意識



 春原くんが怪我をしたことは、春原くんの将来はもちろんだけど、私たちの未来が変わった、転機のような事態だった。


 サッカー部は今年に入ってより勢いを増していて、うちの高校のサッカー部はインターハイへの出場が決まっていた。毎週末開かれている他校とのサッカーの練習試合は、それもあってか夏休みに入ると定期的に平日開かれるようになっていて、春原くんは目まぐるしい日々を送っていた。インターハイの時期は地区大会も開かれる時期と被っていることもあって、年明けに開かれるサッカー選手権大会とは違って、応援は自主的にといった形だった。「なまえ、夏休みはどうせ暇してるんでしょ」と、部活のない合間を縫って春原くんの試合を見に行こうとしていた舞子と洋太に誘われて、インターハイもそうだし、夏休みの間は春原くんが参加する練習試合だって頻繁に見に行っていた。2人とも運動部だし、そっちの大会が近付いて部活が入る予定の合わない日は、舞子と2人だけで行ったり、洋太と2人だけで行ったり、2人の予定が合わなければこゆきを誘って見に行った。ものの、こゆきとも予定が合わない日は、さすがに一人で行くのも気が引けたから行かなかった。インターハイの3回戦目の時もそうだった。でも、春原くんが怪我をして、途中退場したベスト4をかけた試合を私は見ていた。

 暑い陽射しが照りつける8月の真昼間は暑かった。コンビニで買った凍ったお茶を持って、日焼け止めを何重にも塗って、日傘はさせないから頭に持参したタオルを乗せて観客席に溶け込んだ。春原くんが試合で怪我をしたのは、ベスト4の試合をかけた準々決勝だった。インターハイでの試合は、PK戦にまで持ち越すことはなく順調を重ねてそこまで行き着いていた。もしかしたら今年こそは、インターハイの優勝を目指せるかもしれないと言われてたほど順調っぷりを見せていたけど、あの試合中、前半の試合があと数分で終わるというところで、ボールを蹴っていた春原くんと相手選手が衝突した。

「なまえ、大丈夫?」
「う、うん、私は、大丈夫だけど……」

 トラブルが生じた瞬間、真っ先に声を掛けてきたのは舞子だった。隣に座っていた洋太が、小さい声で「マジか……」と呟いていた声がはっきりと耳に届く。

 高校1年の頃、同じクラスだった女子生徒の2つ年上の3年生の彼氏が、朝の全校集会が終わった直後に他のクラスとの揉めて暴力沙汰に発展したことがあった。クラスメイトの彼氏は、やたらがたいのいい男子生徒に殴られて鼻血を出す事態になっていたけど、それを見ていた彼女が、ショックで過呼吸に陥っていたのを見たことがあったけど、彼女の気持ちが今ならわかってしまうのだ。ありきたりかもしれない試合中の事故とトラブル。過呼吸に陥るほどショックが大き過ぎたわけではないけど、倒れこんで、脚を抱えてうずくまっている春原くんの姿を見てしまった私が放心状態であったことに変わりはない。自分の好きな人が、彼氏が、怪我をしている姿を見ることは、たとえ命に別状はないことだとしても、大丈夫だろうかという不安や衝撃は大きかった。

「血、やばくない?」
「あの子、キャプテンマーク付いてるじゃん」
「うわー、キャプテンかー」

 試合は一時中断。倒れ込んだ春原くんに審判やチームメイト、監督やコーチが駆け寄っていくも、客席からもどよめきの声があがっていた。「思いっきりぶつかってたよね」とか「痛そう」とか「大丈夫かな」っていう声の中に、双眼鏡を抱えた人から不安を煽る声も混ざっていた。一般席で、保護者や高校サッカーに興味がある人たちと一緒に観戦していた席の周囲で、試合中に起こった事故に席に座っていた人たちの声が飛び交う。春原くんとか、百瀬くんとか、春原くんを知っている人たちが心配な声をあげている中でも、春原くんのことを知らない人たちの会話がやけに大きく耳に届いた。

 なかなか立ち上がらない春原くんに向かって、相手高校の選手達も駆け寄っていく。心臓の音がドクドクと嫌な音を立てた。私たちのいる場所から程遠く離れた場所での事故だったから、実際の状況はどうなっているのかがわからなかった。やがて担架を抱えた人たちがフィールドに入ってきて、遠目からでも見えた光景といえば、足を抑えて担架に運ばれていく春原くんの姿だったけど、寝込んでいるというよりはしっかりと上半身を起こして監督と話していていたから、頭を打ったとか意識がないというわけでもなさそうだったから、そこには安堵した。

