意識



 春原くんに可哀想なことをしてしまったということは、負の連鎖ごとく起こってしまった。


 朝、上履きに履き替えていると隣から「おはよう」という声が聞こえてきた。相手は昨日遊んだばかりの春原くん。松葉杖とギプスの生活が終わると一人で登校するようになったらしい。だけどまだ自転車通学は心配した親が許さないらしく、朝の変わらない時間に親に送ってもらって登校しているそうだ。

「昨日はありがとうね」
「オレの方こそありがとね!」
「今度はうちに遊びに来てよ。私の卒アルも見せるから」
「あっ……うん」
「なに? どうかした?」

 春原くんの周りには誰もおらず、私の周りにだって誰もいない。だから必然的に春原くんと一緒に教室に向かうことになるんだけど、春原くんと一緒に教室に向かえるのは夏休み前以来で、ずいぶんと久しぶりだった。他愛のない話をしていく中で、春原くんの家に遊びに行けたんだから、じゃあ今度はうちに遊びに来る番なんじゃないか。だけど私の部屋に置いてあるのはテレビや少女漫画類ばかりで春原くんの好きそうなものなんて置いてない気がするし、見せるものと言ったら私の中学の卒業アルバムくらいしかない。でもそれを口実にしてしまえば、春原くんを家に呼ぶことができると思って出た言葉だった。だけど、春原くんはちょっと申し訳なさそうな顔を見せる。

「今日、洋太んちに遊び行くことになってて」
「あ、なるほどねー。 洋太、誘うの早いじゃん」
「なまえと遊んだら次によろしくって言っててさ」
「春原くんと遊ぶの楽しみにしてたんだよ。卒アル、洋太に見せてもらって」

 洋太のやつ、さすがっていうくらい誘うのが早い。自然と卒アルを見る流れになると思うから、それは洋太に譲ってあげた。「でも、なまえの家にも遊びに行ってみたいな」と春原くんが言ってくれたから、卒アルの口実なしに「じゃあ、今度遊びに来てよ」と少し先の遊びの約束を立てた。


「はい!? 春原の家に行ったの!?」
「うん」

 春原くんが洋太の家に遊びに行くっていうから、今日は舞子と下校する帰り道。同じ家の方角だから4人で一緒に帰ることだって考えたけど、春原くんの肩に腕を回して上機嫌に帰ろうとしている洋太の姿を見たら、それを邪魔しちゃいけないかなと思って、教室を出て行った2人を見送った後に舞子と一緒に教室を出ていた。

 その帰り道「最近、春原とはどうなの?」って聞いてきた舞子に、そういえば……と昨日あった出来事を話した。祐未に勧められた映画を見たことは昼休みの時間にいつメンで揃っている時に告げていたけど、春原くんと一緒に見に行った、なんてことは言わなかった。「あ、春原と一緒に見に行ったんだ?」と舞子に言われて、そこで初めて映画を春原くんと見に行ったことを報告したんだけど、その後に家に遊びに行ったと告げると舞子は大袈裟に身体を跳ねあげてリアクションを取っていた。
 初めて春原くんの家に行ったことは、今まで知らなかった春原くんのプライベートに足を踏み入れてしまったような気がして、だからこそこの話は報告した方がいいだろうと思って口を開いたけど、舞子はやけにこの話に食いついてきた。

「それで、それで?」
「卒アル見せてもらった」
「へえー、……で?」
「元カノ見た」
「マジで!? どんな子だった?」
「すごい可愛い子だったよ。あ、この子可愛いねって言ったら、元カノだって言われた」
「あんたが墓穴掘ったわけでも、春原が自分から言い出したわけでもないのね」

 舞子が珍しく苦笑いを零す。確かに、私があそこで彼女に興味を示さなかったらどうなっていたんだろう。春原くんのことだから、わざわざ前に付き合っていた子を教えてくれることはなかったはずだ。私もその時は何も気にも止めていなかったけど、そういえば春原くんの元カノは同じ中学の人だったんだよね……と思い出せば、私は墓穴を掘るべく春原くんに訊ねていたんだろうか。

「あとは?」
「漫画読んでた」
「それで?」
「それくらい」
「何もなかったの!?」
「何もって、何」

 舞子のことだから、てっきり春原くんの元カノについて訊ねてくるもんだと思ってた。顔だけ見て、この子がそうだって教えてくれて、寄せ書きに周りの人たちから交際を認められているほど仲が良かったらしいことくらいしかわかんないから、話すことは何もないんだけど。舞子は、はい次!と言ったノリでどんどん話を進めていく。

