と話しやすい!?って思って」

 そしてここで出てくるのは、やっぱり私たちが初めて会話をした文化祭の話である。クラスメイトだったからそれなりに挨拶くらいは交わしていたけれど、ちゃんと話したのはその時が最初だった。「一緒に話してんの、楽しかったな」と、去年のことを懐かしそうに笑って言ってくれた春原くんは、その頃から私と一緒に話すことを楽しいと思ってくれていたそうだ。

「なまえ、オレのこと、その前から意識してた時期があったって言ってたでしょ」
「うん、あったねー」
「なんで?」
「体育の授業で、視界の隅で遊ばれてたから」
「それだけ!?」
「うん。そっから、なんか自然と春原くんのこと目で追っかけるようになってたんだよね」

 今では懐かしい記憶だ。どうしてあの時に春原くんのことを意識してしまっていたのか、その理由は今でもわからない。まさかあれで終わろうとしていたことが、もう一度繰り返されるだなんて思ってもいなかった。

「春原くんって、いつから私のこと意識してくれてたの?」
「それは、わかんないけど。気付いたらそうなってた。 オレさ」
「うん?」
「その……前の彼女と付き合ってる時も、だんだんなまえのこと考えるようになってて。好きとかわかんないのに、彼女といる時だって、ずっと考えてて」
「うん」
「前の彼女と一緒に遊んでる時にさ、オレ、上の空だったみたいで。「他に好きな人でもできた?」って言われて、なんも言えなかったんだ」

 私の知らない、違う女の子と過ごしていた春原くんの過去がそこにあった。私は、苦笑いを浮かべている春原くんから零れ落ちる話1つ1つに静かに頷いていることしかできない。

「それ言われた時に、オレ、目の前にいる彼女よりも、なまえのこと優先しちゃったんだよ。ひどい話でしょ」
「そんなことないよ。 嬉しいよ、私」

 誰かを好きになって付き合っていくことになれば、他の場所では別れや失恋が巻き起こっているのだと気付いた。好意を寄せられた人からの告白を断っている春原くんの周りには、その巻き起こりに飲まれた人もきっと多くいる。今年に入って嫉妬をぶつけられた一つ上の女子生徒もそうだっただろうし、私と付き合う前に春原くんが付き合っていたその子だって、私がいたことでそれに巻き込まれた。

「選んでくれて、ありがと」

 それでも、春原くんが選んでくれたのは私だった。彼女たちのことを考えてみれば、少しでも可哀想だと思ってしまった私がいたけど、春原くんが選んでくれたことはその同情じみた可哀想だという気持ちをかき消してしまうくらいの嬉しさだ。私は笑ってありがとうを告げた。お互いにどうして好きになったのっていう話を、今更になって改めたように話をすると、くすぐったい恥ずかしさがこみ上げてくる。照れ隠しの笑みだったけど、春原くんもそれに笑って返してくれた。

「なまえ。あの、あのさ」
「っ、なに?」

 ぐっと近づかれて、急激に距離が縮まる。少し顔を上げた先には春原くんがいて、視線がぶつかった。身体が強張る。家に来る途中に勝手に自分の中でおかしな伏線を張ってしまったのがいけなかった。

「オレ、なまえが好きだし、なまえと一緒にいたいし、一緒に過ごしてたいし、オレだけのものでいてほしいって思ってる」
「うん。それは、私も同じだよ」
「だから、その……なんていうか、その」

 なまえの、全部がほしいっていうか……と、もごもご口を動かしながら何かを訴えかける春原くんに、あ、来る、と察してしまった。春原くんが考えていることが、空気をつたって伝わってきてしまうこの感覚を私は知っている。今まで春原くんとしてきた行為はいつも唐突に訪れていたけど、空気に混じってその意思が伝わってきてしまうのは、告白されたあの日に感じたものだ。

「−−そろそろ、いいかなって思うんだけど」

 と、曖昧にそれを口にされて、私は絨毯に触れていた指先に力を込めた。なにを、と聞かずともその意味ははっきり理解ができてしまう。それを言われた瞬間にドキドキが全身を駆け巡って、春原くんの顔を見つめたまま、うんともすんとも言えなかった。

「し、したいな……って、思うようになっちゃって、オレ。 あはは、ごめん、キモいよね」

 春原くんは困ったように私に笑いかける。抱きしめたいとか、キスしたいとか、まず最初にそれを言われるもんだと思っていた。この間、春原くんの家に遊びに行った時みたいな感じにそれをもう一度ここで繰り返されたら、少しずつ頷いて春原くんのことを受け入れていたと思う。なのに春原くんの口からは「したい」とはっきりその言葉が落ちてきた。

「……ダメ、かな?」

 まさかこんなことを直接言われる日が来るだなんて。だけどそうなることは薄ら察してはいた。当たり前のように慣れていないどころか経験したことのないことをこんなふうに求められて、一人頭の中で葛藤を抱き続けていて結局まだ返事ができない。そしたら、少し小さい声で春原くんが尋ねてきた。私は俯いて、やっと発せられた言葉は、動揺して声が震えていた。

