意識



 春原くんと2年生を一緒に過ごした、最後の日だった。


 舞子には昨日、今までのことを正直に洗いざらい話した。舞子を待っている少しの時間に春原くんと過ごしていたこと。舞子に用事ができて早く帰ってしまった時に、春原くんを待って一緒に帰ったこと。菅根くんを紹介されてから春原くんをますます意識するようになって、春原くんに勘違いをされて、それを自分の口から違うって告げたこと。あと、春原くんに今日空いてる?って聞かれたこと。

「私のことなんて気にしなくていいからね!?」

 それを全て告げた後に、舞子に驚かれながら言われた。舞子とは前後の席だし、学校では毎日話して毎日ご飯を一緒に食べてたり、休みの日だって予定が合えば一緒に遊んでいるくらい仲が良い。だからこそ、いつでも会えて遊べるような状況の中で、彼氏である春原くんとの時間だって大事に過ごしてほしいっていうそういう気遣いの声を舞子はあげた。私は一瞬悩んでしまった。彼氏ができたからって、友達との約束をないがしろにするということがどうにも気が引けてしまったから。

「私は、舞子との時間も大切にしたいって思ってる」
「なまえは私の彼女か!? 春原、今日からこっちにいなくなるんでしょ? 私とは春休みだって遊べるけど、春原とはしばらく会えなくなるじゃんか。 せめて5:5の割合でいいから接するようにしないと!」
「そういうもん?」
「そういうもんだよ。 だから、今日は春原のところに行きなって」
「……わかった」

 そういうことすら正直に口にしていたら、舞子は気を利かせたのか「今日は部活の後輩と遊びに行く約束しちゃった!」と言いだした。舞子から受けた言葉に背中を押されるように、私はそっと頷いた。ついでに「昨日話したことも忘れるなよ」って言われて、また私は数回頷く。


 春原くんに、今日は大丈夫だよって言葉をかけると、春原くんは嬉しそうに笑ってくれていた。明るいうちに春原くんと帰ることは初めてだったし、教室の中でも春原くんと話して、一緒に帰ろうとすると周りの目が気になってしまった。私と春原くんが付き合っていることは、あの一件があってからみるみるうちに広まったのか、教室中の人が私たちを見る目が変わったような気がした。実際、今日はあまり話したことのないクラスメイトにもそのことに触れられることがあった。

「みょうじさん」
「ん?」
「手、繋いでいい?」
「……え、……いや……」

 春原くんと一緒に帰ったのはたった2回しかなかった。暗い夜道を、自転車を引いた春原くんと歩く。だけど今日は今までとは違って明るくて、下校時間と丸かぶりだから同じ制服を着た人たちがちらほら家路に着いているのを見かける。そんな中で、校門をくぐったところでもいつも通りといった感じだったけど、校門を抜けて静かな住宅街を歩いていると、春原くんが私に訊ねた。私はその言葉に困惑したように拒絶を見せてしまった。

「あ、ご、ごめん!」
「明るいから、ちょっと、恥ずかしくて」
「そうだよね! ごめん!」
「ううん、大丈夫なんだけど」

 昨日の今日で、私の中で複雑な感情が湧き上がったままのこの気分では、素直に手を繋いで歩くことなんてできなかった。あからさまに残念がる顔を見せた春原くんに、私は視線をそらしてしまう。そんな中で、心臓はドクドクとうるさい音を立て始めた。そのうるさく鳴り始めた胸に手を当てて呼吸を繰り返して、今日はあっちの道を通って帰ろうと、寂れた住宅街の遠回りの道を指さして告げてみたら、春原くんはうんと頷いた。

「……あのさ、春原くん」

 こっちの方角から通っている生徒は近い道の大通り付近を歩いて通ったりしているから、こんな細くて遠回りの道を歩いているのは私たちをくらいしかいなくて、寂れた住宅街ともあってすれ違うのは、保育園帰りらしき自転車を漕いだ親子くらいだった。訊くなら今しかないと思って、私は口を開く。

