意識



 春原くんがプロのサッカー選手を目指すことを決めたのは、3学期が始まってすぐだった。


 年が明けると、全国高等学校サッカー選手権大会が開かれた。うちの学校の試合は開催2日目の2回戦目。相手の高校は初の全国大会出場校で、それもあってかうちの学校はわかりやすくも盛り上がりを見せていた。試合の結果は快勝。そして難なく1回戦、2回戦を突破する。3回戦はPK戦まで試合が長引いたけど、相手校のミスで勝ち点を取って見事ベスト16入りを果たした。でも、ベスト8をかけた試合で敗れた。

 春原くんが部活動をしてる姿は何度か見たことがあった。だけど、試合に出ている姿を見るのは初めてだった。広い芝生のフィールドで走り回る選手って、遠いから誰が誰なのかほとんど見分けが付かなかったけど、一際輝いているように見えた春原くんの姿をずっと目で追っていた。ボールを転がしている姿とか、ボールを蹴っている姿とか、動いているボールを追うんじゃなくて、春原くんのことばかり見ていたのは、春原くんが私の彼氏になったっていうのが大きかったせいだろう。

「春原くん、おはよう」
「あっ、おはよう……」

 私たちはクリスマスイブを境に付き合い始めたけど、春原くんが彼氏になったという事実を飲み込みながら、けれど友達の感覚が抜けきれなかった。それに春原くんは付き合い始めた次の日からは部活に専念していたから、まともに顔を合わせていなかった。連絡だって取れていなかった。付き合い始めてからやっと会えたのは、全国大会の1回戦。試合が始まる前に、みんなで頑張ってねと声を掛けに行ったとき。私の言葉も、頑張るよって言っていた春原くんも、普段と変わらない様子だったと思う。

「なんか、久しぶりに会った気がする」
「うん、会えてもあんまり話せなかったからね」

 春原くんとこうやって2人きりで顔を合わせるのは、去年のクリスマスイブ以来だった。私が登校する時間は春原くんが朝練のない日に被るみたいで、ちょっと早い時間、人気の少ない昇降口で靴を履き替えようとしていた春原くんと鉢合わせして声をかけた。ちょっと慌てた様子でリュックをごそごそといじった春原くんに、どうしたんだろうって思いつつ、私の靴を履き替えるのを待ってくれていたらしい春原くんと教室まで一緒に向かおうとした。

「洋太がさ、春原くんがすごいんだよって、いつも言ってくるんだよね」
「洋太はさ、いつもオレのこと褒めてくれんの。嬉しいよね! あいつに格好良いところ、もっと見せちゃおって、頑張れるよ!」

 冬休みに入る前も、サッカーの試合の日も、試合中も、終わった後だって洋太は春原くんはすごいって話ばかりしていた。この時ばかりに限らず前からなんだけど、春原くんは嬉しそうに洋太を語った。洋太は長いこと一緒にいる友達だったから、高校に入って知り合った春原くんにそう言われたことは嬉しかった。男子の友情っていうのを目にして、頬が緩む。

「……あれ、春原くん。 どっか行くの?」
「あ、うん。 ちょっと、3年生の教室に……」
「じゃ私、先に教室行ってるから」
「うん。 また後で」

 昇降口はもちろん、校舎だって人気の少ない中で、教室の方向へと違う方へ足を向けようとした春原くんに声を掛けたら、春原くんは3年生の教室に行くと言い出した。用事があるなら、私のことなんか待ってなくたってよかったのに。それでも、春原くんが私のことを待っててくれたんだって嬉しさの方が大きかった私は、春原くんがそこへ行く理由を全く考えてはいなかった。

「春原、3年の女子に告白されてやんの」
「え、そうなの?」
「朝練帰りに見た。 引退した野球部のマネージャーだってさ」
「詳しいじゃんか」
「野球部とさ、サッカー部って近い場所で部活やってんじゃん。前々から噂されてたって、先輩が言っててさー」

 教室に戻って席に着いた頃には、朝練を早めに終えた洋太が報告って様子で声を掛けてきた。さっき春原くんが慌てたように鞄をいじっていたのは、きっと女の子からの手紙を隠そうとしたんだろうなってことは、女の勘ですぐにわかった。

 私が知らなかっただけで、春原くんが校内の人気者だったということは結構前に知っていた。密かにファンクラブなんてものもあるらしいし、3年の先輩に呼び出されて告白されるってことも、私が知らなかっただけで、今まで普通にあったことなのかもしれない。


