意識



 初めて春原くんと手を繋いだのは、3月だった。


 春原くんが高校サッカーの選抜メンバーに選考選手として選ばれたって話は、それを春原くんに聞いた翌日に朝の全校集会で発表された。朝の全国のスポーツニュース記事にも、候補として数人の名前が挙げられている中に春原くんの名前も載っていた。昨夜見た優勝校の人のように大々的に取り上げられているわけではない、ひっそりとしたものだったけど、少なからず注目は浴びていた。
 高校2年生にして日本代表の選考メンバーに選ばれた春原くんは、春休み期間に開催される海外の大会の出場メンバーを目指すこと、卒業後のプロ入りを目指して、学業を両立させながらサッカーに専念する。大きな試合がある時期は学校よりもそちらを優先して、春休みや夏休みはサッカーに明け暮れる予定だと、はやくも今年一年の予定が詰まっていた。

「なまえ、私今日、先輩達の送別会あるからね」
「ちゃんと覚えてるよ」

 3月ともなればテストも終わって、3年生は部活を引退しているし、自由登校の時期だ。ソフト部は秋の大会を境に3年生は引退していたそうだけど、この時期は卒業間近ともあって部活で送別会が行われるそうだ。今日の舞子は部活がなく、そっちに行ってしまうから私一人になる。授業が終わったらすぐに部活の先輩たちと遊びに行って、夜はコーチ達を含めた送別会があって、部活をしていない私にとってちょっとだけ羨ましいと思ってしまった。

「今度の金曜日、舞子、部活の送別会があるんだって」

 春休みに入ると春原くんは、埼玉で数日練習した後に選抜メンバーの選考があって、それに選ばれると海外に行って世界の大会に出場するそうだ。たとえ選ばれなくとも選考に選ばれた人たちは同世代の活躍を見に行くことを許されるそうで、どちらにせよ春原くんは春休みはどこかの国に行ってしまう。「初めての海外が大会の試合って緊張する!」と、嬉しそうに笑っていた春原くんとしばらく会えなくなる。たぶんこの日が2年生で最後の一緒に帰れる日だと考えたら、私は舞子に送別会があると聞かされてすぐに春原くんに告げた。「じゃあ、一緒に帰れるね」とすぐに返してくれた春原くんに笑って頷いた。

「春原くん、海外行っていろんな人たちと喋るなら、英語話せないと大変じゃない?」
「大丈夫、通訳してくれる人がいるって言ってたし! あと、ジェスチャー付ければなんとなく通じるって聞いた!」
「そこはさ、勉強しないとって言うところだよ」
「えっ、じゃあ、今から勉強したら英語マスターできるかな!?」
「それは無理」
「そうなるでしょ!?」

 声を上げたテンポの良い春原くんの返しに、両手で口を覆って笑ってしまった。春原くんとの帰り道は、決まって春原くんのサッカーの活躍についての話を持ち出した。やっぱり、未だに春原くんがプロへの第一歩を踏み出したっていうことが信じられないでいた。今まで身近にプロに行くとか、プロを目指している人がいなかったせいだろうけど、今は何よりもこんなに近くにいてくれる春原くんがそうなってしまっていることに驚きも抜けきれなかった。まだ2年生だっていうのに、注目を浴びる選手の仲間入りした春原くんのこんな近くにいれてるのか、私。

「みょうじさんは、進路って考えてる?」
「就職にしようかなって思ってる」
「偉いじゃん!」
「やりたいこと何もないから。 春原くんはどうするの。もしプロに決まっても、大学に進学するかとかあるんでしょ?」
「うん。オレはまだそこまで決めてないんだけど、一応、大学行くことも視野に入れてる」

 高校3年生に近づけば進路の話は必ず出てくる。どうして春原くんがそんなことを言い出したのかと言われたら、今日のホームルームで進路についての用紙が配られていたからだ。就職を希望するか、進路を希望するか。3年生になれば、週に2回、授業の中で就職クラスと進学クラスに分かれた授業が始まる。一応私は就職に丸を付けたけど、希望の業種とかは全く決めていない。提出は明日の帰りのホームルームだけど、家に帰ったら親と相談して決めなきゃいけない。
 春原くんは、大学に行くことも視野に入れていると言っていた。プロっていう他の人にはない特殊な進路先を手に入れた春原くんは、仮に選抜に選ばれて来年プロ入りが決まっても、大学に通いながらプロ業を続けることもできるらしいから、おそらく進学クラスに行くことになるんだろう。

「ていうか、もう3月だけど、まだ寒いね」
「……前から思ってたんだけど、みょうじさんって寒がりなの?」
「うん、寒いのはちょっと苦手。朝起きれないし」
「でも、学校はいつもの時間に来てるよね?」
「目覚まし1時間早くかけてるからね」

 日中はコートもマフラーも外せるくらいの気温になったけど、夜はまだ寒かった。3月に入ってからコートもマフラーも脱いでいたジャージ姿の春原くんは「オレは寒い方が好きだなー」と言いいながら自転車を引いていて、私は隣で歩く春原くんを見上げながら帰り道を歩く。春原くんが寒い方が好きっていう理由は、運動すれば暖かくなるからっていう、そんな理由からだった。

