意識



 春原くんは、サッカー部のキャプテンになってから少し悩んでいるようだった。


 どの部活にも関わらず、部長を務めることが大変だってことは知っている。実際、私は部活でもそこの長をしていたというわけでもないけど、中学の頃に広報委員会の副委員長をしていた経験があった。委員会に所属している全学年の数人の生徒をまとめて、担当の先生とやりとりをする。広報の仕事だったから、学校関係者以外とも関わって、毎月月初に配布する新聞作りや小さな冊子作りをしていた経験は、そういう物作りが好きな私にとっても大変だったという記憶があった。副委員長であれど大変な思いをしたんだから、委員長だった友達はさぞ大変だったろう。
 委員会の仕事と比較するのも極端な話かもしれないけど、部活の長と、ついでにキャプテンっていう肩書きを背負った春原くんが、少し大変そうな思いをしているんだろうなってことは、ゴールデンウイーク中に開催されたインターハイへの予選大会や、毎週のように週末に控えている練習試合を繰り返していく姿を見て感じていた。インターハイへの出場権をもぎ取っても、練習試合で白星を出しても、その結果とは別に春原くんは悩んでいた。

 運動部は、経験と実力者であるコーチや監督が実際に試合にでることなんかできないから、彼らの意思思考を背負ったキャプテンを中心に、全体がまとまって試合をするらしい。洋太が言っていた。小難しい話をするもんだなと思ったけど、それは実際その通りで、運動部なんかは特に相手の高校を研究して、試合中は戦術や戦法を考えて仕掛けては防衛していく。身体だけじゃなく頭も使わなくてはいけないそうだ。
 野球は、ただ投手の調子とボールを見極めて適当にバッティングしているわけじゃない、捕手がバッターを見抜いて投手に指示をし、投げさせている。それと同じように、サッカーだって、ポジションに位置している相手の動きや先の行動を見極めて攻めるか引くかの駆け引きをしている。ただ相手の隙を狙ってボールを投げているわけでも、蹴っているわけでもないのだ。

 思い返せば、体育の授業でバスケをしていた時に、投げようとした場所の先に相手がいたり、バレーだって、動こうと思った反対の方向にボールが飛んでくることを思い出す。あれ、咄嗟にあそこならいけるって思ってるわけじゃなくて、私たちの動きをちゃんと考えてやっているんだってことを、高校3年生になってからようやく気付いた。
 あいにく、体育の成績はそこまでよくない。保健授業も一緒になっている授業だから、保健の筆記テストで成績はそれで留まっているけど、実際体育が別の項目だったらもっとひどい。順位にこだわっているわけじゃないけど、もしそんなだったら学年5位くらいに落ちているんだろうなとは思っていた。どうせ体育の先生も、私が運動の知識がないことを見抜いてこんな成績を付けているんだと納得してしまった。それにフリーの時間は友達と遊び感覚でやってるけど、試合では負けくじをよく引いている。

「みょうじさん」
「ん? なに?」
「今日ってさ、一緒に帰れたりしないかな」

 その日は珍しいことに、教室で舞子を待っていたら、部活を終えた春原くんに「一緒に帰りたい」と零された。悩んでしまった。だって、今日は春原くんと帰る約束をしていなかったし、私は舞子と帰る気でいて、舞子だってきっとその気でいる。だけど舞子は、きっと私よりも春原くんを優先しろって言うに違いない。
 彼氏ができたからといって、友達との約束を断ってまで彼氏を優先するのはいかがなものか、と思っている私。でも春原くんが、珍しくいきなり一緒に帰りたいと言い出したことと、舞子にならそれが許してもらえると思った私は、この二つを天秤にかけてしまって、心が揺れ動いた。

「大丈夫だとは思うけど、舞子が戻ってくるまで待っててもらっていい?」
「いいよ。 ごめん、我儘言っちゃって」
「私は平気だけど」

 なるべく彼氏と友達は私の中である程度、平等でたもっていたい。いいよって舞子を置き去りにすることも、約束してるから無理って春原くんを置き去りにすることもできなかった私は、一応自分の意思を伝えておいた。舞子に聞いてみないとわからないっていう、自分の気持ちを置き去りにすることもできなかった。

