意識



 春原くんが部活に行く必要のない日だって、その場所に足を運んでいることを知ったのは、春原くんの大学の推薦入試が近付いた頃だった。


 初めて春原くんとキスをしたのはあの日っきりのことで、何か言いたげな様子を見せていたくせに、春原くんは何も言い出さなかった。春原くんの怪我を心配することが、逆に春原くんに気を遣わせてしまって心配を掛けさせることに気付いていた私は、なるべく春原くんが怪我をする前のような態度を振舞っていた。それを続けることができたのは、春原くんのことを一番に考えていた洋太の本音を聞いたことが私の胸に響いていたからだ。

 春原くんの足の調子は少しずつ良くなっていて、ギプスをしていても、松葉杖を持ってきていても、松葉杖無しに左足を地面に付けて歩いている姿を見かけるようになった。「あんまりこうやってると、家族に怒られるんだけどね」と口にしていた春原くんに「早く治るといいね」って無意識に告げていた。
 春原くんは変わらずに親に送迎してもらって登下校をしている。一緒に帰ることができなくなって、部活に行くって言ったっきり、そのまま親が迎えに来てまっすぐ家路に着く春原くんとは、放課後に話す暇もなくなって、少しだけ距離が空いた形になってしまった。かくいう私も、部活を引退して暇になったいつメンと放課後話したり遊ぶようになって、春原くんとは怪我が治ったらまた話そうねって約束事をしてしまったくらいだ。

 春原くんは怪我をしてサッカーができなくなったことから、視野に入れていた大学進学を本格的に決めていた。高校卒業までに怪我が治ってプロ入りをする可能性もまだ残っているから、大学は保険のようなものだったけど。卒業までに治ったら、入学を辞退してプロチームに行く。完治が長引いてしまったら、大学に通いながらサッカーを続けて、声が掛かるのを待つ。高校を卒業してすぐに、というわけでなく大学を卒業してからプロ入りするのだって珍しい話じゃない。春原くんは東京都内にある有名な体育大学から推薦が来ていて、学校からも指定校推薦に選ばれていた。

「みょうじさん……だっけ?」

 そんな大学入試が近付いていた頃。放課後が始まって30分くらい経った時、いつもの4人でおやつを買いに行った購買からの帰り道で誰かに呼び止められた。話していたせいでその存在に気付かなかったけど、擦れ違いざまに声を掛けられて顔を上げた先で、見覚えのあるサッカー部のユニフォームを着たその人に、私ははっきり言って怯えてしまいそうになった。


「−−春原くん」
「……あれ、なまえ!? なんでいんの!?」
「柴岡くんに聞いた」

 私に声をかけてきたのは、遠目に見て認識して、病室で会って顔見知りとなった柴岡くんだった。「百瀬の彼女だよね? 合ってるよね?」と言われて、なにを言われるのかとギクッとしてしまった。「ごめん、先に行ってて」と3人にそれを伝えて私が柴岡くんと2人で残って「そうだけど」と言いながら私は視線を泳がせる。結局、私は春原くんの友達や部活仲間に陰でよくないことを思われていたと知っても、いつも通りの日常を送ってしまっていた。お前、彼氏が大変な時期によく友達と笑っていられるよなと、ついに面と向かって言われる日が訪れたと思ってしまった。だけどそこから柴岡くんは「あのさぁ」と、私ではなく、春原くんの話をし始めたのだ。

「ねぇ、私、どうしたらいい?」
「どうしたら……って、なにが?」
「春原くんの慰め方、わかんないから」
「慰める必要なんてないよ」
「嘘だ」
「なんでそう思うの」
「だって、ここに来てんじゃん」

 春原くんは、毎日部活に顔を出していた。春原くんが、怪我をしてる身だけど、ミーティングには参加させてもらってるんだっていう言葉を鵜呑みにして、毎日部活に直接でなくとも参加してるってことを信じ込んでいた。実際、春原くんはキャプテンという肩書きがあった、実力ある選手に違いないからミーティングに参加していた。でも、それは毎日あるわけじゃない。ミーティングのない日だって、春原くんは毎日、グラウンドや少し歩いた先にあるサッカーグラウンド場の、誰もいない観客席で部活の様子を眺めているんだって、柴岡くんが言っていた。

