意識



 洋太と喧嘩したのは、2学期が始まって、2週間が経った頃だった。


 春原くんは松葉杖の生活をしながら、毎日学校に登校してきていた。親に車で送られてきて、家まで迎えに行った中学からの同級生と一緒に登校してきたり、それがなければ校門や昇降口で春原くんの友達が春原くんのことを待っている。「カバン持とうか?」とか「おぶってやろうか?」とか、ふざけ合いながらも春原くんの状態を気にしている集団の中にはいつまで経っても私の付け入る隙がなかった。私が心配するよりも早く、誰かが春原くんに着いているのだ。それを見て、春原くんにはいつも誰かが付いているから私が心配する必要もないか−−なんてことをやっぱり考えるわけでもなく、私はいつだって春原くんが一人になっている隙をついて、私が隣に立てることを望んでいた。

「評判悪いぞ、お前」
「なにが?」

 今日だって、春原くんが囲まれている姿を見ながら、声をかけるなら挨拶くらいしかできない私は春原くんよりも先に教室に向かった。「大丈夫?」という声かけは、いつも「大丈夫だから!」って返してくる春原くんに何度も聞かされてきたことで、その心配は逆に、春原くんに気を遣わせる言葉なのかもしれないと春原くんと過ごす中で気付いた。最初は明るく笑ってくれていた春原くんは、最近になってちょっとだけ眉を下げて笑って言うのだ。そこに気付いてしまって、だからなるべく、私はそれを言わないようにしていた。

 教室に戻って席に座っていると、洋太が話しかけてきた。「おはよー」って呑気な声を出している洋太にそれを返すと、洋太は突然そんなことを言い出す。なんのことなのか、さっぱりわからなかった。

「お前、春原のこと心配してねぇの?」
「してるよ」
「じゃ、面倒見てやれよなー」

 なにがって聞いたけど、洋太はその具体的な内容を告げることもなく、それだけを言って席に戻って行った。教室に入ってきた春原くんを見て「おはよー」ってこれまた呑気な声を出している姿と、教室まで送り届けてくれた友達に「ありがとね!」って言っている春原くんを視界の端に入れる。

 春原くんのことを心配していないのか、と言われて、ムッとした私がいる。心配してる。当たり前でしょ。なのに、なんでそんなことを言われてしまったのか、私だってそこまで馬鹿じゃないからわかっている。どうせ、彼女のくせに四六時中傍にいてあげない私のことを洋太は言ってきたんだ。私の気も知らないくせに。私だって傍にいてあげたいのに。なのに、周りの存在に隙いる暇がないのだ。それは、私の言い訳にしか過ぎないんだろうか。

「おっはよー! お、春原じゃん。足の調子はどう?」
「おはよー! 絶好調だよ!」

 教室に入ってきた舞子が、教室の入り口に立っていた春原くんに大声で声をかけている。「それなら良かったじゃん!」って春原くんに声をかけて、そのまま私の元に来て私にも「おはよ!」って挨拶をしてくた。

「今日さー、部活に顔出そうって思って!」
「そうなの? いいよ、待ってるから」
「ありがと! 1時間だけ、ちょろっと行ってくるだけだから」
「おかまいなくー」

 2年生の後半は、舞子とは前後の席だったんだけど、3年生になってからは、舞子とはちょっと離れた席になるようになってしまった。一番前の席と後ろから2番目の席。席に向かう舞子の後ろ姿を見ていると「なまえ、おはよー」と今度は祐未とこゆきが私の元にやってきた。2学期に入ってからの席替えでは、一つ隣を空けた隣の席にこゆきがいて、その列の一番前に祐未の席がある。今ではこゆきが、一番近い席の友達だった。

「なまえ、今日の放課後ってヒマ?」
「舞子が部活に顔出すんだって。待ってる」
「じゃ、学校にはいるんだ。こゆきがさ、話したいことがあるんだって」
「えー、今じゃだめなの?」
「あとで!」
「気になるー」

 祐未は私の席の前で足を止めて言ってきたけど、肝心のこゆきは席に座って、鞄から筆記用具を取り出していた。話って気になるじゃんか、と思ったけど、傍から見ても少し上機嫌そうなこゆきの姿を視界に入れると、その話っていうものがなんとなくだけど想像できた。


 今日は1日中、朝に言われたこゆきの話を楽しみに待ちつつ、同じく朝に言われた洋太の言葉のモヤモヤを抱えていたけど、洋太の話の具体的な内容を耳にしたのは、その日の放課後だった。