 春原くんは誰かに告白されても、それを言わない人なんだってことはあの時、洋太に聞いた。俺たちみたいに告白されて浮かれなんかしないし、逆に告白されて断り続けていることを悪いって思ってるそうで、その話題に触れると珍しく苦笑いを零されちゃうから、あんまり触れられないっていう事情も聞かされた。女子の話とはまた違うけど、男子も男子でいろいろあるんだなぁとその時は思った。不思議と嫉妬心は感じられなかったけど、そういうことを話さないって聞いて、じゃあ、私には?って、さっそく彼女面した私は思う。

「みょうじさん」
「あ、春原くん。 部活終わったの? ちょっと早いね」
「いろいろあって、早く終わったんだ。すぐ行かなきゃなんだけど、なんか、その……」
「どうかしたの?」
「こう、付き合ってんなら、毎日来た方がいいかなって思って!?」
「え……。 あ、いや、忙しいなら無理しなくていいよ。学校に来れば毎日会えるわけだし」

 部活が終わるにしては早かった17時半に教室に顔を覗かせた春原くんに驚きつつも、私は素直な気持ちを言葉にした。付き合っているという事実が春原くんの中にもちゃんと存在していることに嬉しさを覚えるけど、忙しい合間を縫ってまでわざわざ会いに来てくれる春原くんに、悪いなって思ったことから来た言葉だった。だってここからグラウンドって遠いし、上履きに履き替えたり階段登ったりって手間がかかるし。

「そ、そっか……そうだよね」

 と思っていたけど、あからさまに寂しそうな顔をした春原くんに私は軽く焦ってしまった。

「あっ、いや! 春原くん部活で忙しいのわかってるから、気遣いっていうか、ほんと、無理しなくてもいいよっていう、そういう感じだから……」
「無理はしてない! 会いたいなって思ったから、オレが勝手に来ちゃっただけで! だけどそういうの、みょうじさんが迷惑だなって思ってんなら、会うの控えるけど……」
「ぜんぜん迷惑じゃないし、むしろ嬉しいよ」
「ほんとに!?」
「う、うん……」

 誰かと付き合ったことって一度もないから、こうやって彼氏彼女に変わった立場の距離感ってイマイチわからない。それがクラスメイトだとしたら尚更で、私は今、第一関門にぶつかっているといったところだろうか。
 ややギクシャクとした空気の中で、動物みたいにころっと表情を変える春原くんに驚いて笑いそうになりつつも、会いたいと思われていることに安堵した。私は、春原くんに意識されている立場で、そのようなことを言われるくらい特別な扱いを受けているのだ。

「ねぇ、春原くん」
「なに?」
「これから、まだ部活あるの?」
「あ、うん。 これから監督とミーティングがあるんだ。いつ終わるのかわかんなくて。 どうかした?」
「ううん。 いつもより部活終わるの早いし、すぐに行かなきゃって言ってたから、ちょっとだけ気になっちゃって」

 ちょっとだけ気になってしまった。まるで、発芽してしまったかのように春原くんの"これから"が気になってしまった。何も感じていないように思ってたけど、実際のところ春原くんを前にしたら、春原くんがモテ男だっていうことをはっきりと思い出す。その言い辛そうな空気を察知した私は耐えられず口にしてしまった。
 毎回、月9とか火9とかの恋愛寄りのドラマを長いこと見続けてきたからわかる。嫉妬をしているわけでないけど、気になるっていう、面倒臭い女ならではのものだ。私って恋愛をすると面倒臭い性格になってしまうんだなと思いながら、今まで考えもしなかった薄汚れた感情が殻を破りそうになっていることに気が付いた。

「明日話すよ」
「何を?」
「今日のこと……?」
「なんで疑問形なの」
「いや、オレも何言われるのかわかんないから」

 その発芽を抑えきれずに言葉にしたことは、キツイ言い方に捉えられてしまっただろうか。ちょっとだけ肩を竦めた春原くんを見て、春原くんはこれからある監督とのミーティングのことを考えていただけだと知って、慌てたように「そうだよね」って口にした。

 いやだな、私。意識してただけしてて、きっとこれから好きになっていくだろう、まだ発展途上みたいな春原くんのことを、さっそく、束縛とまではいかないけど、言ってほしい気持ちに駆られた独占欲を抑えきれない自分が嫌に思った。


 それから春原くんと「また明日!」って別れて、いつも通りに舞子と帰った夜だった。

 私の部屋にはテレビが置いてある。今時の薄っぺらい大きなテレビじゃない、新しいテレビを買うからっていう理由で親の寝室から回ってきた、画質も音声も汚いお下がりのブラウン管のテレビだ。だけどいくらお下がりにしたって、高校生にして自分の部屋にテレビが置いてあるってずいぶんリッチなことだろう。