「こう、部屋に誘われたんなら、もっとさ、他にやることあんじゃん」
「他に? 家族に挨拶とか? でも、春原くんち誰もいなかったし……」
「誰もいなかったの!? なら尚更じゃんか!」
「……なんか話、噛み合ってなくない?」
「なまえがおかしなこと言ってるだけだって! 家に誰もいないのわかってて、春原はなまえのこと呼んだんでしょ? イチャ付く以外の理由なくない!?」
「ええ……あ、でもキスはされた」
「されてんじゃん!?」

 春原くんの家に遊びに行った時、日曜日だったから家族がいて紹介でもされるもんだと思っていたんだけど、そこにご家族の姿はなかった。雨が降っていて出歩きたくないって言ったのは私の方だし、それならうちに遊びに来るのはどうかっていう提案を持ち出してくれたのは春原くんで、その気を利かせてくれたような言葉に深い意味はないと思っていた。
 「ていうか、キスしたの!?」と遅れて舞子が反応を見せる。初めてキスをされたのはちょっと強引なところもあって言えずじまいだったけど、ポロッと零した言葉に舞子は身を乗り出してきた。前を向いていたからぶつかりはしなかったけど、突然目の前に飛び出してきた舞子に驚いて足を止めてしまった。

「キスされて、あとはなにもなかったの!?」
「あー、抱きしめられた」
「ひゅーっ! それでどうしたの!?」
「抱きしめられたときに、私、本棚に目がいっちゃって」
「バカ!」
「あの本が気になるって、漫画読み始めちゃって」
「バカバカ! 何考えてんのアンタ!?」 

 突然目の前に飛び出してきたかと思えば、私と同時に足を止めていきなり罵声を浴びせてくる舞子にビビって後退りをした。「あんた正気!?」とまで言われ、一体なにに怒られているのかわからない私は首を傾げてどういうこと、とため息まじりに言葉をこぼす。そして舞子から告げられた怒りの声に、私は身体を硬直させた。

「家族がいない家に誘ってきて、キスとかされたんなら春原ヤる気満々だったじゃん!? なんであんた、後ろの本棚見てんの!?」
「えっ、あっ、や、目に付いちゃって……」
「目に付いちゃったじゃないから!? さすがに春原に同情するわ。かわいそ」

 −−頑張って空気作ってくれて、積極的に攻めたっていうのにさぁ。
 まるでその場所にいなかった舞子は、あたかもそこに居ましたっていう感じで春原くんの心境を物語った。舞子にそのことを言われるまで気付かなかったことだけど、そこまではっきり言われてしまえば、いくら気付けず鈍感さを振りまいてしまった私だってその意味は理解できた。春原くんは私と、つまり、そういうことをしようとしていたのかもしれない。言われてみれば辻褄が合ってしまうことを今になって気付いて、同時に考えてもいなかったその行為を頭の中に過ぎらせると、頭が真っ白になってしまいそうだった。

「いやでもっ、や、やるって……私そんなことしたことないし」
「当たり前じゃん!? あんた春原が初彼でしょ? なのにそっちの経験はありますって言われたらさすがの私でもドン引きだよ」
「そりゃ、そうなんだけど」
「いいじゃん、春原に任せておけば。アイツ元カノと付き合い長かったでしょ? やることやってんだろうし、なんも心配することないって!」

 と肩を叩いてきた舞子は、私の不安を取り除こうとして、少し無神経なことを言い出してくれたんだと思う。想像もできない行為にそびえ立った分厚い壁を乗り越えてみせろってことを言いたいんだろう。付き合っていくならいつしかそういうことが起こるかもしれないということは、頭の隅っこで少しだけ考えていたことだ。でもいざそれがすぐ近くまで迫っているのだとわかれば、未知な行為に対する不安や恐怖というものが押し寄せてくる。だけど少しだけ、春原くんに任せておけと言った舞子の先の言葉に心臓が痛くなってしまった。

「まじで、春原かわいそう」
「そんなに言われると、私だって傷付くんだけど……」

 禍々しい感情に飲まれそうになったところで、舞子の言葉に一瞬だけ救われた。余計なことを考えて浮き出てくる前に、2度言われた私のせいで可哀想だって言葉に私が傷付いたんだけど。春原くんに、可哀想な思いをさせていまったんだ、私。謝らないとなと思ったけど、こんなことを謝るタイミングなんて、春原くんの前で鈍感さを貫いてしまった私にはほぼほぼ不可能なことだったんだけど。


