意識



 春原くんと付き合い始めてから、初めてデートをしたのは7月だった。


 春原くんとの付き合いはあっという間に半年を過ぎていった。週に5日ほど毎日顔を合わせて、挨拶をしては放課後に喋っていたり、決めた日には一緒に帰る。大雑把にいってそれが半年続くと、日常と同じようなものに変わった。春原くんと付き合い出してからした行為はキスの手前くらいで、その部分に一線を引いて接していけば、当初はドキドキしてた行いも、今じゃ少しの恥じらいだってなくなっていた。手を繋ぐことも、抱き合うことも、名前を呼ばれることにも慣れてしまったけど、その先のことは緊張と羞恥が直前になって同時に襲いかかってきてしまうものだから、そこから先に進めないでいた清純なお付き合いを繰り返していた。春原くんはこう、何かの衝動で唐突に先に進めたがる節があるらしい。少しずつ、身を寄せあったり肌に触れてこようとしてくれるけど、それを羞恥のせいで受け入れないでいたのは私の方だった。

「なまえって、春原のこと名前で呼んだりしねぇの?」
「しないねー。 考えたこともなかったし」
「春原、かわいそ」
「だって、今更すぎるでしょ」

 毎度お馴染み期末テストの部活停止期間中、約1年前の新体制から変わらずに、舞子と洋太と春原くんとの4人で勉強会を開いていた。赤点を免れたらいいと言う舞子にはもう慣れたし、アプリゲームに没頭して勉強よりもそっちを優先する洋太にももう慣れたし、春原くんの頭の悪さにもとっくに慣れきった。2学期の期末テストが終わってしまえば、残るテストはあと4回しかない。自ら進んで勉強会に参加した有志を褒めて、これがあと数回で終わってしまうことを喜ぶべきなのか悲しむべきなのかは、今の私にはわからなかった。

「春原が、なまえのことデートに誘いたいけど、お前、何考えてんのかよくわかんないから誘えないって話してた」
「え、なにそれ」
「いや、そのままだろ」
「私、基本暇してるし、誘われたら遊びに行くよ」
「といいつつ、中学のやつらとも遊んでんだろ?」
「まぁそうなんだけど。 予定立ててくれたら空けるよ」
「お前、そういうところ」

 勉強会を開くようになってから、この4人のメンバーはそれなりに仲が良くなった。いや、元々それなりに仲は良かったんだけど、特に舞子と春原くんは、この勉強会で一緒に過ごしていたせいか前よりも仲が良くなっていて、今は2人仲良くトイレに行っているといった感じだ。2人とも社交的なタイプだから、同じクラスになってからも比較的良く喋っていたみたいだけど、そこに友達の彼氏であり、彼女の友達である私が位置すれば、話すネタが増えるのか最近やたら仲良くしてるように見える。別に仲良くしてくれるのは構わないけど、たまに「そういえば春原が言ってたんだけどさー」とか「碓氷さんに聞いたんだけどさ!」って、余計な話がでてくるから、私が頭を悩ますことがよくあった。そして今は、春原くんに何かを聞いたらしい洋太にまで、こんなことを言われてしまう始末だ。

 春原くんはサッカーに人生をかけているくらいサッカーに没頭している。今まで付き合っていた子とどういうふうにデートを重ねていたのかわからないけど、住んでいる地区も少し距離があって、おまけに今年の春原くんは部長とキャプテンを任されていて、プロを目指して奮闘している身だ。そこは春原くんの活動を尊重しつつ、私は遠い場所で見守って応援している彼女枠なので、その邪魔はなるべくしたくないと思っていた。春原くんはそれについて何も言いだしてこないから、それが正解の行動だと思っていたけど、どうやら春原くんは影でそのようなことを洋太に告げていたらしい。

「逆に春原くんって、サッカーばっかりで、暇なのかどうなのかわかんないんだよね」
「そこは聞けよなー」
「だって春原くん、気利かせてくれそうじゃんか。 なんか予定あっても、誘ったら他の用事断って付き合ってくれそうだし」
「それでいいんじゃねーの?」

 春原くんが私のことをデートに誘いたいと思ってくれている。その言葉は嬉しくて思わず口元が緩んでしまうけど、洋太に笑われるのは間違いないので、それを誤魔化すように余計なことを口走ってしまった。それでいいんじゃないの、とは全くもってその通りなんだとは思う。だって春原くんは私のことをちゃんと考えてくれているんだから、それくらいの許しを得ても問題ないはずだ。

 私は悩んだ。友達を通してこんなことを知ってしまえば、是非とも遊びにいきたいというのが本望である。だけどそれをどのタイミングで言うべきなのか、色とりどりのボールペンで要所要所のメモを残している自分のノートをじっと見つめながら考えた。
 開いたままの教室の扉の外から、舞子と春原くんの陽気な笑い声が聞こえてくる。その声がすぐ傍までやってくるのにそう時間も掛からず、私のことをちょっとだけ洋太に相談したらしい春原くんの姿をチラッと視界に入れてしまった。