「どうする? 私達、あっちには入れないよね?」
「無理。 名簿に載った奴らしか入れねぇって」

 春原くんは負傷で途中退場。試合は惨敗。優勢な形で2点を入れていた前半の試合だったけど、後半で逆転され、その差はかなり広まってしまった。あーあ……っていうどんよりな空気が、うちの学校応援席に何度も広がった。実力者である肝心のキャプテンが抜けてしまったということと、それが負傷退場という点でも、実力に限らずチームメイトの気の持ちようが左右されてしまったんだろう。グタグダな試合だったことは、素人の私にでもわかった。

「なぁー、春原、どうなったって?」
「左脚の膝下にスパイク刺さったっつってた」
「うわっ」
「最寄りの市立病院に運ばれたって」

 それでも、応援席の人たちは席を立ち上がることもなく、その試合を見続けた。ほとんど勝利や優勝に諦めが見えていたけど、席を立つってことは、見離したということになる。一番堪えていたのは、試合をしていたチームの面々だろう。彼らの最後までの頑張りを、この目で見届けた。

 試合が終わってすぐに背伸びをした洋太は、観客席を見渡していた。観客席の入り口から入ってきた友達が視界に入ると、洋太はすぐさまに声をかける。どこの知り合いなのか私にはわかんないんだけど、洋太の口調からして、サッカー部と交友関係のある人たちと見た。スパイクが刺さった、という言葉に舞子が声をあげて二の腕をさすっていた。

「骨折とかのレベルじゃないっしょ?」
「たぶん手術レベル」

 運動で怪我をしたっていうことをしたことがないし、した人を見たことがなかった。だから、春原くんがどんな怪我をしたのかわからなくて、だけど、骨折どころの話じゃないっていう話がはっきりと耳に入り込んで、身体が硬直してしまった。

「なまえ、病院行こ!」
「うん……」
「大丈夫?」
「私は、大丈夫、だけど」

 何度、私が大丈夫か?と問われたところで、私は大丈夫と返すことしかできなかった。心配で、不安で、どうしようもない。春原くんが怪我をした、ただそれだけのことで私は身体が震えるくらいの恐怖を抱いていたのに、私は大丈夫としか答えることができなかった。



 春原くんの入院は、1週間以上もあった。怪我をしたのは左足の膝から下の部分だけで、命に別状はない、右足はかすり傷一つもないから、そんなに心配することないよって春原くんに言われたけど、実際のところ、怪我をした左足は重傷に近かった。スパイクで思い切り蹴られたことで皮膚や肉がえぐれ、靭帯を切って、骨にはボルトを埋めないといけないらしい。完治して運動ができるようになるまでには、およそ半年の期間が必要だと言われていた。それでも、春原くんは「大丈夫だし、それよりもはやく治すよ!」と笑っていたのを覚えている。本当に大丈夫なんだろうか。大きな怪我をしたことがないから、私は春原くんの言葉を鵜呑みにして信じるしかなかった。

 春原くんが病院に運ばれたとき、舞子と洋太とお見舞いに行ったけど、そこには既に先客が何人かいた。だから春原くんと長話することができなくて、買ったお菓子とジュースを置いて帰ったわけだけど、入院初日じゃ、心配した春原くんの友達が一斉にお見舞いに訪れるんだろうな−−と思うと、なかなかお見舞いに行くこともできずにいた。それでも、心配だったから私は病院に赴いた。案の定、春原くんの病室には人がいて、ほとんど私の顔も知らない人たち。そんな賑やかな病室には、さすがに長居することも、一緒の輪に入って話し込むなんてこともできなかった。

