意識



 春原くんに対する意識に変化が訪れたのは、この頃だった。


 春原くんの家は、駅から徒歩10分くらいのほど近い場所にあった。学校からは歩いたら結構距離があるみたいだけど、駅からはうちよりもずっと近い。お邪魔します、と家に上がったところで、そこで私は家の中には誰もいないのだと気付く。

「うわ、すごい。 春原くんの匂いがする」
「それって、どんな匂い?」

 春原くんの家にあがると、私の鼻についたのは春原くんの匂いだった。傍に寄った時とか、抱きしめられた時に感じる春原くんの匂い。それってどんな匂い?って訊かれたって、うまく説明できないような心地の良い匂いだった。

「うち狭くてさ。姉ちゃんと同じ部屋なんだけど……あ、ここ座って!」
「ポスターいっぱい貼られてあるね。 これ、アイドル?」
「そう、Re:valeって言うらしいんだけど、姉ちゃんが追っかけてて」
「聞いたことないや」
「インディーズだからさ、テレビとかには出てないみたいなんだけど」

 お姉さんと共同部屋らしい春原くんの部屋は、まとまりがなかった。漫画がたくさん揃えている棚が置いてあって、壁にはサッカーのポスターが貼られてあって、ユニフォームが飾られてあって、トロフィーや賞状もたくさん置いてある。だけど、それに負けじと貼り付けられてあるのはインディーズアイドルだっていう男性2人組のポスターだった。そこそこ格好いい感じの2人だし、バンドのポスターと違って楽器が映り込んでるわけでもなくピンで写っている姿からすぐにアイドル系なんだとわかった。Re:vale、聞いたことない。インディーズだっていうなら当たり前か。

「卒アル見る? ここにあったと思うんだけど……あ、なんか飲み物取ってこよっか!? 麦茶しかないと思うんだけど」
「おかまいなく。 勝手に触ってていいの?」
「いいよ! ちょっと待ってて」

 部屋の一角に置いてある棚の中を漁るものの、思い出したように飲み物を取ってこようとした春原くんは少し落ち着きがないような気がした。勝手に触っててもいい、という春原くんのお言葉に甘えて、春原くんが部屋を出て行った後にその棚に近付いた。手を伸ばせば、すぐに中学校の卒業アルバムが視界に入り込む。卒アルを手にとって、春原くんと同じ中学校だった仲の良い友達っていないから、これがあの中学校のアルバムかー、と初めて見る中学校の卒業アルバムを開く前に部屋を見渡した。

 これが、春原くんが過ごしている部屋なんだ。学校でも、出先でも、春原くんと会うことはあっても、春原くんが長いこと暮らしているこの空間は初めて見る。春原くんのものである賞状やトロフィーに目を追いやって、まだ知らない春原くんがここにあることを知った。二段ベッドに目を向けると、会ったことも見たこともない春原くんのお姉さんの存在を感じて、どんな人なんだろうと想像を膨らませ満足したところで、手にしていた卒業アルバムを開いた。

「なまえ、お待たせ」
「ん? うん、ありがと」

 一度振り返って、お礼をして、もう一度アルバムに目を向けた。そこには、運動会でバトンを持ってる中学時代の春原くんの姿がはっきり写り込んでいて、どうしてもそこから目が離せなかったのだ。

「……なまえ、いいよ、ここ座って」
「ありがと。 中学時代の春原くん見てた」
「あ、これ。 アンカーだったやつ」

 春原くんに通された座椅子代わりのクッションに腰を下ろして、テーブルの上に置かれた麦茶の入ったコップを避けてアルバムを広げた。それを2人で覗き込みながら、ページを捲るごとに、これはこうでこれはああでって説明を交えながら教えてくれる春原くんにうんうんと頷きながらページを進ませた。