 舞子が戻ってくるまで、春原くんといつもと変わらない他愛のない話を繰り返した。そういえば洋太に聞いたんだけどさ、と聞いたばかりの運動部のキャプテンは大変だっていう話を持ちかければ、春原くんは「大変だよ」って笑っていた。その笑みの中に、薄っすら苦労が入り混じっている気がしたのをなんとなく感じてしまった。

「春原、あいつ、大丈夫?」

 舞子が戻ってきて、「お待たせー!」と大声を上げていた舞子をさっと廊下に連れ出した。どうしよう、春原くんがなんか悩んでいるかもしれない……っていう女の勘を抱きながら、春原くんに一緒に帰りたいと零されたことを口にしようとしたら、先に舞子からそんな台詞をもらってしまった。

「切羽詰まってるっていうか、そんな感じがするんだけどさ」
「春原になんか言われたの?」
「一緒に帰りたいって」
「帰りゃいいじゃん! 私、親呼んだら迎え来てくれるし」
「ねぇ、こんな時、私ってどうしたらいいんだろ」
「そりゃ、話聞いて、慰めてやるしかないでしょ」

 と、春原くんの異変を薄らと察した私は舞子に訊ねたけど、舞子はあっさりと返答した。私が聞きたかったことって、そうなんだけど、そうじゃない。もっと具体的なことを知りたいんだ。舞子は春原くんと同じ運動部だし、慰めの言葉は普通に出てくるんだろうけど、そうじゃない私は何をどう慰めたらいいのかわからない。なんかあった?とか、頑張って!と言ったところで、春原くんの心に響くなんて到底思えないし、私だってそれでいいのか?とすら思ってしまう。だけど舞子は、何がダメなの?といった様子で私を見ていた。

「慰めの言葉とか、思いつかないんだけど」
「春原のことだから、抱きしめていい? とか、また言ってくるんじゃない?」
「え!?」
「ハグって精神安定剤とか言うじゃんか。 結局、まだしてないんでしょ?」
「してないけどさぁ……」
「そんなことよりもさ、なまえの中で、私と春原と3人で一緒に帰るって選択肢がないことにほっとしたわ」

 そんなことよりも、じゃないんだけど。だけど舞子に言われて、その手があったかと気付いてしまった。私の中ではどちらかをとることしか頭の中になくて、今回は春原くんをとってしまった結果になったけど、私が選んだことは間違いではなかったらしい。


 春原くんとの付き合いは順調そのもので、喧嘩をすることはないし、普通に話している仲だった。けどまぁ、春原くんは今年に入ってから土日はみっちり部活をしているし、小学校で入ったスポーツクラブチームを、高校になった今でも有志を集めて学校と部活以外でもサッカー活動を続けている忙しい人だから、学校以外で会うことってないし、学校生活の中でだって、毎日顔を合わせて話をする仲ではあるけど、2人きりで話すことは放課後くらいしかない。一緒に帰ると決めた日には、手を繋いで、自転車を引いた春原くんと帰り道を歩く。

 春原くんに抱きしめたい、と零された日から何日か経ったけど、それはそれっきりのことだった。やだと言ってしまったから、春原くんは自分からそれをもう一度言い出せないのかもしれない。それを待っているわけじゃないけど、一応心の準備は常にしている状態ではあった。私は積極的に行けない、恋愛に対しては受身な性格をしているから、自分から言い出すこともまずできなかった。

「なんかあったの?」
「うーん……うん」

 春原くんの指先に力がこもった。それに返すように指先に力を込めたら、春原くんは歩いていた足を止めた。それに合わせるように足を止めて春原くんを見ると、これまた珍しく険しい表情を浮かべている春原くんと目があってしまった。

「……なんか、変な感じ」
「なにが?」
「なんかこう、誰かを慰めるっていうの」
「オレ、まだなんにも言ってないんだけど。 ひょっとしてみょうじさんって、エスパー?」
「そんなんじゃないけど、伝わってくるっていうか」
「ごめん」
「別に謝んなくてもいいんだけどさ。あんまりしたことないから、こういうの」