「春原ーー、なまえが春原と遊びに行きたいんだってさ」
「は!? ちょっと待ってよ、私そんなこと言ってな……」
「マジで!? オレ、日曜日なら部活、午前しかないから暇だよ!?」

 心の中では思っていたことだけど、それを一切声には出していなかったはずだ。なのに洋太は突然そのようなことを言い出して私は焦った。そんなこと言ってない、と言おうとしたけど、私の言葉は春原くんによってかき消された。

「なに!? なまえが春原のことデートに誘おうとしてんの!? 珍しー!」
「ちょっと黙って」
「どこ行く!?」
「いや、私まだ何も言ってな……」
「夢の国はカップルが別れるらしいからオススメしない!」
「そうなの!? って、それって都市伝説なんじゃ」
「祐未はそれで2回くらい別れてるから!」
「マジ!? 都市伝説じゃないの!?」

 私は行くだなんてまだはっきりと伝えていないのに、勝手に話を進められ、目の前で盛り上がりを見せている2人を見て、ため息を吐くことも忘れた。勉強会とはいえ、今日はそれが終わりに近付いてお開き状態となってしまっては、勉強しないなら帰るという手段が存在していなかった。対して、好きじゃない勉強というものから解放されたことで開放感を覚え、テンションが上がり続ける姿を見て、私は顔をしかめる。ことの発端となった洋太といえば、わざとらしく口笛を鳴らしながらこの光景を見ていた。



 半ば強引に取り付けられたようなデートの約束だったけど、内心嬉しいと思っていた。だって付き合ってから初めてのデートなんだから。付き合いはじめて半年以上経っているのに、春原くんと遊びに行ったのは付き合い始めたあの日きりというのも変わった話だとは思うんだけど、週明けにテストが迫っているというのに、春原くんとデートするってことはさすがに気が引けた。「春原のヤツあんなに楽しみにしてたのに、その神経が理解できない!」って舞子からブーイングを受けるのも無理はない。だけど、テストを目前にして遊びに出掛けて、春原くんが赤点でも採ってしまったらシャレにならない。あの春原くんなら大丈夫だろうって考えは、春原くんの勉強のできなさに対して不安が募りすぎるあまり、そんなことは微塵も考えられなかった。でもそれを逆手にとってしまえば、テストを頑張ったらデートができると張り切ってくれた春原くんは、私が断っても落ち込むことはなく、勉強も頑張ってくれたので結果オーライといったところだ。先日春原くんが口にしていた通り、テスト明けの日曜日の午後は暇をしていたのか、金曜日に声を掛けられて遊びにいく約束ができあがった。

「どこ行く!?」
「なんも決めてなかった」
「水族館、遊園地、動物園、ソライロタワー……」
「うーん」
「水族館だと空飛ぶペンギン見れるところあるし、イルカショーに気合入れてる場所もあって、遊園地だと子供向けのイベントやってて、動物園はこないだ生まれたばかりのパンダの赤ちゃん見れるし、ソライロタワーは……」
「え、全部調べてきたの?」
「当たり前じゃん! どっか行きたい場所ある!?」

 春原くんと初めて遊びに行った日もそうだったけど、というか、春原くん相手に限らず、私って遊びにいく計画性を立てないタイプの人間だった。そりゃ、最初からどこに行こうと決めていたらその通りの計画を立てるんだけど、どこかに行くという"どこか"が漠然とした話に対しては、自分で決めるというよりは、言われて付いていく性格をしていた。たぶんこれ、高校に入って流れで遊びに行く経験を繰り返していたからこうなったんだろうなとは思う。祐未はあらかじめどこに行くかを告げて遊びに誘ってくれたりするけど、下校中に気が変わって遊びに行く舞子とか、私みたいに遊びに行くという漠然な計画で遊びに出掛けて「どこに行く?」と当日に聞いてくるこゆきの存在が大きい。

「春原くんって、下見はするけど、デートプランきっちり立てて彼女をそこに連れてくってタイプじゃないんだね」
「そっちの方がよかった!? でも、連れてった先が楽しくない場所だったら嫌じゃない!?」

 春原くんのことだから、デートプランを立ててくれそうな気がしていなかったわけじゃない。あんなふうに乗り気で誘ってくれたから、てっきりどこかに連れてってくれるもんだと思っていたけど、春原くんは下見をするだけして、私に問うといった計画を立ててきたらしい。考えてみれば春原くんって、自分が行きたいからその場所に連れていくことはしない性格をしているんだっけ。初めて遊びに行った時も、つまらなくないかとかそんなことを気にされていた覚えがある。

「私は別に。 春原くんと一緒にいれたら、それだけで楽しいし」
「え!? そ、そう……?」
「うん。 ……あ、春原くん、あれ見て。特撮のイベントだって」
「あ! ほんとだ! 見たかったやつ!」

