意識



 初めて、春原くんに取り巻く人に嫉妬や焦りを覚えてしまった頃、春原くんは大学に合格していた。


 春原くんには私の知らない友達がたくさんいて、私が付け入る隙がないほど身の回りに好かれている人だということは怪我をした時に知ってしまったことだけど、それとは違った複雑な感情を抱いてしまったのは初めてだった。それを思い出すのと一緒に思い出してしまう、春原くんに浮気されたかもしれないって勘違いをしてしまった昨日のことが恥ずかしくて仕方ない。

「なまえ、あのさ!」
「なに」
「……どうかした?」
「いや、別に……」

 翌日、春原くんが休み時間の合間に声をかけてきた。高校からの指定校推薦と大学からの推薦が合わさった大学の合否発表が今朝あったらしく、高校と大学から同時に声が掛かった春原くんはほぼ100%に近い確率で合格することが決まっていたけど、合格通知を手にしておめでとうと祝われている春原くんはその合間を抜けて私の元にやってきた。

 今日は大学の合否発表関係のこともあり、朝は担任に呼び出されていたらしくSHRのギリギリの時間に登教室に入ってきた春原くんに、朝に話せず言いそびれてしまった「大学合格したよ」っていうことと「昨日はごめんね」っていうことを、ここで報告されて謝られてしまった。だけど、声をかけられた時に私の機嫌が少し悪いと感じられてしまったのか、春原くんは少し引き気味に私に訊ねてくる。

「なんか……怒ってる?」
「怒ってないけど?」

 春原くんは私の機嫌を伺うように訊ねてきた。別に怒ってないけど。怒ってはいないんだけど、そう言われると私の頭の中で何かがピキリと音を立ててしまった。このイライラは、おそらく身に覚えのない感情を抱いてしまったことによる、情緒の不安定さから訪れているものだろう。前に一度、春原くんのことを考えたくないと思っていたあの時期の感覚に似ていた。春原くんは悪くないんだけど、ちょっとそっとしておいてほしいというのが、正直な気持ちだった。

「オレが昨日、嘘ついちゃったのかいけなかった!?」
「嘘って、勘違いしてて、気を利かせてくれただけでしょ」
「……機嫌悪くされんの、それくらいしか思いつかないし……」
「別に機嫌悪くないから」

 機嫌悪いと思ってるなら、話しかけてこないでほしいんだけど、というのが私の本音である。やばい、今の状態でこれ以上春原くんと話していると、謎の怒りのボルテージがどんどん上昇していってしまいそうだ。おかしな八つ当たりをして春原くんのことを傷付けたくないのも本心で、自衛のために席を立ち上がった。「トイレに行きたいから」と春原くんを巻いて、別に行きたくもなかったトイレに駆け込もうとしたけど、春原くんが後を追ってくることはなかった。


「なまえ!」
「……なに?」
「一緒に飯食べよ!」
「私、友達と食べるから」

 ううっと唸り声をあげた春原くんは、昼休みが始まるとすぐに駆け寄ってきて私に声をかけてきた。しばらくほっといてくれたら、この荒んだ気持ちも収まってなんでもなかったように振舞えるはずなのに、やたら話しかけられるせいで一向にこの気持ちが収まらない。

「なまえ、百くんと喧嘩でもしたの?」
「してないけど、なんかイライラしちゃって」
「百くん、なまえとすごく話したそうな感じするけど」

 お昼ご飯はいつもの友達と食べるから、と本日2度も春原くんを巻いたけど、こゆきと購買に行こうとすると教室を出たところでこゆきが訊ねてくる。思いっきり近い場所であんなことになっているとこゆきは自然とそれを察してくれたようだけど、そこでは何も言わず、それでも気になったらしいこゆきが心配そうに見つめてくる。「倦怠期?」と聞かれて、そんな感じとはぐらかしてしまえば「そっかぁ」とこゆきは呟いた。

「なまえ、話があるんだけど……」
「もう、なんなの」

 だけどお昼ご飯を食べ終えて4人で話をしていればまた春原くんがやってくる。今日の春原くんはやけにしつこい。そんな気持ちを抱きながらも「話がある」と言われてしまえば席を立つしかなかった。