「春原くん、おはよ」

 とはいえ、誰かがお見舞いに行っているから、春原くんも寂しくないだろう……と他人にお見舞いを任せることもできずに、入院から数日後、人が引いたであろう時期を見計らって、病院の面会時間が始まる10時に春原くんの元に訪れた。手術を一通り終えて、一人部屋だった春原くんは他の患者さんと一緒の大部屋に移動したと洋太が言っていた。面会開始時間直後だったら、まだ誰もいないと思った。実際その通りで、病院の入り口や病室に向かう途中に、お見舞いに訪れているだろう人をちらほら目にする程度で、春原くんがいる病室には、他の患者さん含め誰もお見舞いにはきていなかった。ほっとしたように胸をなで下ろして、春原くんがいる窓際のベッドまで足を運んで、閉まっているカーテンをそっと開けて春原くんに声をかけた。

「……寝てるし」

 さっそくおはよう、と声をかけたものの、春原くんはベッドの上ですやすや寝息を立てていた。きっと、さっきまでは起きていたんだろうな。テレビがつけっぱなしで、イヤホンをさしたまま仰向けで眠っていた。起こさないように、窓際の隅に置かれている椅子を静かに引き寄せて、春原くんの傍に寄る。春原くんの顔をこんなに近くで見たのは久しぶりだったし、春原くんの寝顔を見ることは初めてだった。

 春原くんが起きるまで、持ってきたお見舞い品をどこに置こうか悩んでしまった。ベッドの周りを見ても、出窓の物を置けるスペースを見ても、どこにでも誰かが持ち寄ったお見舞い品が溢れかえっていた。春原くんが入院してからも、あれだけ何度も知らない人たちを見ていたんだから、こうなることは仕方がないことなのかもしれない。冷蔵庫を開けてみても、ぎっしり飲み物が詰まっている。物理的な物が目に刺さって、来る前に下のコンビニで買っていたビニール袋を手に提げたまま動くことができなかった。

「……ん」
「あ、起きた」
「あれ、なまえっ?」
「おはよ」
「おはよ……って、来てたんなら起こしてよ」
「気持ちよさそうに寝てたから」

 しばらくの間、春原くんの寝顔を見ながら起きるのを待っていた。すやすやと上下に動いた胸元を見て、それが一度ぴたっと止まると、春原くんが目を覚ます。私がいることにビックリしたのか、慌ててイヤホンを外して目をこすっている春原くんを見て、手に抱えていたビニール袋を持ち上げた。

「調子どう? これ、下のコンビニで買ったお菓子とジュース」
「ありがと!」
「でも、いっぱいあるね」

 置き場所がないから、春原くんの目の前でもどこに置こうか迷ってしまったけど、ありがとって言われたら、春原くんの手が伸びてきた。お菓子も飲み物だってたくさんあるのに、春原くんは私が手にしていたものを取り上げて、お腹の上に広げていた。

「歩いたら骨に響いて痛いけど、腫れが引いたらおさまるって。夏休み終わったら、すぐに学校にも行けるよ」
「そっか。 良かったじゃん」
「ほんとだよ」

 春原くんに部活のことは触れられなかった。学校に行けるようになるって、それだけのことを聞いて頷いた。私が買ってきたジュースの蓋を開けて、お菓子の袋を破って、いそいそと食べ飲みを始める春原くんに頬が緩んでしまった。こんなにたくさんお菓子も飲み物もあるのに、私が買ってきたものを食べてくれるんだ。そんな嬉しさを感じながら春原くんの様子を見ていると、廊下からぞろぞろと人の気配を感じた。数人が廊下を歩いて喋っている音だ。

「百瀬、遊びにきたよ……あ」
「元気にしてっかー? ……あ」
「あ……」

 携帯を開いて時間を確認すると10時30分だった。そんな気はしていたけど、病室に入ってきた人達は春原くんのお見舞いに訪れた人たちのようで、閉めていたカーテンがガラッと開いた。2人の男子と、1人の女子。カーテンが開いた先で男子と目が合うと、若干気まずそうな空気が流れた。うち1人の男子には見覚えがあった。

「こんにちは。 百先輩、大丈夫ですか?」
「うん、元気だよ。 今日も来てくれたんだ、ありがと!」

 後に入ってきた女子に「こんにちは」と挨拶をされたから私もこんにちはで返したけど、彼女の気も、2人の男子の気も、当たり前だけど春原くんに向いてしまっていて、私は居辛い空気に飲み込まれそうになってしまった。「部活前にちょっくら顔見にきた」とか「監督も滅入ってるよ」っていう春原くんに向けた言葉で、この人たちがサッカー部であることを知る。最初に見たときに気付いたけど、男子のうち1人は、春原くんのチームメイトである柴岡くんだった。話の流れからして、女の子はマネージャーのようだった。