「春原くんは、なんで私と付き合おうと思ったの?」
「えっ、どうしたの、急に」
「最近、それが気になってて」

 私がそのことを告げると、春原くんは足を止めて驚いたように私を見た。私も足を止めて、春原くんと向かい合う。

「だって私、春原くんと話合わないし、なんでかなって、ずっと思ってて」

 昨日、舞子と話して聞けと言われたことを訊いた。私が思っていることを正直に告げながらだ。まさかこんなところで、こんな重たい話をされるだなんて思っていなかったらしい春原くんは、困惑気味に言葉を発した。

「す、好きだから……?」
「なんで疑問系なの」
「いや、その……」

 このとき初めて、春原くんに好きだと言われた。だけど、言われたら嬉しいと思っていたはずの言葉が、今の私には嬉しいと思えなくて、困惑を拭えず疑問系のように吐き出された言葉に私は無意識に言ってしまった。嬉しいと思えなかったのは、私が言わせた形になってしまったし、何より春原くんの気持ちよりも私の複雑な感情の方が勝ってしまったせいだ。続けて、引っ掛かりを覚えている私は、感情を抑えきれずにそんなことを口走ってしまったのだ。

「……みょうじさんは、なんでオレと付き合おうと思ってくれたの?」
「私は……」

 私は、の後の言葉が出てこなかった。春原くんの本音を聞く前に訊ねられてしまった言葉に、私は口を噤んでしまう。正直に、意識していたからだって、告白してくれたのが春原くんだったからだって、ここで素直になって言ってしまえばよかったのに。春原くんの本音を聞けないままの私が、正直な気持ちを告げることができなかった。舞子が言ってたみたいに、私は臆病な性格をしているらしい。

「……ごめん、変なこと聞いちゃったね」

 私が答えられないまま口を閉じていたら、春原くんは苦笑いを零した。いつも笑っている春原くんが、声だけじゃなく、表情まで変えてそう言いだしたことに、心の底から嫌なものが湧き上がって、震える声ですら、ぶつけたい衝動に駆られた。

「だってさ、春原くん、私じゃなくてもよくない?」
「……どういうこと?」
「春原くんのこと好きな子なんてたくさんいるじゃん。同じ運動部の子とか、趣味の合う子とか、気の合うことか。 私は運動もしてないし、サッカーのことなんかわかんないし、趣味も合わないし、話だって」

 例えるなら、親と喧嘩して言い合いをする時のような、子供じみた行いだった。親と喧嘩なんて滅多にすることないんだけど。だからこそ近しい人と言い合いをする時って、そこで関係のないことでも、今までの不満をぶつけてしまうほど気持ちが高ぶってしまう。怪訝そうな顔を浮かべて「どういうこと?」と零した春原くんに、私が躊躇って言えなかったことを、その状態のままぶつけてしまった。泣くつもりはないのに、鼻の奥からも喉の奥からも、その波が押し寄せてくる。

「−−ごめん」
「なに、なんで春原くんが謝るの」
「オレは、みょうじさんと一緒にいたいなって思ったから、だから付き合おうと思った! 一緒にいると楽しいし、喋ってると嬉しいって気になる。好きとかよくわかんないんだけどさ、みょうじさんのこと考えるようになって、ずっと一緒にいたいなって……だけどこれって、好きってことでしょ!?」
「そ、れは」

 私が思っていたことと同じような感じのことを春原くんは私にぶつけてきた。好きってわからないけど、意識はしていたし、今だってしている。一緒にいたいし、私だって言葉を交わしているだけで楽しい。それが好きだってことなのか−−と思えば、私は一呼吸終えて「そうだよね、ありがとう」と口にした。春原くんの本音を聞いて、良い意味で考えていてくれたことに心が救われた。

