意識



 春原くんが女の子と一緒に歩いているのを見てしまったのは、春原くんに約束を断られた日だった。


 春原くんに2度に渡って可哀想な思いをしてしまったということを自覚した翌日、春原くんに謝ろうと思って「今日、一緒に帰らない!?」と声をかけると、それを断られてしまった。春原くんに話を持ちかけて断られるのは初めてだった。

「今日、病院行かなきゃいけなくて」

 春原くんが断った理由はこれだった。今日は病院の日だから親が迎えに来るんだ、とそう言っていた春原くんに、それなら仕方がないと思って別に傷付きはしなかったけど、謝るタイミングを見失ってしまった。そこでいきなりごめんなさいと言い出せる話題でもなかったから、私はそのまま春原くんとさよならを交わしたのだ。

「駅のプラザに新しいクレープ屋がオープンしたって!」
「じゃ、今日はそこ行く?」
「行こ!」

 舞子は部活を引退して、たまに部活の様子を見に行くことはあるけど、放課後は舞子と一緒に過ごすことが多くなった。一緒に帰宅することがほとんどで、昨日はそのまま家に帰ったけど、ただ一緒に帰るっていうことは少ない。基本的にいつもどこかに寄り道をして遊んで帰る。お前らよく飽きないよなって洋太に言われるんだけど、遊び盛りの私たちにとっては、それとは全く無縁だった。あとは、卒業したらきっと遊ぶ時間どころか会う時間も減っていくから、今のうちの思い出作りってやつだ。

 ラウワンに行ったり通り道の書店に行ったり、お金に余裕があれば電車に乗って街に行く。そんな日常を繰り返していたけど、今日は駅前のデパートに新しいクレープ屋がオープンしたという話を聞いた舞子がその話題を出したから、すぐにそこに行くことを決めたのだ。

 食品店が立ち並ぶデパ地下の中に新しいお店が入っていた。いろんな種類が並んだクレープ屋は、古本屋に店を広げている屋台よりも種類が多くて、そこそこのお値段がする。高いねって話してたけど、自分たちが食べる分にはちょっとした贅沢で、家族への土産はクレープともあってできなかったけど、そんなことを考えないまま胃の中に放り込んだ。美味しかった。後で親に行って紹介してあげようって思うくらいに。

「どーする? 上見てく?」
「冬服安売りしてるかなー」
「じゃ、ちょっとだけ見に行こうよ」

 クレープを食べ終わって満足したけど、これだけで帰るって言うのはちょっと物足りない。せっかく駅前に来てビルに入ったんだから、ちょっと上のものを見ていこう。3階のレディース服が並んだ場所にエスカレーターで登って行くと、そこで、春原くんの姿を見かけたのだ。

「あー、舞子。 あっちの店が気になるんだけど……」

 一瞬、何かの見間違いだと思った。だって春原くんは、今日は病院に行かなきゃならないから一緒に帰れないし、親が迎えに来ているって、はっきりそう言っていたのだ。だからこの時間に春原くんがこんな場所にいるはずもなくて、それに"親が"ってはっきり言っていたから、そこには親御さんがいるはずなのだ。それなのに春原くんらしき人を見てしまった。若い女の子と一緒に歩いていた。見てはいけないものを見てしまったという咄嗟の判断から、死角になるレディースファッションのショップに舞子を押し込める。

「マネキンのこれ良くない?」
「わかる」
「でもさ、これと同じコーデすると、うわっ同じだって思われるじゃん」

 私の視界に映りこんだ春原くんらしい人は、やっぱり女の子と一緒に歩いていた。目を疑うような光景だったけど、ガラス張りのエスカレーターを挟んだ向かい側にいる春原くんの様子を洋服が溢れかえる棚の端っこから盗み見ながら、私が気になると言ったショップのマネキンに興味を示した舞子と話す。舞子と話しているけど、私の意識は春原くんらしき人物へと向いていた。いや、だって、あの後ろ姿は紛れもなく春原くんなのだ。あのリュックとか、制服とか、いつも見てるんだから見間違えるはずもない。

「上の店も見たい」
「あんま安くなってないしね」

 隣にいる女の子に声を掛けたらしいその男子の横顔を見て、やっぱり春原くんであると確認した。にこにこ笑っている女の子に腕を引っ張られ、その子に向かって笑顔を見せている春原くんが下りエスカレーターの方向に向かって行こうとする姿を見てしまえば心臓が嫌な音を立てる。だけどその瞬間に、見なかったことにしようと思って舞子の腕を引っ張って、とりあえず同じフロアにいるのを避けようとした。

