意識



 嫉妬を覚えてしまった私は、それを許された途端に、春原くんのことをますます意識するようになっていた。


「オレに喧嘩は無理だよ!」
「やっぱ、喧嘩してたんだよね」

 教室を出たところで、すぐに春原くんが振り向いて焦ったように口を開いた。一応、よくわからなかったけれど春原くんを怒らせた、ということよりも、喧嘩したっていう方が手っ取り早い気がしたからいつメンには喧嘩しただなんて言っていたけど、春原くんにとっては実際その通りだったらしい。

「だって、機嫌悪かったでしょ!? それ、教えてくんないし」
「だーかーら、機嫌悪くないってば。 春原くんが勝手に言い出しただけでしょ」
「そうだけど……」

 往生際の悪い春原くんはいつまでもそれを譲る気がないらしい。機嫌悪いでしょってこと。どうしてこんなにもそこに突っかかってくるんだと思いながら、変わらず諦めのつかない様子の春原くんを見る。
 本当は、自分の中で取り止めのない感情が渦を巻いていて、勝手に複雑な気持ちを抱いてやたら苛立ってしまっているだけっていう面倒くさいことをしていた。これはとっくに自覚済みだ。だから春原くんと距離を置こうとしていた。それでも私の異変に気付いて離れてくれない春原くんを見続けていたら、一周回って冷静さを取り戻していた。

「……でも、やっぱり私も、モヤモヤーっとした気持ちでいるのは無理かも」

 なんか、春原くんが勝手に焦ってる姿見てたら冷静になってきたかも……と、ここでやっと口を割った。あまりにも純粋で、同様に無神経さも兼ね揃えている春原くんは、絶対これ以上何かを言っても引きを取ることはしないだろう。かといって私が折れて口を開く、なんてこともこうならなければなかったことなのかもしれない。何も言わない私に不信感を抱くような春原くんの姿を見ていると、これ以上なにも悪くない春原くんを間接的に責めているという形でいるのは嫌だと思った。

「昨日のこと、ビックリしてたっていうか、なんていうか」
「やっぱり、嘘ついた、みたいな感じになっちゃったこと?」
「違うよ。 お姉さんと一緒にいるところ」
「姉ちゃんに紹介したのまずかった!?」
「そうじゃないんだけど。 なんか、話しかけられる前に、その」

 本音を吐くって、どうしてこうも緊張みたいな、悪い意味でのドキドキとした感情が過るんだ。そりゃ自分が勝手に思い込んでいたことを口にしたら、相手はどう思ってるのかわからないし、もしかしたら馬鹿にされたり、笑われたり、呆れられたりするかもしれない、そういう悲しい部分から訪れる悪い意味での気持ちだった。

「春原くんに気付いてたから。女の子と一緒に歩いてるの。それが、ちょっとビックリしたっていうか」

 春原くんにとっては、ただ実姉であるお姉さんと一緒に買い物を楽しんでいただけなのに。それを知るまでは流石に勘違いをしてしまうけれど、それを知った後だって、このモヤモヤっとした感情が抜けきれなかった。ただのお姉さんなのに。仲睦まじい姉弟、一人っ子の私にとっては、憧れている存在でもあるはずなのに。
 それでも、彼女は私と同じ女であることに変わりはない。ずっとモヤモヤと抱いていた感情、それが意味する理由を私は知ってしまっていた。

「ん? え? ……それって、オレが浮気してるんじゃないかって思ったってこと?」
「浮気……っていうか……勘違いしてたっていうか……お姉さんと一緒にいるの、面白くない、っていうか、やだなって……」
「……じゃあ、やきもち、とか?」
「……ま、まぁ、そうかも……」
「え」
「ごめんね。 ちょっと、複雑な気持ちになっちゃっただけ」
「なまえ、妬いたってこと? オレと、姉ちゃんが仲良くしてる姿に?」
「……うん。 馬鹿みたいな話でしょ」
「本当に妬いたの? オレが、いくら姉ちゃんでも、なまえじゃない他の女の子と一緒にいる姿に?」
「そ、そうだよ! いちいちそんな事細かに言わないでよ。私だって、馬鹿みたいなこと思ってるってわかってるのに!」

 頑張って吐き出した本音に、春原くんは何度もそれを聞き返してくる。馬鹿にされるとか、笑われるとかされると思っていた私は、一向に出てこないことに恥ずかしくなって声を上げる。やっぱ、やきもちとか馬鹿みたい。

「……嬉しい」
「は!?」

 てっきり、笑われるもんだと思ってた。なに言っちゃってんの、ただの姉じゃん。そういうのを想像していたのに、春原くんは口元を隠して、顔を真っ赤に染め上げて言った。私、こんなに頑張って、馬鹿にされるのを覚悟で言ったのに。なんで嬉しいなの!?と、心の中で叫び声をあげた。

「嬉しいなって、思って。 だってなまえ、やきもちとか妬かない人だと思ったから! いつもオレばっかりじゃん!」
「春原くん、私にやきもちなんて妬いたことないでしょ」
「あるよ! この間とか、そうだったし……」
「それくらいでしょ」
「他にだってあるよ。今日だって、そうだったし」

