意識



 春原くんに初めて好きだと言ったのは、誰もいない放課後の教室だった。


 高校2年生の春休みに、春原くんは高校サッカーの選抜メンバーの選考選手に選ばれていた。日本を代表する高校生チームのメンバーの選考。埼玉で数日選考の練習試合をしていたそうだけど、春原くんは選抜メンバーに残らなかった。選ばれたのは、ほとんどが全国大会で優秀な成績を収めた学校の3年生や、わずかな2年生だった。だけど、そういう結果を残した学校の選手達が注目されている中で、ベスト16止まりの公立高校の2年生にして選考選手に選ばれたということは、少なからず世間の注目を浴びていた。全国ニュースのスポーツ記事の中で「惜しくも残らなかった××高校の春原くんは……」とキャスターが口を挟んでいるのを見た。顔写真はないものの、本人の名前と年齢とポジションが乗ったフリップが目に入った。

 春原くんは将来有望の期待を寄せられている一選手になった。都内のサッカーが強い高校の生徒にも名前が知れ渡り、今や有名選手の一人だ。今年も全国出場を決めたら、きっとプロ入りは確実だろうと言われていた。だから今年は頑張らなきゃねって、キャプテンを任されて張り切っていた春原くんは言っていた。

「こういう時って、応援したらいいのか、慰めたらいいのか、わかんないんだよね」
「応援しててよ! なんで慰める必要があんの!?」
「だって、選抜外れちゃったじゃん……次があるよって、言っちゃいけない言葉だって聞いたし」
「そんなこと誰に聞いたんだよ」
「ネットで調べたら出てきた」
「オレのために、そんなことまで調べてくれてたの!? やさしー!」
「ねー、私、本当に悩んでるんだけど」

 春原くんが注目を浴びる有名人になるたび、私ってどうしていたらいいんだろうとは思う。付き合い始めた彼氏が、いくらすごいって学校中に言われていたところで、まさか全国的にも有名になる人だなんて思いもしなかった。こんな経験している女子って、そりゃ、日本国内で数えれば何人かはいるんだろうけど、身近では私くらいではないか。

「選抜通らなかったのは仕方ないって! めちゃめちゃすごい人たちしかいなかったからね!」
「春原くんって、羨ましいとか、悔しいとか、思ったりしないの?」
「うん、しないよ。 だって、実際オレよりもすごい人しかいないんだもん。一緒にプレイしてたら、オレなんか全然だなって思うし。あの人達が選ばれて納得!って思ってるし、選ばれなかったら、なんで選ばなかった!?って逆上しちゃうくらいだよ」
「え、かっこいい……」
「かっこいい!? マジで!? でも、小学校の頃にレギュラー落ちた方がめちゃくちゃ悔しかったよ」
「春原くんみたいな人でも、レギュラー落ちたりしてたんだ」
「してたよ、当たり前だよ。 めっちゃ泣いてたよ、オレ。 子供の頃って、何を基準に選ばれんのか具体的なことわかんなかったし。ひたすらオレが悪いんだって悔し泣きしたりしてたんだけど、やっぱ、全国ってなると違うよね。格が違う人たちが何人もいて、すげーって見てんの」

 春原くんはサッカーのことになると、周りが見えなくなるほど饒舌に話し出す。最初の頃はまた始まった……と思っていたこともあったけど、今では春原くんを知る手段の一つでもあった。普通に話だけをしていた頃は、表面でしかわからなかった春原くんの明るさや優しさが、今じゃもっと深いところまで知れている。春原くんは決して、誰かを妬んだり僻んだりしない人だ。めちゃくちゃ良い性格してるじゃんか。付き合い始めたら悪い面も見えてくるって聞くけど、春原くんにそんな心配はなかった。

「いつか一緒に、同じチームで戦いたいな」

 紙パックのジュースを啜りながら、机に腰掛けていた春原くんはどこか遠くを見て呟いた。その横顔を見て、私は目に付いた折り目が歪んだスカートを直した。もう動いていないスチーム暖房器はひんやりとして冷たい。一度体勢を変えてしまえば、スカート越しにその冷たさが太ももに伝わった。

「私、春原くんに、言わなきゃなって思ったことがあるんだけど」
「なに?」

 スカートに移していた視線を、そのまま春原くんに向けた。いつも話している放課後の部活終わりの時間は教室には誰もいなくて、廊下を歩いている生徒だっていない。教室には静かな空気が流れていたけど、私が切り出した言葉はさらに静寂を呼んだ。