「……あれ、春原じゃない?」
「え」

 エスカレーターで上のフロアに向かっていく中で、春原くんの姿がもうすぐ消え去るって時に舞子が声を上げた。最悪のタイミングだ。舞子が気付いてしまった。

「女と歩いてなかった?」
「いや、春原くん、今日病院だって言ってたし」
「ちょっと戻ろ」
「え!? いや、なんで!?」

 私の顔をじっと見ていた舞子は、思い立ったように登りのエスカレーターを逆走して降りようとする。いろんな意味での焦りが込み上がって、舞子の腕を慌てて引っ張った。「ちょっと待ってよ」そう言って引き止めれば、舞子は再び私の顔をじっと見上げた。

「だって、あれ春原だったよ」
「だから、今日は病院だって」
「女と一緒にいたじゃん」
「見間違いじゃ……」
「なまえ、嘘吐かれてない!?」
「え!?」

 エスカレーターが登って春原くんの姿が見えくなった後に、エスカレーターの上で舞子と言い合いをした。頑張ってはぐらかそうとしたものの、舞子の言葉に身体が跳ね上がる。きっとあれは何かの間違いだと思っていたのに。嘘をつかれた? 春原くんに? 病院に行くといいながら、他の女の子とデートしている? 舞子に言われてその現実が身体の節々を伝わっていくと、私は言葉を失った。

「確認、確認だけ!」
「ま、待ってよ! 確認って……もし本当に春原くんだったらどうすんの」
「問い詰める!」
「嘘でしょ!?」

 ああそうだ、舞子はこういう子だ。私みたいに、見なかったことにしようなんて考えることもなく、舞子は攻めに行く姿勢を見せてくれた。

「じゃあ、私が話しかけてくるから。その女誰!?つって」
「やめてよ、明日から気まずくなるじゃんか!」
「春原の浮気現場目撃して今更気まずいとかないでしょ!?」
「うわっ……浮気って、ただ女の子と一緒にいるだけかもしれないし」
「だって腕組んでたじゃん!?」
「そ、うだけど」

 さらっと見えてしまった瞬間は舞子も目撃してくれていたようで、確かに春原くんはその女の子に腕を掴まれていて、やたらと密着している様子に見えた。仲良く喋っている姿はやはりどう見てもそれで、浮気とはっきり言われてしまえばその現実が一気に押し寄せてくる。悲しいことに、今の私には春原くんが浮気に走ってしまうような理由がいくつか存在しているのだ。

「女とあんなフロアうろついて、腕組んでるって、浮気以外なんもなくない!?」
「私が! 明日さらっと聞くから! 昨日何してたって!」
「病院行ってたって言うでしょ!?」

 エスカレーターを降りたところでも、舞子と言い合いを重ねていた。登ってくる年配の女性がとても邪魔そうに私たちを見てくるけど、それを気にも止めず、その場所から一向に動かないまま舞子と揉めていた。
 春原くんはそういうことをしない人だと思っていたけれど、とても言い逃れできない状況に必死に信じ込みたくない私がいた。それに、まだあれが100パーセント春原くんだと決まったわけじゃない。

「……あれ、なまえ? 碓井さん?」

 春原くんだと決まったわけじゃないのに、声をかけてきたのは別人でもない春原くん本人だった。いつの間にかエスカレーターでこのフロアに登ってきたらしく、目に付いた姿に「す、春原くん……」と細い声がこぼれ落ちる。春原くんの隣には、春原くんより頭一つ分背の低い、私と同じくらいの女の子が立っていて、彼女の指先は携帯片手に春原くんの制服の袖を掴んでいた。

「何してんの、こんなところで」
「春原! その女誰!?」
「ちょっと、舞子!?」

 エレベーターを降りた春原くんは私たちに声を掛けてきたけど、その声をかけられるなり、舞子が声を上げる。下手をすると今にも春原くんの胸ぐらを掴んでいきそうな舞子の腕を必死に掴みながら静止をかけると、舞子の声にビクッと反応した女の子は春原くんを掴んでいた手を離して、私たちを見る。そして「百の友達?」と声をかけていた。私たちの間では彼氏と、友達の彼氏の浮気現場に遭遇した修羅場状態だっていうのに、春原くんは焦りを見せるわけでもなく、平然と彼女の言葉に頷いていた。