「春原くんって、朝起きれなかったりしないの?」
「しないね。 パッと起きて、パッと動ける! 風邪も滅多にひかないし」
「私も風邪はあんまりひかないけど……春原くんって、血圧とか体温めちゃくちゃ高そうだよね」

 想像しなくてもわかるんだけど、春原くんって健康体だ。体温とかも高いんだろうなって思っていたけど、春原くんは「高いよ」って笑っていた。いいな、羨ましい。そんな言葉を零したら、春原くんの手が私の前に伸びてきて、私は足を止める。

「触ってみる?」
「え……うん」

 ちょっとドキドキしながら、伸びてきた指先に触れた。はじめて春原くんの身体に触れた−−という緊張よりも、びっくりするくらい暖かかった手に思わず「え、あったかい!」と声を上げてその手を握ってしまった。変わらないまま笑顔を見せた春原くんに「でしょ?」と言われて頷いたら、春原くんはそのまま歩き出そうとする。あ……と思いながら、それに続くように歩き出してしまえば、自然と手が繋がれた。

「みょうじさんの手は冷たいね」
「でも、私だって、寝る前とかは体温上がるんだよ」
「それ、眠いからでしょ? 子供じゃんか」
「笑わないでよ」

 あまりにも突然訪れた出来事に、緊張して言葉が出せなくなりそうだった。手がしっかり握り締められていて、緊張のあまり手汗が吹き出しそうになる。それに気付かれないように必死で言葉を繋ぎとめると春原くんは小馬鹿にするように私を笑った。そのせいで緊張が解れて、気付いたら平然と手を繋いで歩けるようになる。
 はじめて、彼氏と彼女らしく手を繋いで帰った。たったあと数分の距離だったとしても、照れくさいけど、嬉しいなと思うくらい、春原くんと手を繋いで歩けるということは幸せのように感じられた。



「移動教室ってだるいよねー」
「それなー」

 3年生は終業式と卒業式まで自由登校期間だけど、1、2年はその間も普通に授業がある。化学の授業で理科室に向かう最中、いつものメンツでまとまっての移動教室。だけど自然と祐未とこゆき、私と舞子で2列1列になって歩く。私たちが声を上げて話していても、その声がかき消されてしまうくらい、1階の並んだ教室の廊下は賑やかだった。

「なまえ、進路の話どうした?」
「私は就職に決めたー」
「え、もったいな!」
「担任にも言われた。 っていうか、声でかい」
「ごめんごめん。 私、どうしよっかなー。決めてないんだよね。 まだ遊んでたいなー」
「いいじゃん、進学。 大学とか、合コンあるんでしょ」
「それ! 合コン参加するために大学行っちゃいますか!」
「あはは、なにそれ。 ……あっ、すみません」

 お決まりの進路トークは、ホームルームが近付いた頃にやってきた。最初から私は就職に決めていたけど、昨夜親と話し合って業種を決めておいた。第一志望は事務職。第二志望第三志望は、接客業は休みが取れないからやめておけという親のアドバイスから、それだけを避けて適当に書いておいた。休みの融通が利く業種は私としても嬉しいから、親に聞かずとも接客業は志望外だったんだけど。
 舞子は、まだ進路で悩んでいたらしい。きっと舞子の中には、就職という道は今のところ存在しなかったのかもしれないけど、秒で大学進学を決めていた。

 そんな舞子と笑いながら話していたら、正面から歩いてきた人とすれ違い際に肩がぶつかってしまった。舞子に向かって笑いかけていた時だったから、余所見をした私が悪いんだけど。咄嗟に謝って、ぶつかった人を見たら、スカートの丈も異様に短くて、髪の毛だってわかりやすく茶色に染めた、みるからに3年生でちょっと焦ってしまった。

「ちゃんと前見て歩いてよ」

 そして睨まれて、文句を零されて、私は肩が竦んで舞子に密着する。上下関係がある学校内、部活やってないし、3年生とは関わりがないからその圧力をかけるような態度に一瞬で怖気付いてしまった。舞子は私の腰に手を当てて引き寄せてくれたんだけど「なに今の? 感じわるっ!」と聞こえそうな声で言うもんだから、慌てて背中を叩いた。

「余所見してた私が悪いから」
「でも、向こうがぶつかってこなかった?」
「なまえ、大丈夫? 舞子、あれ3年だよ」
「そんなの見りゃわかるって」

 いくら上下関係があるとはいえ、ソフト部は先輩後輩仲が良いみたいで、そのせいかあの3年生の態度に舞子はご立腹な様子だった。横に広がって歩くことを遠慮していた私たちだったけど、今の事態のせいで舞子が私の背中を押して、祐未とこゆきの間に挟まった。よしよしと慰めてくれる3人に、怖くて不愉快な思いをした気持ちは薄れていく。

「祐未とこゆきは進路どうした?」
「私は美容の専門学校行くー」
「わたしは就職に決めちゃった」

 気晴らしをするように、今度は4人で輪になって進路トークをはじめた。4人の進路は、みんな違っていた。大学に行くことを決めた舞子と、専門学校に行く祐未と、私と同じ就職でも、業種の違うこゆき。こゆきは、私が避けた販売スタッフを希望する接客業を選んだらしい。みんな進路バラバラじゃんかーと笑いあった頃には、理科室が見えていた。そしていつも通りの日常に戻る。