 最寄駅には大型のファッションビルが建っている。駅で待ち合わせをして少しの時間、どこに行くかの話をしていたけど、ビルの4階では特撮の展示が開かれているらしく、ポスターや看板に目が止まって私はそれを指差してみた。水族館とか、遊園地とか、その下調べをして私に提供してくれた春原くんは、それを見ると面白いくらい反応を見せていた。

「じゃ、あれにしようよ」
「なまえ、特撮とか興味ないだろ!?」
「まぁ、名前くらいしか知らないけど。 春原くんが楽しんでるのを隣で見れてたらいいかなって感じ」
「お、大人……」
「そうかな?」
「そうだよ」

 興味ないでしょと言いつつ、春原くんは好きな特撮イベントがすぐ近くで開かれていることを知れば、私に声を掛けながらも、泳ぎ目でポスターに視線を向けてしまうんだからわかりやすい。行きたいんだなって思ってしまえば、私は是非ともそちらに行こうという気になった。特撮のことは何も知らなくたって、前に見に行ったサッカーのイベント同様、楽しんでいる春原くんの隣を歩いている方がずっといい。

「友達と遊んでる時はさ、一緒に楽しめたらいいって思ってたけど、春原くんと一緒にいると、春原くんが好きなもの見てる姿を見てんのがいいとか、春原くんの好きなものをもっと知りたいって思ったりするんだよね」
「ほんとにいいの?」
「いいよー」

 春原くんは一瞬悩んだ後に「じゃあ特撮イベント見に行く」と言ってくれた。「春原くんが下見で用意してくれたデートスポットは、その後に行こ」って笑って言ってみせれば、春原くんは嬉しそうに笑って頷く。歩き出そうとした春原くんの手のひらに触れてみせた。そうすると、自然と手が繋がれてしまうのだ。

 いつもと変わらない繋いでいた手の繋ぎ方が変わったのは、なんの前触れもなく、上りのエスカレーターに乗っているときだった。左側に1列になって、私が前に立っていれば春原くんと同じ目線に立った。手を繋いだまま、間隔が狭いから春原くんと少し密着した形になる。その状態で春原くんと話をしていると、春原くんの手が、指先が、少し動いて、私の指の間に割って入ってきた。

「……えっ、なにっ?」
「わっ、ご、ごめん」

 骨ばった指が私の指の間に挟まろうとすると、身体がビクッと反応して、思わず手を離して声まであげてしまった。驚いた拍子によろけて1段上の足場に尻餅を付きそうになった、それくらい驚いた。よろけかけた私を支えるように、春原くんは私の腕を引っ張る。

「ちょっと、びっくりしただけ」
「だ、だめ?」
「別にダメじゃ、ないけど……」

 これは俗に言う恋人繋ぎだ。女の子の友達同士ならふざけあって繋ぐことはしていたけど、こんなふうに男の子、ましてや好きな人としたことはもちろんなかったから、こんな場所でも緊張が駆け抜ける。ダメじゃない、と言えばもう1度春原くんの指先が絡んできた。今度は引き離すこともせずにそれを受け入れた。普通に手を繋いでいるよりも、指先だけだというのに密着度が高くなった気がする。思ったよりがっちりと手を握られてしまって、角度が悪いせいか、おかしなところに骨が当たっているような気もする。かといって、こんなに力強く握られてしまっては、繋ぎ直すこともできなかった。そんなことよりも。

「ねぇ、春原くん」

 エスカレーターを降りて展示会場のあるフロアに来て、イベントが開かれている場所に向かっている途中、耐えられなくなって、ちょっと春原くんの方に距離を詰めて、横目で見上げながら口を開いた。

「……なんか喋ってよ」

 恋人繋ぎをし始めてから、春原くんは黙ったままだった。してきたのは春原くんなんだから、この小っ恥ずかしい空気をどうにかしていただきたいんだけど。

「あー、えっと……」
「はは、何照れてんの」
「だって恥ずかしいじゃんか!」
「じゃあやめる?」
「やめないけど!」

 笑ったり、春原くんが照れくさそうな声をあげる度にお互いの手が引っ張りあった。だけど、すっぽりと挟まったお互いの指先はちょっとの振動じゃ外れはしない。すべすべとしていた肌が、お互いの体温で摩擦されたのか、それとも他の何かなのかはわからないけど、熱を帯びて熱かった。「手汗やばくない?」と冗談で口にすると「恥ずかしんだよ」っていう素直な春原くんの言葉が返ってくる。

「特撮のやつ見たら、水族館行こうよ」
「特撮やめてそっち行く?」
「なんでそうなんの」

 春原くんのすぐそうやって言い出すところ、面白くはないけど、可笑しくて仕方がない。遊園地じゃこんなことしてらんないし、動物園はちょっと違う。ソライロタワーは候補に上がってたけど、春原くんって高いところ苦手じゃん。だけど水族館なら、デートをするならそれっぽくていい。その場所で、こうやって恋人同士っていう感じのことを、今日は1日中していたいと思った。

 そんな春原くんが怪我をしたのは、夏のインターハイの試合中だった。