 舞子は1時間だけ部活に顔を出すということで、私は教室で舞子を待ちながら、教室に残っている祐未とこゆきの輪に混じって軽い世間話をしていた。こゆきの話を聞く前に、スチーム暖房機に座って携帯を弄ってる洋太の姿が目に付くと、ちょっと待っててと洋太の元に近付いた。洋太も部活を引退してるから、放課後は暇なんだろう。

「春原の怪我のこと聞いた他校の中学の同級生が、みんな春原の家に遊びに行ったりしてんだってよ」
「そうなんだ」

 私が近付いて声を掛ける前に、洋太は口を開く。今朝の話の延長線みたいな内容だ。頻繁に中学の友達と一緒に親に送られて登校してくるくらいだから、そんな気はしていた。それに、春原くんの他校の友達がわざわざ春原くんに会いに行っているっていう話は、学校で見ていても、きっとそうなのかもしれないと薄っすら感じ取れていた。だから私はら改めて……というよりは、もしかしたらと思っていた話が確信してしまうと肩がすくみそうになる。

「元カノだって、家にまで見舞いに行ってるって」
「……詳しいじゃんか」
「石平が言ってた」
「なんで石平くん?」
「住田に聞いたっつってた」
「あー……春原くんと同じ中学なんだっけ」

 登場人物をまず整理すると、石平くんは1年生のころに同じクラスだった、私と洋太と同じ中学出身の男子だ。石平くんと洋太は、1年生の頃は同じ中学だったってこともあってよく一緒にいたんだっけ。そこに住田くんっていう、春原くんと同じ中学出身の男子がいて、3人で一緒につるんでいるのを見ていた。住田くんが春原くんと同じ中学だったという話は、今になって思い出したことなんだけど。
 『元カノ』っていうワードに多少なりの引っ掛かりを覚えてしまいながらも、私は洋太の話に耳を傾けた。

「お前も春原のこと、ちょっとは心配しとけよなー」
「してるってば」
「家まで見舞いに行ったりさー」
「家、知らないし」
「そこは聞けよ」

 胸にグサグサと洋太の言葉が刺さっていくけど、その胸の痛みが頭の方へ向かっていって血が登る。春原くんの家にまでお見舞いに行っている人たちがいるなら、私だってそうしたい。だけど、でも。頭に血が回ってしまって、洋太の言葉に言い返すことしかできなかった。

「春原くんが、大丈夫だって言ってんだから、無理に心配する必要もないでしょ」
「お前、それでも彼女かっつーの」
「だいたい、今更になって行くとか、張り合ってるみたいなもんじゃん」
「いいじゃんか。張り合ってろよ。 周りに、春原の彼女のくせに人一倍心配しなきゃいけねぇのに、全然してねぇじゃんって思われてんだぞ、お前」

 評判が悪いぞ、と今朝言われた言葉の意味がようやく理解出来た。私は、春原くんのことを囲っている人たちに付け入る隙がなくてなかなか話しかけられないでいるとか、気遣いができていないって自分で思っている傍らで、彼らには薄情者の彼女だと思われているんだ。

「洋太には、関係なくない?」
「はぁ!? なんだよその態度!」

 洋太の言いたいことはわかってる。彼女なんだから、心配しておけっていう最低限のことを教えてくれてるんだ。だけど、周りの人に囲まれている春原くんに、そうやって付け入る隙がない。でもそれを洋太はわかっている。だからこそ、周りに負けないように振舞っておけっていう、そういうことを言いたいのだ。

 春原くんと付き合い出して、それをよく思わない嫉妬をぶつけられた時があった。もう態度や言葉に示さないけど、それを不満に思っている人がいるのだってわかっている。でも、過去に受けた嫉妬や不満は全ては女子によるもので、私だって耐えられなくて挫けそうになったことがあったけど、今訪れていることは男子による不満だ。おまけに、同じ中学とか、部活仲間とか、春原くんの同性として近しい立場にいた人たちに不満を抱かれていることは、どうしようもない不安に襲われてしまった。

「なーに喧嘩してんの?」
「なまえ、大丈夫?」
「もー腹立つ……」

 洋太と口喧嘩して、顔も見たくなくなったからふんっと顔を背けて祐未とこゆきの元に戻る。会話までは聞こえていなかったみたいだけど、喧嘩してたってことに気付いた2人が声を掛けてきてくれた。イライラした感情を吐き出すように声をこぼすと、教室の扉がわざとらしいくらい、うるさい音を立てて閉まった。洋太が教室から出て行ったのだ。怒りたいのはこっちの方だっての。洋太の態度に「うっざ」と声を漏らしてしまった。