 この間、というのは洋太と喧嘩したあの時だ。ぽろっと言われた春原くんの言葉、やきもちを妬かれるだなんて思ってもいなかった。やきもちを抱かれて嬉しいとは思っていたけれど、え、だって洋太はただの友達なのに……と思っていた私は、それもあって実姉にやきもちを妬いたことを馬鹿にされるのを覚悟していた。今日のことは、知らなかったけれど。休み時間に声をかけられて、プリントを差し出したことが春原くん的には妬いていたらしい。
 たかがそんなことで。とられるんじゃないか、という不安よりもただ単に誰かと親しくしている姿だけでイラついてしまうくらいの嫉妬を抱いていた。だけど、それを春原くんは嬉しいと言う。嫉妬だなんて馬鹿みたいだって思っていたのに、それは春原くんにとっては嬉しいことで。

「私、春原くんにやきもち妬いちゃっていいんだ……」
「いいよ、当たり前だよ! だって彼女なんだから」

 同級生とか、部活仲間とか、自分の突き入る隙がなく不甲斐なさから訪れていた意味のある嫉妬ではなく、ただ単に私と同じ性別の人間が仲良くしているだけっていう自己中心的に勝手に抱いた嫉妬は、普通にしててもいいことなんだと、その答えだけが染み渡る。嬉しそうな春原くんは口元を緩めて言った。

「なんか、オレだけのもの! って感じがする……」
「うわ、クッサ」
「傷付くんだけど!?」

 あ、本当に私って、春原くんのものなんだ。他のクラスメイトみたいに同級生ってわけではなく、家族とはまた違った特別な存在である。嫉妬をすることは間違っていないことで、それをすれば春原くんは嬉しいと思ってくれる。馬鹿にされると思い込んでいたことを、覆されたように嬉しいと思ってもらえたことに私の心は救われた。

「妬かれんの、すごく嬉しいなって思っちゃって」
「わざと妬かせるようなことしないでよね」
「わかってるよ! オレ、そこまで意地悪じゃないよ」

 手を繋ぎながら、より一層春原くんの近くにいれることを許された私は嬉しさが込み上げてくる。きっと春原くんが私にやきをもちを焼かれていた、というのを知って嬉しがっていたのと同じように、私は嬉しかった。

「そういえば、お母さんが、春原くんに会ったって」
「あ、うん、会った! めちゃくちゃ若かった!」
「そう? ありがと。でもごめん、私、親に彼氏できたことまだ言ってなくて」
「余計なこと言っちゃったよね!?」
「いや、いいんだけど、言えたし」

 たった徒歩15分の距離、あの大通りを越えると家はすぐ近くにある。家が近付いて、テンションが上がってきたところで思い出したように先日の、謝りたかった1つのことを謝まることができた。

「ここまででいいよ」
「うん」

 ……と言ったものの、春原くんの指が離れてはくれなかった。

「……どうしたの?」
「まだ、一緒にいたいなって思って」

 離れてくれない指先を見ていると、今度は春原くんの口から落ちてきた言葉にドキッとした。え!?と思って、春原くんを見上げてみると、そこにはやけに優しげな笑みを浮かべている春原くんがいた。私が想像していた、恥ずかしがっていたり緊張しているような春原くんじゃない。春原くんは、こんなに優しげに笑ってくれる人だっけ。まるで年上の男の人を見ているような気分だった。同時に、私の心臓の音が大きくなっていく。私もまだ一緒にいたい。傍にいてほしい。
 大通りを超えた場所には、私の家がある。

「……うち寄ってく?」
「え」
「……」
「……いいの?」
「うん」

 一緒に帰ってるし、ついでに、という感じで私は告げた。特に深い意味はない、と思いたい。この間は春原くんの家に遊びに行ったし、すぐそこには家があるから、そのついでである。春原くんは一つ間をおいて「じゃあ、行く」と数回頷いた。そうすると春原くんは「あ、でもオレ」とちょっと焦ったように口を開いた。

「……なんも持ってきてないや」
「えっ!?」
「コンビニってこの辺にあったっけ? あ、そういえばこの間、洋太とスーパーに行ったけど……」

 え、なに、怖いんだけど。どうしよう、そう一つ零した春原くんは辺りをキョロキョロと見渡して、コンビニかスーパーを探しはじめた。なんだか急に人が変わったように思えてしまって私は硬直する。
 なに考えてんの!? そりゃ私だって、まだ一緒にいたいとか傍にいてほしいって思ってたけど。突如身体に緊張が走って、もしかしたら……と思ってしまった私は引き気味に訊ねる。

「え、あの、あのさ、なに買うつもりなの……?」
「なにって、お菓子とか? 手ぶらで行くのはまずいでしょ?」

 「もしかしたらなまえのお母さんにまた会うかもしれないのに」と春原くんは首を傾げながら私に返した。あ、そっちか。そうだよね。そうなんだよね。私、なに考えてるんだ。私がなにを考えていたんだ。覚悟とかよりも真っ先に訪れたいかがわしい「これから」のことを考えてしまうと、本当になに考えているんだという気持ちになった。そのいかがわしいものを紛らわせるように首を振って口を開いた。

「気にしなくていいよ。 それにこの間、私なにも持って行かなかったし」
「それは……だってうち、親いなかったし」
「うちも今は親、いない、けど……」
「え……」
「共働きだし、今日は遅い時間に仕事終わる日で……あ、なんでもない……」
「……うん」

 なに余計なことを口走ってんの。親がいないっていうのは、手土産なんか気にしなくていいからって意味で言ったことなのに。紛らわすために振りほどいたものが抜けきれず、頭の中に余計なことが入り込んできて、おかしなことを口走ってしまった。
 ちょっとギクシャクとした居心地の悪い空気の中、「どうする?」「じゃあ、このまま行く」「うん」……家に帰るまでの会話はそれだけだった。