「えーっと、その……」
「なに、どうかした?」

 さり気なく伝えようと思ったんだけど、いざとなると言葉が出てこなかった。喉の奥でそれがつっかえて出てきてくれない。そのまま何も言い出せない私に対し、春原くんは「なに焦らしてんの」と言ってくる。きょとんとしていた表情が怪訝な表情に変わって、私は視線を逸らした。

「焦らしてないけど、うまく言えないっていうか」
「わ、別れ話とか?」
「え!? いや、違うんだけど、むしろその逆っていうか」
「逆って……?」

 なんでこの状況の中で別れ話を切り出されると思ったんだ。私が伝えたかったのはその逆の言葉で、未だ春原くんに直接告げられていないことだ。焦らしているつもりはないけど、私だって焦れったくなる。もう一度春原くんに視線を向ければ、眉をひそめた春原くんと目があった。

「好き」

 頭でははっきりとその二文字が浮かんでいた。心の中でも伝えることを決めていた。恥ずかしくて緊張でもしていたんだろうか、上手く言えなかった言葉をやっと吐き出した。好き。これは私が頑張って切り出せた、初めて告げる春原くんに対する気持ちだというのに、肝心の春原くんからの反応はなかった。

「……って、まだ言ってなかったなって、思って」

 一体どんな反応が返ってくるんだろうとは考えてはいなかった。だけどまさか、無反応でいられるだなんて。その反応に、私もどんな反応を見せたらいいのかわからなくなって、誤魔化すように言葉を付け足した。

「え!?!?」

 そうこうしていると、まるで時差が生じていたように、春原くんは遅れて反応を見せてきた。

「え、な、なに、どうしたの、急に!?」
「言いたいなって思ったから」
「本当に!?」
「嘘」
「え!? なんで!?」
「だって、そんなこと聞いてくるんだもん」

 私が好きだと言ったことは、春原くんにとって意外なことだったんだろうか。現実を飲み込めないといった様子で、春原くんはテンパりながら私を見て慌てる。その姿が面白くて、春原くんをいじるように、私は笑いながらそんなことを言ってみた。
 よくよく考えてみれば、春原くんはいつか、私に好きだと言ってもらえるように頑張ると言っていたことを思い出す。なんの前触れもなくそれが訪れてしまったんだから、驚く以外の感情が出てこなかったのかもしれない。

「好きなのは、本当だよ」
「オレも、みょうじさんのこと好きだよ」
「うん、知ってる。 ありがと」

 言い直すように私がもう一度好きだと伝えると、照れ臭そうに笑った春原くんから同じ言葉が返ってきた。やっぱ、こんなことを言われたり言い合ったりするのって恥ずかしい。私も釣られて、ふふっと、短くて小さな笑い声をあげてしまった。

「……やばい、抱きしめたい」
「は!?」

 その恥ずかしさから一転して、春原くんの言葉に私は顔と声を同時に上げてしまった。抱きしめたいって、一体なにを言ってんの!?と少し遅れて心の中で叫んでいた。
 確かに好きと伝えたのは私の方だ。春原くんが望んでいた言葉だということをわかっていて、私は口にした。私は伝えられたことに自己満足を覚えて、今日は帰ろうとしていた。その先のことはまだ何も望んでいなかったし、考えてもいなかった。まるで階段を一段抜かししたような、私の思考になかったことを言い出した春原くんにビビってしまった。

「や、やだよ」
「そ、そう……」
「だってここ学校だし、もうすぐ舞子だって戻ってくるし」
「そうだよね、ごめん……」

 あからさまに、そんながっかりとした表情を向けられたって、いつ友達が戻ってくるかもわからない状況でそんなことできるはずない。友達に限らず、教室の中でイチャついてるのを他のクラスとか先生に見られでもしたら、絶対おかしな噂になることは目に見えている。

「なまえー! おまたせー! ……あっ、ひょっとして私、お邪魔だった?」

 春原くんの言葉を拒んで正解だと思った。春原くんの言葉にビビって怖気づいていたのもあるけど、流されるまま春原くんに近付かなくてよかったと思ったのは、それからすぐに教室の扉がガラッと勢いよく音を立てて開いた時だ。部活と反省会が終わった舞子が、部活終わりだというのに変わらず元気な声を上げていた。