 静かな空気が居心地悪く、テレビを流したままベッドにうつ伏せになって雑誌を読んでいると、ニュースが始まった。数日前に終わったはずの高校サッカーの話題がまだ流れているらしい。ニュースで取り上げられる高校サッカーの話題は、全国大会が開かれている間は毎日当たり前のように流れ続けていたけど、1日1日が終わるごとに、勝ち残った強豪校ばかりが注目されていくようになった。私たちの学校も最初はそれなりに取り上げられていたけれど、後半はめっきり話題にも出なくなった。
 全国大会の試合が終わったけど、まだおさまっていない高校サッカーの今日の話題はプロっていう言葉が出てきた。優勝した高校の選手の中から数人がプロに声が掛かったとか、将来が期待されているとか、同世代の人たちが、まるで有名人のようにテレビで取り上げられている。同じ高校生活を送っているのに、こうやって同世代の人たちが雲の上の存在になっていくのを見て、すごいなぁと思った。
 そんなことを思ったていたら、身体の下敷きになっていた携帯が短いバイブを鳴らしてビックリしてしまった。

 さっと携帯を開いてみたら、春原くんから『みょうじさん、今、大丈夫?』っていうメールが届いていた。『大丈夫だよ』ってメールを送信したら、1分も経たないうちに今度は携帯が長いバイブを鳴らし始める。『春原百瀬』っていう、フルネームで登録した名前が画面に表示されて、私は通話ボタンを押した。

『みょうじさん、急にごめんね! あのさ!』
「大丈夫だけど……ふふ、どうかした?」
『なに笑ってんの!?』
「うるさいなって思って。 音が丸聞こえなんだもん」

 階段を登る音とか、ドアを閉めるやかましい雑音が、電話を取ってすぐに耳に入ってきた。帰ってきたばかりで、真っ先に部屋に駆け込んだって感じの慌ただしい音に、思わず笑ってしまったのだ。
 春原くんと電話をするのはこれが初めてだった。家に帰ってまで電話して話すって、彼氏と彼女って感じで擽ったさを覚えるし、何を話したらいいんだろうって気持ちが湧き上がってはいたんだけど、落ち着かない様子の春原くんの声と音にそれが吹っ飛んでいった。

『みょうじさん、あのさ、オレ』
「うん?」
『オレ、高校サッカーの選抜メンバーの選考メンバーに選ばれたんだ』

 少しだけ呼吸を乱した声で春原くんは言った。どういう意味なのかわからなくて「どういうこと?」って返してしまうと、一呼吸置いた春原くんが口を開いた。

『日本の同年代のプロチームに所属してる人や、世界相手に試合する、高校生の日本代表選手の選考選手に選ばれたってこと!』
「え……すごいじゃん!?」
『あはは、でしょ!?』

 つまりそれって、オリンピックとかワールドカップで活躍するような選手候補に挙がったってことだよね。ちょうどテレビで流れているニュースを身体を起き上がらせて見ると、携帯の向こうで春原くんは「うん、そうなんだ」と言っていた。
 高校サッカーの話って高校野球に比べたらそこまで話題にならないけど、高校野球ではそういう話を毎年ニュースで見ていた。甲子園で活躍した選手がプロ野球選手になったり、甲子園後の秋くらいに、甲子園で活躍した人たちがチームとなって世界で戦う話は、社会のテストの時事問題にだって出される話だから、それと同じようなことを話されているんだということはすぐに分かった。

 洋太があれだけ春原くんのことを凄いと言っていた理由が、やっとわかった気がする。全国大会ではベスト16という結果で終わって、それっきり話題にならなかったうちの学校だったけど、そんな中でも春原くんは、世界に通用するレベルのサッカー選手に選ばれたということ。どうしてそうなったのか、経緯なんてわからなかった私は、それが本当なのかどうなのか実感すら湧かない。春原くんに向かって、おめでとうだとか頑張ってねって言いたい気持ちがあるはずなのに、突然やってきた嬉しい現実を上手く飲み込めないでいた私は、喜びのあまり咄嗟の言葉が出てこなかった。

『みょうじさんに、一番に報告したいなって思ったんだ!』

 続けて、春原くんのこの発言だ。こんなことを言われて、嬉しくないわけがない。まるで自分自身が大きな物事に成功を収めたように、私のことのように嬉しくて、目と鼻の奥がツンとした。

 春原くんは元々プロになりたいと夢を持っていたらしいけれど、これをきっかけにプロを目指すことを本格的に決めた。