「春原くん、可愛いじゃん」
「気付くの早くない?」
「真っ先に目がいっちゃったよ」

 そしてたどり着いたのは生徒一覧が並んであるクラスの個別写真のページだった。真っ先に目が行ってしまった先には春原くんがいて、サッカーボールを抱えて無邪気に笑っている写真があった。春原くんの中学校の卒業アルバムの個別写真は、自分の好きなものを自由に持ち込んで撮影できたらしく、好きなものを手にして写る春原くんはやたら楽しげに見えてしまった。春原くんは、この頃からサッカーが大好きだったんだ。

「……あ、この子、可愛い」

 春原くんの無邪気に笑った顔の写真を見た後に、ちょっと全体に目を向けると、そこにひときわ可愛い女の子が目について思わずその子を指差してしまった。可愛かった。めちゃくちゃ。街を歩いてたらスカウトされるんじゃないかっていうくらい可愛い女の子に興味を示せば、春原くんは「えっ」と小さな声を上げた。それを私は聞き逃さなかったし、春原くんの反応に「どうかした?」と訊ねてしまった。

「あーー、その子は、その、前に付き合ってた子で……」

 そうすれば春原くんは、とても言いづらそうに口を開いてくれた。あ、マジか。地雷というか墓穴というか、単純に目について示したものが春原くんの元カノだったなんて思いもしなくて、少しの間、春原くんとの間には嫌な空気が漂ってしまった。
 春原くんって、なんで元カノと別れちゃったんだっけ。部活でなかなか会えなくて、と言われた覚えがあるけど、本当にそれだけだったんだろうか。もしかしたら喧嘩別れしたとか、あんまりいい思い出がなくこんなふうに言いづらそうにしてくれたのかもしれないし、ただ単に今付き合っている彼女に元カノだと言ってしまったからなんだろうか。たぶん後者だとは思うんだけど。

「めちゃくちゃ可愛い子じゃん」
「う、うん、そうだね」

 と、春原くんは可愛いってことに同意していた。いつだったか覚えてないんだけど、前に洋太が言っていたことを思い出す。「アイツ、メンクイなんだぜ」って。それを言っていたのが付き合う前だったのか後だったのかもよく覚えていないんだけど、あの時の洋太のセリフをなるほどな、と思ってしまった私がいる。実際、かわいい。咄嗟に目が行ってしまうくらい、クラスで一番どころか学年で一番可愛いレベルの子だ。

「あ、寄せ書きとかって、書いてもらったりした?」
「え!? あ!」
「……あ」

 若干気まずくなったので話題をそらすべく、ページを最後まで飛び越えて寄せ書きのページを開いてしまった。「わ、すごい、いっぱい書いてあるね」っていう当たり障りのない言葉を一応は用意しておいたつもりなんだけど、開いたページを見て目が点になった。大きなハートマークがページを跨いで書いてあってそこには「モモ」と「ハナ」って文字がある。明らかにカップルに向けて執筆されたその文字や、それだけでない文章に、開いた手も、開こうとした唇だって硬直してしまった。

「ご、ごめん! あの、これは、そのっ」
「いや、大丈夫だけど。ごめん、勝手に見たりして」
「それは平気だけどっ」

 2度に渡って予期せぬ地雷を踏んで春原くんとの間に、今度はギクシャクとした空気が流れてしまった。さっとページを閉じてしまったりしたら、わかりやすすぎる嫉妬心とか、面白くない、つまらないっていう気持ちが見え見えになっちゃうんじゃないだろうか。そんなことは思っていないんだけど。だけどそういう余計に気まずくなるような行動を避けるために、ページに手を挟んで伏せた。見てもいいよっていうタイミングが訪れたらすぐになんでもなかったように開けるような行動をとった。

 春原くんがやたらと焦っている姿を見て逆に冷静にでもなってしまったんだろうか。春原くんの元カノを知って、寄せ書きに堂々と「幸せになれよ」って周囲からも認められたカップルでいた関係を目にしたって、不思議と気持ちは落ち着いていたし、むしろ微笑ましいとさえ思っていた。彼氏の元カノとの関係を見て微笑ましいだなんて思ってしまうだなんて、自分でも理由がわからなかった。