「なんで機嫌悪いのかなって思ってて」
「別に悪くないから。 そういうこと言われると、逆にイラついてくるんだけど」

 春原くんに呼び出されて、授業がない時間はほとんど人気のないパソコンや美術室が並んだ離校舎に連れてこられた。ここなら誰も来ないでしょ、と眉間に皺を寄せた春原くんはまた同じようなことを言い出す。あまりのしつこさについ本音を零すと春原くんはギョッとした顔を見せてくれるけど、そういえば純粋であると同時に、無神経さも持ち合わせている春原くんは、そう簡単に後に引いてくれなかった。

「でも、怒ってんじゃんか」
「怒ってないって……なんでそう思うの」
「なんか、そんな気がするっていうか」
「気がするだけでしょ」

 でも、だって、という怒っているような気がしただけという春原くんが、駄々をこねる子供みたいに口に出してくる言葉一つ一つが頭に突き刺さる。
 私だって、本当は昨日見たお姉さんと仲良く歩いている姿に嫉妬しちゃっただけっていう、馬鹿みたいな話をすれさえすれば、私の気はすぐに収まるのかもしれないけど。そんなことを言われた春原くんは、一体どんな気持ちになるんだろうか。そんなことを言われようが実姉なんだから仲が良いのは当然のことだ。そんなことは私もわかってる。だから馬鹿みたいな嫉妬心を抱いてしまったことは自覚しているわけで、わざわざ春原くんに向かって言う話でもない。
 だから少しだけ距離を置いて、自分の中に存在している今の気持ちを落ち着かせればすぐにこんな気は収まるのだ。

「ちょっとだけ、そっとしといてほしい」

 ちょっとっていうのは今日だけでいいから。そんな言葉を付け足して春原くんに言ってみせれば、あろうことか春原くんは痺れを切らしたように、すっと息を吸い込んだ。

「なら、好きにすればいいじゃんか!?」
「えっ、なに怒ってんの!?」

 わかった、と言ってそっとしておいてくれる春原くんを想像していたものの、いきなりそんなことを言い出して怒り始めた春原くんに呆気に取られてしまった。なんで春原くんが怒ってんの? 今の瞬間で、私がもやもやを抱いて荒んでいた気持ちがすっと引いていって、頭に浮かぶのは無数のクエスチョンマークだ。機嫌悪くないって言ってるのに、機嫌悪いでしょと言われて怒りそうになるのはこっちの方なのに。
 ぷんすかという効果音がよくお似合いの春原くんは、それを告げて私を置いてさっさと教室に戻ってしまった。春原くんが一人で怒り出して教室に戻っていく後ろ姿を見て、本当にどうして春原くんが怒っているんだと、ある意味での動揺が隠しきれなかった私は、ただ立ち尽くして背中を見届けることしかできなかった。

「春原、なんだって?」
「春原くんの話はやめて」
「別れたー?」
「別れてないけど、喧嘩した」
「はぁ!? あの短時間で!?」

 教室に戻って席に戻ると、3人が私の席を囲って変わらずに話をしていた。教室に戻った時に、クラスの男友達と仲良く話をしている春原くんと一瞬目があったけど、ぷいっと顔を背けられてしまった。春原くんが何で突然怒り出してしまったのかもわからないまま、だけどそういう態度を取られるってことは、これは一種の喧嘩か何かなんだろう。いつメンの輪に溶け込めば自然とそういうことを聞かれるけど、春原くんが勝手に怒り出した、なんてことを言えるはずもなく、喧嘩したと言った方が手っ取り早いと感じた私は、喧嘩をしたとそれだけを口にした。
 春原くんとこんなことになるまで、春原くんの存在やその単語にため息を吐きそうになるほど嫌気がさしていたというのに、祐未が半分笑いながら「別れた?」と訊ねてきた言葉に、それをさっとスルーできるくらいには私の気持ちは落ち着いている。

「百瀬くん、かわいそー」
「だっていきなり怒りだすんだもん」
「なまえが春原にそっけないのが悪い。そりゃ怒るって」
「そんなら、別れちゃえばいいのに」
「こら、祐未!」