「あいつに、なんか言ってやってよ」

 私の日頃の態度に痺れを切らしたわけでなく、春原くんのその姿に痺れを切らしてしまったらしい柴岡くんは、私を呼び止めてその話をしてくれると、私にそう言ったのだ。私にとってそれは初耳な情報で、そんなことを言われたって、私はどうしたらいいんだ−−と思ったけど、きっと私を良く思っていない柴岡くんが私に直接それを告げてきたってことは、私が頼みの綱だったんだろう。同時に、春原くんのことが心配になって、私はすぐに呼ばれたサッカーグラウンド場に足を運んだ。そこには、確かに誰もいないこじんまりとした観客席の一番後ろの立ち席でグラウンドの様子を眺めている春原くんの姿があった。

「サッカー、やりたいなって思って」
「うん」
「だけど、そんなこと言われたって、困るでしょ」
「そりゃ言われたら、どうしたらいいんだろうってなるけど」
「ほらね!」
「でも、なんも言われないのに比べたらマシ」

 フェンスに背中を預けながら、サッカーをしている部員を見入っていた春原くんの隣に立って、私も同じようにフェンスにもたれかかった。怪我をしたことをきっかけに、春原くんと少しだけ距離が空いてしまったような気がする。キスをされたあの日から、なおさら空いてしまったような気がしていた。あれはなんだったんだろう、その考えが2重に重なってしまって、隣に立っていた春原くんとの間には少しだけ気まずいような空気が流れてしまっていた。

「春原くん、なんも言わないじゃんか」
「なまえもそうだったでしょ」
「なんのこと?」
「体育の見学のこととか……」
「だって、言いづらいでしょ。それに、心配かけたくなかったんだよ」
「オレだってそうだよ。 それに、洋太と喧嘩したことだって、教えてくれなかっただろ?」
「だって、洋太との喧嘩ってわざわざ春原くんに言うことでもないでしょ」

 お互いにお互いを見ないまま、グラウンドで走り回っているサッカー部員を眺めて、少しの言い合いに近いやりとりを繰り返した。ここまで案内してくれて、下で別れた柴岡くんがグラウンドに入っていく姿が遠目に見えた。

「私、春原くんと喧嘩するつもりで来たわけじゃないんだけど」
「オレだって、喧嘩するつもりないよ」

 遠くを見つめている春原くんは、いつも見ている春原くんとはまるっきり別人のような気がした。どこがと言われたら、テンションとか、声のトーンとか、表情とか、そういうところ。あの日、キスされた日に受けた春原くんの態度に少し近いものが覗き見れてしまって、私は今言いたいことを少しずつ頭の中で整理する。

「私って、頼りない?」
「そんなことないけど」
「って言っても、なにもできないんだけどさ」
「はは、なにそれ」

 私が春原くんを見上げて尋ねたって、笑っていた春原くんは私の方を見てはくれなかった。視線は、ずっとサッカーをしている人たちに向いている。春原くんの意識が、今は物理的にも一番近くにいる私ではなく、遠い場所にいるサッカー部員たちに向いてしまっている。それがなぜだか悲しくて仕方がなかった。

「春原くんが入院してた時だって、2学期始まった時だってそうだよ。 私、いなくてもよくない?って思ってたから」
「そんなことない」
「あるよ」

 春原くんって友達が多いし、信頼が厚い人だから、きっとそういう集団に囲まれてもみ消されていってしまう人がいるだなんて考えもしないんだろうな。だからこんなふうに、そんな立場である私が口にしたことをはっきりとそんなことないと断言できてしまうんだ。そのくらい春原くんは、友達に恵まれていて、純粋だ。