「なまえ、あの」
「ん?」

 見てもいいよという許可が降りずアルバムが畳まれたのは、寄せ書きのページに手を挟めていたというのに春原くんが表紙に手を当てて無理矢理それを閉じようとしていたからで、その重みに気付いてさっと手を退けるとアルバムがパタンと音を立てて閉じられた。これ以上見せられないっていう、そんな圧力じみたものを感じてしまったけど、こんなギクシャクとした空気の中で、春原くんが私の名前を呼ぶ。それに顔を上げると、息を飲み込んで口元をへの字にした春原くんの顔が見えた。

「……抱きしめていい?」
「えっ?」

 一体何を言われるんだろう。そんな言葉の想像もつかないまま春原くんの言葉を待っていると、春原くんの口からは想像もできなかったセリフが飛んできた。え、なんでここで? この場面で「抱きしめていい?」なんて言われることって誰か想像できる?っていうくらい斜め上の言葉を受けて一度静止してしまうものの、特に拒む理由もなかった私は「いいけど?」と疑問符を加えてそれを受け入れた。
 向かい合っていた春原くんがさっと私の隣に来て、近づいて、身体をぎゅっと包み込まれる。なに、どうしたの。そんな慌てた感情が湧き上がってくるものの、すぐに身体を離した春原くんは、顔を真っ赤に染めて私に言った。

「キ、キス、してもいい?」
「え……、なんでいちいちそんなこと聞くの」
「嫌がられたら困るし……」
「強引にキスしてきたじゃんか」
「あれは! その!」

 キスしてもいいのかとわざわざ訊ねられて困惑する。そこにはきっと、以前みたいに顔を近付けただけで恥ずかしさのあまり笑って拒んでしまう私の姿を想像していたからなのかもしれないけど、一度してしまったことや2度言われたことに、未知から訪れる恥じらいというものが、手を繋いだりハグをするという行為同様少し薄れていたこともあって、私は笑って「いいよ」と答えることができた。「じゃあ……」これからしますねっていう態度をわざわざ見せられて笑いそうになったのを必死に堪えて、優しい春原くんの唇が私の唇に触れた。初めてされた時のような強引なものではなく、2回目にした一瞬のものでもなく、優しく長く触れる。唇の形がはっきり伝わってきてしまうほど、触れ合った唇からは体温すら感じてきた。

「−−なまえ」

 唇が離されて、目が合う。ふとここで、映画を見る前にチケット売り場で感じたドキッとした謎の胸の高鳴りが、熱をぶり返したみたいに再び訪れて、目を合わせ続けることができなかった。つい視線を逸らしてしまったら、もう一度抱き寄せられて、あの時、一瞬感じたことを思い返す。あれ、春原くんって……こんなに格好良かったっけ?

「……あ、あれ」
「ん? え?」
「子供の頃に読んでた漫画だ」

 抱きしめられている隙に、春原くんに対する急な意識の変化に気を紛らわせようと思って必死に視線だけで部屋を見渡していた。そして目に止まったのは、アルバムがしまわれてあった本棚で、取った場所から上に視線を向けると、子供頃に洋太や友達の家で見ていた懐かしい漫画のコミックが1巻から揃えられていた。

「……、読む?」
「いいの?」
「う、うん」
「じゃあ、読んじゃお」

 私が興味を示した時、春原くんは少しだけ私から身体を離して同じ場所へと視線を向けていた。その時に見えた春原くんの横顔とか、首筋とか、今まで意識していなかった部分に、格好良いとか、ときめきみたいなものが生まれて、勝手に焦っていた。どうしたんだろ、私。
 理解できないこの感情の中で、私の話に乗ってくれた春原くんは身体を引き離して本棚へと向かっていく。その姿にすら私は目が釘付けになっていて、言うなればこれは、初めて春原くんを意識してしまった時に、ずっと目で追っていたことに似ているような気がした。

 それから春原くんの家ではずっと漫画を読みふけっていて、家に帰る頃には雨が止んでいた。