 繋いでいた手が離れていく。私がそれを追わないでいれば、繋いでいた手が外れた。春原くんは頭の後ろをくしゃりと掻き上げて、ため息をつく。

「今までキャプテンと監督の指示と自分の意思で判断して動いてたんだけどさ、キャプテンになってから、もっと周りを見ろとか独りよがりのプレイするなとか、もっとわかりやすい指示を出せって言われてるんだよ」
「大変そう……」
「んで、監督にさ、毎回おんなじこと言われるんだよね」
「なんて?」
「春原は味方がトラブルと視野が狭くなるって」
「あ、そうなんだ?」
「そうみたい。気をつけてるつもりなんだけどな」

 頭を掻いて視線を逸らした春原くんを見つめていた。どういうふうにそんなことを言われているのか、私は漠然としか理解できていないけど、確かに春原くんは優しい人だから、もし味方に何かがあるとそっちに気を取られてしまうような気がしなくもない。なんて声をかけたらいいのかわからない。どうやって慰めればいいんだ。運動とかしていないから、慰めの言葉もアドバイスも何も思い浮かんでこなかった。

「みょうじさん」
「ん?」

 これは想定していたことだけど、あらかじめそれを訊ねていた舞子はなんて言っていたっけ。春原くんの言葉を待てと、それだけを言われたような気がする。そんなことを思い出していると、不思議なことに、それは訪れるのだ。

「オレのお願い、聞いてくれる?」
「当たり前じゃん。 なに?」
「−−抱きしめてもいい?」

 春原くんは私をエスパーかと言っていたけど、私だって舞子はエスパーか何かだと思った。舞子の言っていた言葉が、そのまま春原くんに零されて、それを求められた。

「……いいよ」

 心の準備ができていたこともあって、私はすんなりとそれを飲み込んだ。誰も歩いていない、暗い静かな住宅街は私たち以外の人影もなくて、初めてそれを言われた時の状況がそこにはなかった。

 すぐに自転車から手を離した春原くんの腕が伸びてきて、両腕で身体を包み込まれた。暖かさよりも先に、春原くんの匂いが鼻をつく。初めて春原くんの指先以外に触れた。意外と腕の力が強くて、思わず「痛いよ」って照れ笑いしながら言ってしまったら、腕の力が軽く緩んだ。
 春原くんからはそれだけだった。抱きしめられた後に何の言葉も零されなくて、ちょっと間を置いた後に私も春原くんの背中に手を回してジャージを握る。肩にかけていた鞄がずれ落ちて腕に引っかかった。あったかい、気温が上がっていたこの外の温度よりも、その体温ばかりに意識が傾いて鞄が落ちてきたこともどうも思わなかった。落ち着く。抱き合うことって、考えてみたら女子とよくやるから、思ったほどそこまで緊張はしなかったし、不思議とドキドキもない。

「……春原くん?」
「なんか、ごめんね」
「ええ、なにが?」
「……かっこ悪いところ見せちゃって」
「……平気。私こそ、なんもできなくてごめんね」

 身を預けられるように抱き締められて、耳元から鼻の啜るような音が聞こえてビックリした。少し悩んでいて元気がないどころか、見えないところで弱っていた春原くんをあやすように背中を撫でた。

「元気でた?」
「……、うん! ありがと!」

 しばらくすると、春原くんの腕に一瞬ぎゅっと力が篭って、それが緩んだら私も背中に回していた手を緩ませて離すと、密着していた身体が離れた。抱き合った時って顔が見えないし、ハグで気持ちが落ち着くからどうってことなかったのに、こうやって身体が離れて向き合うと、今さら恥ずかしさが込み上げてきた。
 思わず照れ笑いをしそうになるけど、春原くんが最近見ていた笑っている姿じゃなくて、前まで見ていた笑顔を見せてくれてほっとしたから、「よかった」って落ちた鞄をもう一度肩にかけて、笑って頷いた。

「みょうじさん」
「なに?」
「もう一個だけ、オレのお願い聞いて」
「え、な、なに」

 さっきまで笑っていた春原くんはそれをやめて、私と向かい合ったまま、私を見つめた。月明かりと街頭の明るさのせいか、やけに別人のように見える。目が合って、一気に緊張が押し寄せてきて、顔を背けたくなったけど、それは許されないような気がして、私は春原くんと視線を絡ませた。