「なんにもできないけど、私だって、春原くんに頼られたいんだよ。心配かけたくないからって、なんでもないように振舞われるのってイヤ。 私、なんも気付けないから。私に都合の悪い……っていうか、被害妄想? そういうのは気付きやすいんだけど、春原くんがいうことは、私なんでも鵜呑みにするよ。大丈夫って言われたら、それ信じるし、心配しないでって言われたら、できるだけそうするようにしてるよ。 だけど」

 その純粋さを、ずっとそのまま貫き通していてほしいっていう気持ちがあったけど、気付かれない私や洋太の立場だって考えてほしくて、私は不満を吐き出した。

「だけどさ、そういうの、心配かけさせたくないからって、私にばっかり隠されて、他の人に、お前彼女なのになんも気付かないの? って思われる立場も考えて欲しい」
「……、ごめん……」
「……ううん、私の方こそごめん。 変なこと言っちゃった」

 溜まっていた不満を吐き出したものの、春原くんの驚きが混ざった細い声を聞いたら、はっと我に返ってごめんなさいを口にした。しばらくの間、沈黙が続く。春原くんと一緒に過ごしているときって、会話がないことも多かったりするけど、それはそれで心地の良いものに感じられていたんだけど、今はそういうのじゃなかった。何を切り出そうか、何が切り出されるのか、わからなくて不安なこの気持ちにさせてくれる沈黙は居心地の悪いものでしかない。

「なまえと洋太にはさ、こう、格好いいオレで見てもらいたいわけ!」

 その沈黙を破ったのは春原くんだった。こっちを向いて、はっきり耳に届くくらい大きな声で発せられた言葉は、やっぱり私たちが考えていたことと同じ、心配をかけさせたくないっていうのと似たようなものだった。だけど今の春原くんの言葉は、そこにより具体的な意味合いを兼ねたものだった。

「2人には、格好悪いオレは見せたくない。なまえは、オレの彼女だから。洋太は、アイツはずっと、オレのことすごいって言ってくれてたから」

 私も洋太も、春原くんの中では、春原くんの周りを囲っている周囲の人間よりも特別な存在なんだ。そのことは少なからず私も洋太もわかっていた。

「普段通りに振舞って、笑ってないと、みんな心配するじゃんか。なまえと洋太は特にそうでしょ」
「当たり前じゃん」
「でしょ、そうなるでしょ?」

 だからこそ春原くんの気持ちを尊重しなければならないっていう話をしたわけだけど、こうやって春原くんから直接本音を聞かされてしまえば、その気持ちが揺らいでしまった。

「でもさぁ、私、彼女なんだよ。 春原くんが大勢に囲まれて、今まで通りに振舞ってても、私にだけ弱み見せてくれるくらい、彼女の特権って感じでいいと思うんだけど」
「かっこいいこと言う……」
「それくらい、頼って欲しいし、好きなんだよ。春原くんのこと」

 私の中で春原くんに対して芽生えた「好き」という言葉は、一度言い出したら小っ恥ずかしい感じがしてあんまり告げられていなかった。お互いの気持ちを確認するように告げていた言葉だったけど、今のは、春原くんにこの感情をぶつける意味合いで込めた言葉だった。こんなふうに積極的に好きだと言ってしまった私に春原くんはちょっと驚いた顔を見せてくれていた。そして顔を逸らして、顎を擦りながら「あの時さ」とさっきよりも一段と小さな声で私に問いかけた。

「あの時、洋太となに話してたの」
「今のこと話してた」
「……え」

 あの時、というのは言わずもがな洋太と2人で春原くんと話していたあの時のことである。絶対に言うなよって洋太には言われたけど、ここにきて隠し切る必要なんてもうないと思ったんだ。私の気持ちを知ってもらいたいというのと同じように、洋太の気持ちだって知ってもらいたかった。2人でコソコソ話していたことは、ひょっとしたら春原くんの気に障ってしまったことだったのかもしれない。