「あの……したいって、その……アレを、だよね?」
「うん、そう……アレ……なんだけど」

 春原くんの思考と私の思考が一致した。いわば性行為。それがどんな行為で何を意味するものかのかは知っている。春原くんが性的な欲求を私に抱いている。付き合って10ヶ月近く経ってるんだからそれがくることはおかしなことじゃない。緊張ばかりが体を包み込んでくるけれど、春原くんにそういう目で見られることは嫌ではなかった。だけどこの場に及んで、不安と同時に流れ込んでくる嫌な感情に耐えられなかった。

「……あるの?」

 したこと。前の子と。
 長く付き合うカップルには当たり前にあるような行為だからそんなことを聞くのは間違っているのはわかってる。あるよって言われたら、ショックを受けることだってわかってるのに、黙っていられない私は訊ねる。

「あるって、ゴムのこと? それは、ちゃんと準備してきた!」
「ふふっ……ヤる気満々だったんじゃんか」
「やっぱキモいよね!? 引くよね!?」

 会話が噛み合わなかった。まぁそりゃそうかもしれないけど。それでも準備万端で挑んできてくれたらしい春原くんに笑わない以外の方法は見つからず、両手を広げてわたわたする春原くんに対して、緊張の糸が切れたように笑ってしまった。変なことを気にして、変なことを訊ねてしまった私があほらしいと思って、それ以上のことを聞くことをやめた。でも、私はそれよりも先に言っておきたいことがある。

「私、したことないよ」
「知ってるよ! 当たり前だろ!?」

 これって大事なことだと思うんだけど。それを春原くんに伝えると、春原くんは舞子に言われた言葉を返してきた。それを知った上で、知っている上で、春原くんはそれをしたいと言っていることを知れば、段々不安になってきた。その行為をするってことが一刻一刻と近付いているのだ。

「わ、たし、やり方とか、わかんないし」
「オレも、わかんないけど……」
「え!?」

 思わず春原くんの顔をパッと見あげた。

「春原くん、したことあるんじゃないの?」
「ないよ! ないない! なんで!? 急に不安になった!?」
「い、いや、したことあるんだと思ってたから……」
「ないから! やめる!?」

 必死にそんな経験をしたことがないと慌てる春原くんを見ていたら、心にストンと何かが落ちた。ほっとしたような安心感。それなのに私の心の中には、安心感に続いて恐怖心がくっついてきた。

「え、どうしよう、急に怖くなってきた……」
「どうする!? やめる!?」

 なんだこの、勝手に、複雑ではあったけれど、頼もしいと思えていた春原くんがそうじゃなかったっていう呆気にとられた感じ。春原くんは「やめる!? やめとく!?」を何度も繰り返していて、私は一つ、静かな深呼吸をして首を横に振った。

「大丈夫、す、する……でも、途中でダメになったら、ごめんだけど」
「わかった……」

 緊張とか、そういういろんな気持ちが混ざり合って静かに落ち着いてしまう私と、やたら声を張り上げて落ち着かなそうな春原くんがお互いに正座で向き合った。じゃあ、これからよろしくお願いします。視線でご挨拶を交えると、春原くんは私の手をゆるく掴んで、こちらに身を寄せてキスをしてきた。触れた唇も指先も、細かに震えていて不安が過ぎりそうになる。え、大丈夫?このまま任せてていいの?と抑えきれない不安を告げてしまいそうになるけど、春原くんは唇を離すとすぐに口を開いた。

「む、胸、触っていい……?」
「えっ、う、うん」

 これから襲いくるだろう裸を曝け出す恥ずかしさや、初めての痛みとか、それは想像の中にあるだけの漠然としたものだった。だけど、糸を引くように、春原くんの空気に飲まれるようにドキドキと心臓の音が高鳴っていく。
 女の子同士でも触りたいという気持ちがあるのと同じように、それ以上に女の子の胸を触りたいと思っている春原くんはすぐに胸に興味を示してきた。大丈夫、これくらいならまだ許容範囲内だ。うん、と頷けば震えたままの指先が伸びてきて、優しく胸に触れる。けど制服の上からだった。触っても硬い素材しかわからないだろうし、触られた私は制服を押されているだけって感じしかしない。

「……、脱ぐ?」
「う、うん……」

 服を脱ぐタイミングとか、全然わからないんだけど。上に着ていたブレザーを脱ぎながらそんな余裕じみたことを思ったけれど、シャツの姿を曝け出すと春原くんの腕がもう一度伸びてきて、触れた。まだ寒い時期じゃないから、シャツの下は下着一枚しかついていない。触られればシャツと下着越しといえど、さっきよりは触れられている感覚もあるし、春原くんからの指先の体温も伝わってきて、いよいよ身体が強張りはじめた。
 盛り上がった胸を優しく揉んでくれてる春原くんは「や、柔らかい……」と零して「女の子の胸、初めて触った……」と正直に感想を述べてくれるものだから、あまりの純朴さに、この空気にふさわしくない笑いがこみ上げてきて、身体を震わせて笑いをこらえた。

 なに笑ってんの、そんなことを言う余裕もないのか、春原くんは私を見て顔を寄せてくる。キスをされて、第一ボタンを寛げていたシャツの隙間に指がかかると、私は春原くんの名前を呼んだ。うん?と離れた先で私の言葉を待ってくれている春原くんに、視線でベッドを指す。

「痛いとか、辛いとか、嫌だって思ったら、すぐ言って」

 ベッドの上で押し倒してきた春原くんは優しげに囁いた。この先起こることは、想像できるようで、できなかったけど。

 この日初めて、春原くんと2人で初めてのことをした。