 舞子と真っ直ぐ帰った今日は、家に入ると誰もいなかった。先にお風呂に入って上がってみれば、ちょうどスーパーで買い物を終えたらしいお母さんが夕飯の準備を始めようとしているところに遭遇して「手伝うよ」と一言告げると、お母さんはちょっと間を開けて「……お願い」と返してくれたけど、どこか様子がおかしかった。

「ねぇ、なまえ」
「んー?」
「それ終わったら、じゃがいも潰して欲しいんだけど」
「はーい」

 私はいつも帰りが遅いから既に夕飯が出来上がっている状態がほとんどなんだけど、こうやって早く帰ってきたり、お母さんの仕事が遅くなった時はこうして夕飯の手伝いをする。今日の夜ご飯はポテトサラダ。卵とじゃがいもが茹で上がるのを待っていると、ステンレスのボールを用意したお母さんが私の名前を呼んだ。

「なまえ」
「はいはい」
「……」
「……なに?」

 だけど、お母さんは何も言わなくて、また間を開けて「なんでもないわ」と言ってくる。やっぱりどこか様子がおかしいように見えてしまって、やっと茹で上がった2つの材料をボールに移してマッシャーで潰しながら「なんかあった?」と一言。それに向けていた視線をお母さんの方に向けてみると、冷蔵庫を開けて、私のことを細い目で見ている。何、と様子がおかしいうえに何か言いたげなお母さんに首を傾げるけど、何も言わないお母さんからまた視線を話して、ボールに移した。

「お母さん、今日、あんたの彼氏に会ったんだけど」
「ふーん。 ……、……え!?」

 やっと口を開いてくれたお母さんの言葉を、マッシャーにこびりついたじゃがいもを素手で落としながら耳を傾ける。ふーん、春原くんに会ったんだ……と思った瞬間、とんでも発言に私はパッとマッシャーを握っていた手を離してしまった。

「律儀な子よねぇ、なまえさんとお付き合いさせていただいてますって、頭下げてきたのよ」
「ちょっと待って、なんで知ってんの!? 私、言ってないよね!?」

 春原くんと会話をしたであろうお母さんの言葉を耳の中に流し込むと、バランスを崩して倒れそうになるボールを慌てて抑えて声をあげていた。私が言った通り、彼氏ができたってことは家族にはまだ言っていなかったのだ。

「何も聞いてなかった。 だからお母さんは悲しかったし、恥ずかしかったわ」
「ご、ごめんなさい……」

 中学の頃とかは、よく同級生のお母さんと話し込んでいたお母さんが「なまえって彼氏とかいないの?」と、同級生に彼氏や彼女ができたと耳にするたび聞いてきたことが何度かあったけど、いないと答え続けていたらそれっきりだった。だから私は、またお母さんに尋ねられた時に実は……と口にする気ではいたけど、私から彼氏ができたって報告はなんだか小っ恥ずかしい感じがしてできないでいた。その発言をされる前に、先に彼氏とお母さんが対面してしまった。
 悲しかったし恥ずかしかったと言ったお母さんは、見るからに悲しそうな顔を見せてくるもので、私は胸が痛くなってそのことを素直に謝る。

「え、なんで会ったの」
「スーパーに買い物に行ったら、早間さんがいたのよね。 洋太くんと、百瀬くんだっけ? 一緒にいたわ」

 お母さんの言う早間さんというのは、洋太のお母さんのことだ。小学校1年生の頃から子供同士が同じクラスだから、当たり前のように顔見知りで、近所で会った時には話をするくらいの関係だ。どうやら今日、洋太のお母さんと会った時に、洋太と春原くんが一緒にいたらしい。

「別に彼氏ができたんならいちいち報告してこなくてもいいんだけど、お母さん何も知らなかったから、百瀬くんが話しかけてきた時に「なんのこと?」って言っちゃったわけよ」
「え、う、うん」
「そしたら「え、聞いてないんですか!?」って言われたの」
「……」
「何も知らなかった私も可哀想だったけど、付き合ってることを親にも話してないことを知った百瀬くんが一番可哀想だったわ」
「か、かわいそう……」
「今度うちに遊びにいらっしゃいって言っておいたけど」
「うん、うん……」

 今日一日で、私のせいで"春原くんが可哀想"と続けざまに2回も言われてしまった。やばい、どうしよう。きっとヤる気でいた春原くんの気持ちに気付けずそれを台無しにしてしまったことと、付き合ってる彼女が親に交際報告をしなくて、せっかくご挨拶をしたのに「なんのこと?」と言われてしまった春原くんのことを考えると、自分のことじゃなくてもさすがに私もやばいと思った。私のせいで2度も春原くんのことを可哀想な目に遭わせてしまって、私はついに自分がやらかしたことを自覚する。明日、春原くんに謝らないと。