「うん、クラスメイト」

 と、春原くんが彼女に告げたことに、胸にグサリと何かが刺さった。クラスメイト。2人まとめて紹介するようなその発言に私は身体を硬直させたけど、舞子はわかりやすくピクッと身体を反応させていた。

「あ、こっち、この子、なまえだよ。 オレの彼女!」

 だけど、春原くんは私を指差して、彼女に告げた。クラスメイトと一括りにされて静かな反応を見せてくれた舞子だったけど、春原くんのちゃんとしたセリフに、お互い視線だけを合わせて心の中で同時にほっと安堵の息を零したのだ。

「わ、生のなまえちゃん! 百が、よく話してくれてるんだよ!」
「んで、こっちが碓井さん。なまえの友達」
「ソフト部の子!」
「そうだけど、声のトーンでかいから、ちょっと下げて」

 よくテレビのバラエティ番組で取材を受けている一般人みたいな、賑やかそうな印象を受ける彼女は、私たちを指差しながら「知ってる!」といった様子で春原くんと交互に見据えて反応を見せてくれるんだけど、目の前で彼女を落ち着かせる春原くんに「え、誰?」と呆気に取られてそれを零したのは舞子だった。私たちは彼女のことを全く知らないでいるのに、彼女は私たちのことを知っている様子だった。

「誰って、オレの姉ちゃんだけど……」
「……、だよねー、私もそうだと思ってた!」
「は!?」

 −−姉ちゃん? 春原くんの、お姉さん?
 私たちが頭の中で浮気相手=お姉さんだと勘違いしていたことがすり変わると、真っ先に反応を見せたのは舞子で、手のひらを返したように猫撫で声をあげはじめた。そうだと思ってた、とか全然そんなことないのに。一番疑いを掛けてて、殴り込みにいくような勢いだったのに。はぐらかす舞子は「だって似てるじゃん!」と私に向かって言ってくる。嘘でしょ。まるで私が一人だけが勘違いしていたみたいに舞子は私を突き放してくるんだけど、「似てる?」「似てるか?」「似てるって初めて言われたかも」と春原くんとお姉さんが交互に顔を見合わせている姿こそ、まさに修羅場だった。

「いや、だって、春原くん、今日病院に行くって……」
「あ、それ、明後日だった!」
「6と8を間違えてたんだよね」

 咄嗟に病院に行くと言っていたことを掘り出すと、お姉さんが困ったように言葉を吐き出した。どんな間違いだよと思ったけど、わからなくもない。親が迎えに来ると言っていたけど、間違いに気づいたお姉さんが迎えに来て春原くんのことを遊びに連れ出したらしい経緯も聞いた。

「なまえ、碓井さんと一緒に帰るって言うから。じゃ、どっか遊びに行ってるんだろうなって思ってて、声かけなかったんだよ」
「そっか、お気遣いありがと」
「下のお店がね、新しくできたっていうから来ちゃったんだよね」
「あ、私たちもそれでここに来てて!」
「やっぱり行くよね!? ほら百、女の子ってこういうもんだから」

 私と春原くんが話している傍らで、さっそく舞子と仲良さげに話しだした春原くんのお姉さんを見る。可愛くて、綺麗な人だった。お洒落な洋服を着て、綺麗に化粧をして、明るく振舞っている2つ年上らしい20歳を迎えているお姉さんは、私たちとは2つしか年が変わらないというのにやけに大人びて見えて、同時に自分の子供っぽさを感じてしまった。ほら百、と春原くんの肩を突いているお姉さんの姿は、普段からでも仲睦まじい姉弟関係を築いているんだろう。

「……なまえ?」
「あ、いや……」

 ひょっとしたら浮気をされてしまったかもしれないと思ってしまった自分が恥ずかしい。春原くんに対する信用がなかったのかもしれないと思うこと以前に、実姉であるとはいえ、春原くんが仲良さげに歩いていた姿を思い出せば、胸に引っかかりを覚えてまともに春原くんの顔も、お姉さんと2人揃っている春原くんの姿も視界に入れ続けていることなどできなかった。仲が良いんですね、そんな言葉が出てこないくらいには、バカみたいな嫉妬心を抱いて、それを飲み込んだ。