「いや、邪魔じゃない! オレ、もう帰るし!」
「ははーん」
「なに!?」
「なんでもない。気をつけて帰んなよ」
「ありがと! 碓井さんもみょうじさんも気を付けて帰りなよ!」
「うん、バイバイ。 また明日」

 これまたあからさまに一番慌てていたのは春原くんで、声のトーンがおかしかったのは私だって気付いてた。舞子も同じだった。勘違いのズレを生じそうな舞子の思考だけど、舞子は何かを悟りでもしたのか、やたらニヤついた笑みを春原くんに向けていて、私は2人の姿を呆然と見ていた。帰り際に、バイバイとやっと絞りだせたくらいに、私は春原くんが言い出した言葉に動揺が隠せなかった。


 付き合い始めると、いつか言葉だけでは気持ちを言い表せなくなるっていうことは、恋愛経験のない私でもわかっていた。好きって言葉を伝えたら、次に訪れるのはスキンシップである。言葉を伝える前に手を繋いでしまったけど、それはきっと最初の段階のものだ。というより、言葉よりも先に付き合ってから段飛ばしのように手を繋いでしまったから、好きを告げた後に来るはずの手を繋ぐという行為が春原くんの中に存在しなかったのかもしれない。だから抱きしめたいと言い出して、返って私は一段飛ばしのように衝撃を受けてしまったんだろう。

「春原くんと何喋ってたのー?」
「春休みの選抜のこととか……」
「あとは?」
「子供の頃、レギュラー落ちしたりしてたって話とか……」
「それで?」
「えっと……」

 舞子は実に私たちの恋愛事に興味津々だった。恋愛事に非常に興味がある分、その辺りの察しや勘付きががいいのか、それでそれで、と私に問いかけてくる。それは私が未だに動揺を隠しきれないせいでそう思ってしまっているのかもしれないけど、次の話を訊かれるたびに語尾が小さくなっていく姿は、逆にそれを教えているようなもんだよって舞子に言われてしまった。舞子にとってはすべてお見通しのようだ。現に、今までこんなふうの内容に対して、返答に困った時はそれなりに言葉を濁すことしかしてこなかった私が、フィラーごとく「えっと」と零してしまったことが一番大きかった。

「春原くんに、好きって言った」
「マジで!? すごいじゃん! 春原の反応は!?」
「……抱きしめたいって言われた」

 あれは夢なんかじゃなく現実だったんだよね。心の整理をしながら、私は恥ずかしいことだけど誰かに聞いてもらいたかったことを、正直に舞子に言った。わかりやすく顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。告白された時や、好きだって言われた時みたいに照れくさい笑いを交えられる余裕なんてなくて、鞄を握りしめて俯いた。

「キャー! なにそれ! それで、なまえはどうしたの!?」
「やだって言った」
「はい!?」
「だって、学校だよ!? いつ誰に見られるかわかんないし……」

 と言いながら、もしそこが誰も来ないような場所で言われていたとしたら、私はどうしたんだろうって考えた。少女漫画のヒロインみたいに、恥ずかしさのあまり失神でもしていたかもしれない。そんな想像をしてしまうくらい、今の私にそれは早すぎるような気がした。

「春原、かわいそー」
「や、だって、そもそも抱き合うって恥ずかしくない?」
「あんたピュアすぎじゃない? 別に裸で抱き合うわけじゃないんだからさぁ、そんくらいは」
「空気とか、気になっちゃうじゃんか。 私、そんなことされた後なんて、どうしたらいいのかわかんないよ」

 手を繋いだ後も、好きって言い合った後も、照れくさかったけど会話が生じるから難を逃れてきたけど、抱き合った後はどうしたらいいのかなんて想像もできない。ちょっとだけそれを想像しつつ、けれども恥ずかしさしか訪れてこないから首の後ろがかゆくなってしまいそうだ。鞄を握りしめながら、無意識に首筋の生え際を触った。

「春原は恋愛経験それなりにあるだろうし、任せときゃいいじゃんか」
「そういうもんなの?」
「そういうもんでしょ」

 そうだよね。春原くんと元カノの話はしないけど、中学の頃から付き合ってるって聞いたから少なくとも2年くらいは付き合っていたはずだ。それなりに恋愛の中での経験はあるんだろうし、慣れてるのかもしれないし、きっと流されるまま身を任せていれば問題はないのかもしれない。
 だけど、春原くんが前に付き合っていた子と、それなりのことをしていたのかな、なんてことを考えてしまえば、私は複雑な気持ちを抱いてしまった。