「……名前で呼んでいい?」
「え!? そっち!?」
「え!? ごめん! ダメなら、大丈夫!」
「ダメじゃないし、全然いいんだけど……キスされるのかと思った」
「えっ……、……していいの?」
「え!? いや、あの、……うん」

 名前で呼ばせてっていう、斜め上の発言に思わず声を上げてしまった。抱き締めあったし、目が合ったし、その後に言葉にできない居心地の悪いような空気が流れていたせいで、キスをされるんだと思っていた私は、自意識過剰のようで恥ずかしくなって俯いた。
 いいの、と言われて、また顔を上げる。ちょっと驚いた春原くんとまた目が合った。頷いてしまったら、春原くんの指先が私の手に触れた。指先や身体は触れたけど、それ以外をこうやって素肌に触れられるのは初めてで一気に心臓の音が高鳴る。
 たまにドラマで見るような手を繋ぎながらキスをしているシーンが頭の中に流れて、春原くんって案外、ロマンチストというか、そういうところがあるんだよねって思いながら、近付いてきた春原くんを受け入れようとした。

「……っぷふ、だめ、やっぱダメ」

 でも耐えられなかった。唇が触れそうになる直前に、恥ずかしさのあまり吹き出してしまって、自ら身体を引き離してしまった。

「なんで笑うの!? オレ、かなり緊張してたのに!」
「ごめん、ごめんなさいっ、でも、ふふっ……やっぱり恥ずかしくて、キスはムリ」
「なにそれ!?」

 完全に身体が離れて、春原くんに背中を向けて、耐えきれない恥ずかしさから込み上げる笑いを泣くほど吐き出した。暑い。手で顔を仰ぎながら、ごめんねって春原くんの方を振り返ると、微笑んでいる姿が目に入った。

「やっと笑ってくれた」
「それ、私のセリフだから」
「−−なまえ」
「んー? はい」
「って、呼んでいいんだよね? 笑うのナシだよ、オレ、いま真剣なんだからね」
「大丈夫、笑ってない。 春原くんからの呼び捨てって、なんか、くすぐったいなって思ったから」

 手のひらを鼻にあてがって、やっぱり耐えられない恥ずかしさを笑いで誤魔化した。すると、また春原くんと目があった。

「か、かわいい……」

 と、どうしてか顔を染めている春原くんに零されて、「かわいくないから!」と言葉を付け足しながら、思わずその身体を指先で突いた。容赦なくあばらにヒットする指先に、春原くんからの「いたいよ」って言葉が耳に届く。春原くんの身体から手を離すと、離れていく手を追いかけるように春原くんの腕が伸びてきて、私の手首が掴まれた。

「もう一回、抱きしめさせて」
「やだよ。 今日はもう終わり。寿命が縮まりそう」
「なんで!? あと一回くらい、してくれてもいいと思うんだけど……」
「だって私、こんなことしたことないから、恥ずかしいんだよ。わかってよ」
「え……」
「なによ」
「ご、ごめん。 ちょっと、がっつきすぎた?」
「ちょっとどころじゃないからね」

 手首を握られた春原くんの手を、空いた片手で上から重ねて引き離した。するりと離れてくれた春原くんの人差し指を掴んで、ついでに中指も一緒に掴んで軽く手を繋ぐ。春原くんは私の気持ちを理解してくれたのか、それ以上積極的なことを言い出さなくなって、ゆるく繋いだ手をそのままに自転車を支える。

「なまえ、好き」
「うん。 私も好き」

 指同士を軽く絡めるだけの繋ぎ方は、親と小さな子供がするような手の繋ぎ方と似ている。だけど春原くんの少しごつごつとした男らしい指先がぴくりと動くと、初めての感覚に恥ずかしさでちょっとだけ背中がぞわっとした。
 春原くんにまた名前を呼ばれて一瞬ドキッとしたけど、馴れてくれたせいか平然と口にできるようになったそれを私は返した。この日、初めて春原くんに名前で呼ばれて、それっきり春原くんは私のことを名前で呼んでくれるようになった。