「なまえが怒るのって珍しいね」
「はやく仲直りしときなよ」
「無理! 私悪くないもん。 なんかテンション上がる話題ちょうだい」

 こゆきの席にたむろっていた2人の輪から少し外れて、自分の席に座ってうつ伏せになって机に身を預けた。やりたいことだけどやれなくて、それでもやれって言われて拗れただけの話だ。できないんだから仕方ないし、私って悪くないよね。このイライラが募って爆発してしまいそうな感情を抑えるために、自分を正当化して逃げ道を作った。

「じゃあ、なまえに報告なんだけどね、わたし、彼氏できたの!」
「マジで、おめでとう! 前に言ってた人だよね?」
「そう!」

 なんかテンションがあがる話っていうのと、こゆきの話したい話が同時に訪れた。ここ最近はこゆきの片想いの話はあんまり耳にしていなかったけど、ほぼ毎日メールでやりとりしてるとか、夏休みにたまに遊びに行ったことを聞かされていた。数ヶ月の片想いを無事に実らせて、こゆきはその男子とカレカノの関係になったそうだ。嬉しそうに話すこゆきと、それを茶化す祐未に頬が緩んだ。

「どこまでしたのー?」
「キ、キスした……」
「えっ、早くない!?」
「なまえが遅いだけでしょ。なまえは百瀬くんとどこまでしたの?」
「え……キスはまだしてない……」
「遅くない!?」

 舞子もそうだけど、祐未だって人の恋愛事情にさらっと首をつっこむ性格をしていた。そりゃ、彼氏ができたっていう友達に対しては普通に触れてしまえる話題だとは思うけど、こゆきが付き合って早々キスを済ませた話に飛び起きるように反応してしまったのは私だった。こう、順序っていうもんがあると思うんだけど……凄いなって思ってしまう反面、「なまえはピュアだからね」って私より先に進んでしまったこゆきに言われた通り、私がピュアすぎてちょっとズレてるだけなんだろうか。

「でも、百瀬くんとは遊びに行ったりしてるんでしょ?」
「してるけど」

 ……1回だけだけど。って心の中で呟いた。半年以上も付き合っておいてキスもしていない、遊びに行ったのはたった1回だけって、また大声を上げられて驚かれるのは目に見えている。頭の中を整理して字面に起こせば、確かに驚かれるのも無理ないことなのかもしれない。手を繋ぐことも、抱き合うことも、名前を呼ぶことも春原くんが言ってきたから初めてをしてきたわけだけど、キスは恥ずかしくてまだできないって拒絶したのは私の方だし……と、最近は春原くんの怪我のことばかりを考えていたけれど、久し振りに春原くんとの彼氏彼女の事情のことを考えた。

「キスしたいって思わないの?」
「う、うーーん……」
「なまえ、本当に百瀬くんのこと好きなの?」
「ちょ、ちょっと、祐未」

 言葉を濁した私に、祐未が少し不満げに私を睨んでいた。慌てたようにこゆきが祐未の袖を引っ張っていたけど、私は机にうなだれてもそもそと声を絞り出した。

「好きだよ。 でも、だから、恥ずかしくて……」
「あんた、キスでそれって、エッチするときどうすんの、死ぬの?」
「そんなこと考えたことないから!」
「え、ないの? こゆきは?」
「わ、わたしは、あるけど……」
「あるの!?」

 純粋そうに見えていたこゆきの2度目の爆弾発言に、また身体を起き上がらせた。こゆき、マジで?マジか。「初めては痛いよー」「ええ、やっぱりそうなの?」という経験者の祐未と興味津々のこゆきの話に耳を傾けながら、私は静かに息を飲んだ。キスよりも先の未知な行為の存在はさすがに知っていたけど、そこまで考えたことはなかった。いや、ちょびっとくらいならあるけど。ほんのちょっとだけ。だけどキスをするだけで恥ずかしくて仕方がないっていうのに、その存在は分厚くて大きな壁が建っているように何も見えないし、想像だってできない。

「まぁ、百瀬くんあんなだしね。おあずけって感じかー」

 こゆきとの話にひと段落ついた祐未が、つまらなそうに目を細めてため息をついた。あんなだしね、っていう言葉に祐未にとっては全く悪気のない発言だったのかもしれないけど、私の胸がわかりやすく痛んだ。春原くんが怪我をしたことで、春原くんの友達からよく思われていないことをこの上がったテンションの中で思い出したせいだ。

 洋太が教室に戻ってきたのは、祐未とこゆきとガールズトークで盛り上がっている最中だった。あの姿を見るだけでイライラが募っていくくらい、洋太の存在が頭にくることを再び思い出した私は、洋太と目が合うなりまたふんと顔を逸らした。遠くの方で舌打ちが聞こえたような気がするけど、言い合いが巻き起こる前に何も聞かない振りをした。
 その翌朝、生理がきた。