 こんなことになってしまったのは私の春原くんに対する態度が問題だったんだろう。周りがわかっているのと同じように、私だってそれはわかってる。だからこれは私の問題だし、喧嘩じみたことに発展してしまったのは私たちの問題なのだ。
 別れちゃえばいいのに、と言った祐未の本心は本当に気に食わなくてそう思っているのか、はたまた他人の恋愛ごとのもつれを面白がっているのかはわからないけれど、別れちゃえばいいのにと思っている人はこの場所に限らずどこかでそれを密かに思っている人たちはたくさんいると思う。でも、春原くんが私のことを好きでいてくれる限り、それはきっと訪れないということは気付かぬうちに春原くんと一緒にいることで保つことのできた自信の一つである。


「みょうじさん、あのさー」
「んー?」
「さっきの就職試験のプリントのことだけど。ここ、さっき先生なんて言ってたか教えてくんない?」
「ちょっと待ってて、私メモ取ってるから」

 5時間目の授業は進学と就職コースが分かれる授業があって、就職コースは応募書類と選考の時期が近づいていたこともあって授業の時間が押していた。6時間目にはHRの授業があるけれど、それまでの10分休憩の半分くらいが授業に飲み込まれてしまったので、教室に戻るなりすぐに席についていた。そうしていると、背後から、同じ就職コースの授業を受けているクラスの男子が声をかけてきたのだ。

「……、あ、あの、これ、ちょっと借りててもいい?」
「いいけど……?」

 ここを教えてほしいという場所を、記憶を辿って思い出しながら答えるよりだったら、細かいところまでメモしておいたプリントを見せて説明した方が絶対いい。おもむろに机の中からプリントを取り出して「ここだよね?」と彼に声を掛ける前に、居心地の悪そうな顔を見せた男子は私の手からプリントを奪い取って、やたら背後を気にしながら席に戻っていった。え?っと首を傾げながら、教室の後ろにあるロッカーに視線を移してみれば、眉間にしわを寄せて不機嫌そうな春原くんと目が合った。
 きっと彼は、春原くんの物言いたげな視線に耐えられず私のプリントを勝手に奪って行ってしまったんだろう。


「−−やっぱオレには無理!!」
「きゃっ、びっくりした!」
「あっ、ごめんっ」

 なんやかんやあったお昼休みから、春原くんと会話をすることはなかった。そりゃたった3時間くらいの時間で、授業は2コマしかしてないんだから、いつも通りの日常となんら変わりないといった感じで、私は特に気にも留めていなかった。今日は2時間おきに春原くんが声を掛けてきてたから、そっとしておいてほしいと言った時間はたった3時間で綺麗に薄れていく。喧嘩、というよりは突然怒り出した春原くんに呆気にとられてその存在を忘れてしまったのか、余計なことを考えなくても済んでいた。

「もう、なに?」
「今日、一緒に帰ろ!」
「うわ、春原がこんなところで言い出すなんて珍しい」
「今日は、こゆきと舞子と遊びに行こうとしてるんだけど」

 春原くんが話しかけてきたのはホームルームが終わってすぐだった。今日はこゆきと舞子と一緒に街に遊びにいく予定をあらかじめ立てていて、彼氏との約束も家の用事もないって言ってたこゆきと久しぶりに遊びに行ける日だった。舞子とは家が同じ方角だからほとんど毎日一緒に帰ったり、寄り道で遊びに行ったりもするけど、家の方向が違って、中学の友達と頻繁に遊んでいるこゆきと予定が合って一緒に遊べるのは久しぶりだったから、私はそれを期待していたのだ。

「わたしは全然大丈夫! だから百くん、なまえをお願いします!」
「え!?」

 それなのにこゆきは、私の肩を掴んで私のことを春原くんに押し付け、その傍らで舞子が「おっ、こゆきやるねー」とこゆきに称賛の声をあげる。約束していたっていうのに2人に見放され、春原くんに押し付けられた私は混乱するものの、私の意志はこの3人には聞き入れてもらえないどころか考えてすらもらえない。

「こゆきちゃん、ありがと! 碓井さんもごめんね」
「気にしなくていいよー」

 結局、輪の中から外されたのは私の方で、友達に取り残された私は春原くんと一緒にいるしかない。はぁ、とため息を吐いて鞄を持ち上げるとふっと気付いた。あれ、春原くんって、こゆきのことは下の名前で呼んでいたっけ。そんなことすら頭に引っかかって仕方がない。