「オレ、ちょっと……妬いてた、かも……」
「……え」

 もしかしたら怒っていたのかもしれないと思っていたけど、春原くんの中ではとても気になっていたことだったんだろう。妬いていた、と言われて、まさかの発言にさっきの春原くんと同じように驚きの声を交えて、え、っと言葉を落としていた。

「自分が惨めで、情けなくて、だけど誰よりも心配かけちゃいけないっていうのがなまえと洋太だったんだ。2人のこと大事だから、絶対心配掛けちゃいけないって思ってた。 でも、そうやって大丈夫だからって距離置いてたらさ、見放されるんじゃないかって思ってたんだ」
「なに言ってんの。 見放すわけないじゃんか」
「そうだよね……そう、なんだよね」

 春原くん襟足をかき上げながら、まるで自分のことを自嘲するように苦い笑いを浮かべた。初めて知った。春原くんって、そんな顔をすることがあるんだ。そんなふうに自分が見放されてしまうっていう不安や焦燥や嫉妬を抱くこともあるんだ。だけどその感情を抱いてしまった春原くん自身が、それのせいで自暴自棄になりかけていることを私は知らない。

「ごめんね、信用……っていうか、勝手な嫉妬して、もしかしたらそうなるんじゃないかって、不安になっちゃって」
「平気だよ」
「あと、強引にファーストキス奪っちゃってごめん」
「それはほんとだよね」
「なんか、めちゃくちゃ焦っちゃって」

 あの日のことを思い出したらギョッとしてしまった。困ったように笑った春原くんを見ていると、それはもう過ぎたことだし、気にしなくていいよという気持ちしか返せない。「ごめんね」「うん」、「私の方こそごめんね」「うん」喧嘩をしていたわけでもないけれど、お互いに顔を見合わせながら照れ臭そうに謝っては、それを許した。すると春原くんが言う。

「触りたい……」
「は!? ここで!? ここは無理だから! こんなところで触られでもしたら私、春原くんのこと叩くからね」
「怖いこと言う……」
「だってそうじゃん!?」

 触れたいって、もう何回春原くんに言われたかわからない。いつも唐突に言われ続けていた言葉に驚いていた私だけど、ここに来て私はそうしたがる気持ちがわかってしまうんだ。私だって触れたい。春原くんの本心に触れてしまえば、どうしてかその身に触れてしまいたいと思い始めた自分がいる。そういう意識が、私に芽生えた。少しの刺激で衝動的に触れたくなってしまう中で、手を伸ばしてきた春原くんに揺れ動かされそうになった気持ちを必死に抑えて、私は春原くんの言う怖いことを言ってしまった。

「うおーい! 怪我人のバカ百瀬ー!」

 と、こんなどうしようもない空気を壊してくれたのはグラウンドで走り回っていたサッカー部で、観客席の下から大声が飛び込んだ。

「なんだよ!?」
「こんなとこでイチャついてんじゃねーぞ!」
「イチャつく暇あったら早く戻ってこーい!」
「うるせーよ!」

 ワアワアと喚いているサッカー部員に大声で言い返している春原くんの粗暴っぷりを初めて目の当たりにして、春原くんは部活動ではこんな感じだったのかと、憑き物が落ちて微笑ましい光景だと思えた私は笑ってみせる。「みょうじさーん、ありがとうねー!」と柴岡くんに叫ばれて、その存在意義を認められたことの嬉しさから、春原くんと一緒にサッカー部員達に手を振り返した。

「怪我治ったらさ、また遊び行こうよ。来週にはギプス取れて、普通に歩けるようになるから」
「うん。どこ行こっか。 次は最初から行く場所考えとこ」

 そろそろ学校に戻ろっか。春原くんを置いていくわけにもいかずそれを口にすれば、春原くんは呟く。そして私は、サッカーのグラウンド場からの帰り際に「大丈夫?」と、やっと2人きりの場所で、怪我人の春原くんを心配することができた。

 本校舎に戻って、それでも触れたいという衝動が抜けなかった私は、人目を気にして誰もいないことを確認すると、春原くんの腕を引っ張って、廊下でひっそりと春原くんと2度目のキスをした。