「でも、みょうじさんは!」

 私は安堵していたけれど、春原くんが声を上げた。私は、と言われてどうしても春原くんから視線をそらせなかった。

「オレが、付き合おうって言っちゃったから、みょうじさん、断れなかったんだよね!?」
「え!? いや、そういうわけじゃないけど」
「オレは、みょうじさんのこと気になって、好きになっちゃったから、オレの気持ちをみょうじさんが受け止めてくれたことが嬉しくって、舞い上がってた!」
「春原くん、私は、」
「だけどみょうじさんは、オレのこと、きっと友達として好きでいてくれてるだけで、優しい性格してるから断れなくて、オレと仕方なく一緒にいてくれてるだけなんじゃないのって思ってて……だから、好きとか言えなくて」
「ちょっと、春原くん、タンマ!」
「みょうじさんは、なんでオレと付き合ってくれたの!?」

 私ばかりが春原くんの気持ちがわからなくて、こんなモヤモヤとした気持ちを抱えていたと思っていたのに、まさか同じようなことをぶつけられるとは思いもしなくて、話の途中で自転車を支えていた春原くんの腕を掴んだ。そしたら、春原くんに2度目の質問をぶつけられた。答えるなら今しかない。だけど、春原くんの顔を見ていられなくて、握りしめた腕に視線を向けて私は吐き出した。

「私は、春原くんのことが好きなのか、よくわかんなくて……でも、私だって一緒にいたいなって思ってるよ。これからもっと好きになっていくんだってわかってるけど、好きになっていく度、なんか……」

 好きになっていく度に、なんか……と、それを勢い任せに言ってしまいそうなことを、息を吸い込んで振り払った。さすがに、今抱いている辛さを春原くんの前では言えなかった。掴んでいた腕を自転車から離した春原くんの腕をさらに強く握りしめる。最近、付き合っていることに辛さを覚えていた。春原くんの気持ちがわからなかったっていう理由があったけど、それよりも、初めて誰かに受けた嫉妬に怯える辛さの方が強かった。周りの目が気になって仕方がなかった。だけどそれは、自分の問題であって、春原くんには関係のないことだ。

「でも、春原くんのことが好きじゃないとか、友達だから好きとか、そういうのじゃないんだ。意識してた。本当は、2年生になって、春原くんのこと意識してた時期が私にあった。だけど、手の届かない人だって思ってたから、諦めてて。だけど、春原くんと仲良くなって、また、意識するようになっちゃって、告白されて嬉しかった。でも、だけどさ、私、自信ないよ」
「みょうじさん、顔上げて」
「ええ、いやだ」
「顔見て話したい」
「やだ。 それに私、最近、春原くんのこと付き合ってると周りの目が気になって仕方がない。春原くんって人気者だからさ。だから、こんな私が、って気持ちが強くて」
「でも、オレが好きになったのは、みょうじさんだよ」

 ずしりと春原くんの身体に自転車が寄り掛かったのを小さな衝撃で感じた。自転車を支えていた春原くんの片腕が伸びてきて、私の手首に触れる。そこでやっと、目に溜まった涙を浮かせたまま春原くんを見上げた。

「今なら言える。 オレ、みょうじさんが好き。だから付き合おうって言った。 オレが好きなんだから、みょうじさんには悪いけど、この気持ちはみょうじさんが不安で、嫌に思って困ってたって、オレにはどうしようもできないよ」
「うん、そう、なんだよね」
「だから、ごめん」
「春原くんが謝ることじゃないんだってば」
「違うよ。 オレが好きって気持ちが、みょうじさんの迷惑になるんなら、オレは諦めるよ」

 溜まっていた涙が溢れてしまった。諦めるってことは、この関係が無くなって、友達同士の関係に戻るということだ。舞子に私がどうしたいのかって言われた時に、本当はそれを考えていた。春原くんの本音を聞いて、私の気持ちをぶつけて、ここに来て訪れた決断に私の心は揺れ動くのも一瞬だった。

「諦めてほしくない」

 拭えない涙を流して、鼻をすすって、下唇を噛んだ。気持ちが高ぶるあまり、こんな姿を曝け出すことは生まれて初めてだった。不思議と羞恥はなく、呼吸が荒くなっていく中で私ははっきりと春原くんに伝えた。