「私、そろそろ帰るね」
「うん。 ありがとうね」

 私の周りを囲って会話をされてしまえば、ついに私の居場所がなくなった。この人たちがここに来た理由って、春原くんのお見舞いが目的なんだから、サッカー部でもなんでもない私は部外者扱いとなる。それは仕方のないことで、居辛くなった私は席を立った。



 春原くんとはクラスメイトとして一緒に過ごしていたし、付き合ってから春原くんのことを知っていけてはいたものの、春原くんの交友関係っていうのはほとんど知らなかった。友達が多いのは元々知っていたし、先輩や後輩にも顔見知り関係の人が多いということも、入院している時にお見舞いに訪れるたくさんの人たちを見て知ってはいたけど、その輪が密集すると、私は春原くんの彼女っていう特別な立ち位置にあったとしても、小さい存在にしか過ぎないと知ったのは、春原くんが数日の病院生活から退院して、同時に2学期が始まってからだった。

 春原くんは、私の見えないところで誰よりも信頼を置かれていて、ヒーローみたいな存在である。春原くんは、クラスのムードメーカーであり、友達も絶えずその輪も広い。わかってはいたことだけど、それを改めて認識した。春原くんの周りには、怪我をして部活に出られなくなった後でも、周りについた人は絶えなかった。それは、私が春原くんを気にする隙がないくらい、小さな存在と知ってしまった私は、いてもいなくても同じような気がしてしまった。

「なまえ、おはよ!」
「おはよー」
「お見舞い来てくれてありがとうね!」
「うん。 あんまり顔出せなくてごめんね」
「気にしないでよ!」

 2学期が始まった始業式の日。いつも通りに学校に来ると、昇降口で座り込んで靴を履き替えている春原くんに会った。ギプスのついたまま靴を履き替えている春原くんは大変そうに見えた。だけど、私が靴を履き替えるよりも先に履き終えた春原くんは、よっと身軽に立ち上がって、下駄箱に立てかけていた松葉杖を引っ張りあげた。

「大丈夫? リュック、持ってあげようか?」
「平気!」

 春原くんは一昨日に退院していた。たった1日で松葉杖とのコミュニケーションを取れるようになったのか、端から見ても平気という言葉通り、どうってことなさそうな雰囲気だったから、私は差し出した手を引っ込めた。

「百瀬、靴履いたー?」
「ああ、うん」

 下駄箱の側面からひょっこり顔を覗かせたのは、柴岡くんだった。目が合って「どうも」と軽く挨拶されたけど、柴岡くんは視線と腕を春原くんに向けた。

「カバン持ってやるよ」
「大丈夫だって、っ、おい、くすぐったいな」
「カバン持つのと、松葉杖持ってかれんの、どっちがいい?」
「あっ、オレの松葉杖! それオレの! ダメだって!」

 柴岡くんは、私と同じことを春原くんに告げていた。だけど、柴岡くんは強引にでもリュックサックを持とうとしたのか、大丈夫だっていう春原くんから松葉杖を取り上げる。リュックと松葉杖のどちらを取るのかと無理矢理春原くんに問いただして、松葉杖を選ぶしかない春原くんは、これまた無理矢理リュックを剥ぎ取られていた。

「じゃあ私、先に教室行くね」
「うん、また後でね!」

 柴岡くんの行動って、私にはできないことだった。「大丈夫だよ」って言っていた春原くんから強引にリュックを取り上げて気を利かせた柴岡くんに対して、私は声を掛けることしかできなかった。それでも、私も春原くんを気遣って話したこともない柴岡くんと3人で教室まで向かうことが正しい判断だったのかはわからない。もし洋太だったら、一緒に教室まで行けたかもしれないけど。「カバン重すぎでしょ。何入ってんの」「勉強道具しか入ってないよ」という2人の声が背中にぶつかる。『部活仲間』っていう、春原くんと一際仲がよくて、信頼関係が強くて、私とは面識のない赤の他人がそこに入り混じってしまうと、居場所がなくなるのは、彼女っていう特別な意識の中に存在している私の方だった。

 私は、春原くんの彼女っていう立ち位置にいて、春原くんの特別な存在であることはわかりきっていたことだけど、居場所がそこにあるとは限らなかった。