「私は、春原くんと一緒にいたい。春原くんに、傍にいてほしい。私のこと、春原くんの特別な存在として意識しててほしい」

 友達には戻りたくはないと思った。このまま好きになっていきたいし、好きでいてもらいたい。なんて我儘な女なんだって思われるかもしれないけど、それが私の本心だった。

「っ、よかったーー!!」
「うわっ、痛い、なに!」
「本当にオレ、みょうじさんが断れないから、仕方なく付き合ってくれてるんだって思ってたから……」

 春原くんがいきなり大声をあげると同時に、目元にブレザーの硬い素材が当たった。痛かった。泣いて腫れかけていることもあって、その痛みは鈍い痛みを引きずる。涙を拭ってくれているんだとわかると、容赦ない拭い方に春原くんの手を掴んでしまった。あんなに重たい空気の中で笑うことなんてしなかった春原くんが、目を見開いた先で笑っていた。

「ごめんね、こんな話しちゃって」
「平気! オレも、みょうじさんの気持ちがわかってスッキリしたから!」
「うん……あ、袖、濡れちゃったね」
「すぐに乾くでしょ」

 春原くんの腕から手を離したら、袖には濡れて染みた跡が残っていて苦笑いを交えた。春原くんは自転車に手を掛けて、寄り掛からせていた自転車を支え直す。どちらからともなく止まっていた足を動かして歩き出したら、数歩進んだ先で春原くんが私の名前を呼んだ。

「……好きって、言ってもいい?」
「なんでそういうこと聞くの」
「いきなり好きとか、重たいかなって思って……」
「重くはないけど、恥ずかしくなるよね」

 喧嘩とは違うけど、ちょっとした言い合いをしてしまった後の空気にはなかなか慣れなかった。気まずいような、そういう空気が流れていて、だけど春原くんはこの空気をかき消すように恥じらいながら口を開いた。春原くんは私のことを好きでいてくれているのだ。改めてそれを認識すれば、緊張が入り混じった照れ臭さが私の身を包み込んだ。

「みょうじさん、好き」
「うん……ふふっ」
「そうやって照れ笑いするところか、めちゃくちゃ好きなんだよね、オレ」
「やめてよ、恥ずかしい」
「みょうじさんに、いつか好きって言ってもらえるように、オレ、頑張るから!」
「頑張んなくたって大丈夫だよ」
「じゃ、じゃあ、オレのこと好き!?」
「んんー……ふふ、うん」
「言ってくれないじゃん!?」

 改めてはっきり好きって言われてしまうと、ずっと言われたかった言葉なのかもしれないのに、急激に恥ずかしくなってしまった。首を横に振って、照れ隠しみたいに両手で口元を覆った。私だって本当は好きって言葉を返したかったけど、恥ずかしさのあまりそれが返せず、逆に緩んだ唇を隠してしまいたかった。

「……手、繋ぎたい」
「え!?」
「嫌なら大丈夫」
「嫌なわけないじゃんか!?」

 その代わりに、ぼそっと独り言みたいに、だけど春原くんの耳に届くように最初断ってしまったそれを口にした。春原くんが手を繋ぎたいと思ってくれていたのと同じように、私も手を繋ぎたくなってしまった。春原くんは手の平と甲をごしごしとスボンで拭って私の前に手を差し伸べた。指先が触れて、手を包み込むように春原くんの手が私の手に触れる。

「めちゃくちゃ照れくさいな……」
「わかる。 ごめんね、変なこと言っちゃって」
「気にしなくていいから! あ、っていうか、みょうじさんの今日の手、暖かいね!?」
「春原くんの手だって、前よりも熱いよ」
「き、緊張してるから」
「春原くんも緊張したりするんだ?」
「するよ! 試合の前とか、みょうじさんと一緒にいる時は、いつもそうだから」

 やっぱりどんな話をしたって、結局はサッカー関係ほ話に落ちちゃうのか。試合の前と私を同等の緊張を感じているらしい春原くんの話を聞いて、私はしばらく春原くんの前でできなかった声を上げて笑うっていうことがやっとできた。