幸福な降伏(04)





 了さんは仕事で頻繁に海外に足を運んでいるようで、今回は2日前に日本を出て今日帰国したらしい。らしいというか、すると言っていたからそう言うのもおかしな話なんだけれど。

「前に、なまえが行きたいーって言っていた場所に連れて行ってあげるよ」

 と、了さんは一週間くらい前に私に言って、わざわざバイトの休みを1日と半日とらせた。どこに行くのかも聞かされないまま、前もって休む分も稼ぎたいとその日の前日前々日に丸一日分のシフトを入れたのに、了さんが海外に出る前日にいきなり手料理を強制されて、料理の練習を邪魔するように今日は朝から遊びに連れ出すと言われて、明日に控えた手料理披露会のことを考えると、練習の隙を与えられないぶっつけ本番の発表会を前日に控えたこの時間は窮屈にしか思えなかった。

「あ、なまえ。僕、ちょっとだけ寄りたいところがあるんだ。別件で、ある編集長に商談をお願いされちゃってね。待てる?」
「え? はい、大丈夫です」

 朝から呼び出されたからそのままどこかに連れていかれると思っていたけれど、どうやら了さんは仕事の予定が入ってしまったらしい。仕事なら仕方のないことだ。すんなり承諾して、出版社?らしきビルに到着して、私はすぐに戻ってくるものだと思って車の中で待っていたけれど、了さんは2時間経っても戻ってこなかった。
 商談と言っていたから、それが長引いているだけかもしれない。商談とかそういうことはわからないのだけれど、芸能界とは関わりがないと言っていた了さんがそういう業界の人に呼び出されて商談するのだから芸能事務所を家に持つのは大変なんだなぁとぼんやり思ったりもした。

 了さんと出会ってからしばらく経った頃、遡るなら3ヶ月前くらい。了さんは出会った頃に「僕の家は芸能事務所をやっているんだ」と言っていて、けれど了さんは自分は芸能界に全く興味がなくて好きなことをやって暮らしているんだとも言っていた。だから了さんは芸能界の仕事とは無縁の人だと思っていたけれど、その頃からすでに了さんはテレビ局長や今呼び出されているような出版社の編集長に商談を持ちかけられることがよくあった。

 家が芸能事務所というだけで了さんは関係ないはずなのにどうして?と思っていたら、了さんの家がやっているツクモプロダクションというところは芸能界を牽引する超が付くほどの大手芸能事務所で、直接関わっていなくとも業界的にはめちゃくちゃ偉い人なんだということは、初めて了さんに付いて行ったテレビ局で、テレビで毒舌をかまして怒らせると怖いと言われている某大物芸能人に喧嘩を売られた了さんが「おっかないなぁ、僕はツクモの人間なのに…」とフルネームで名前を名乗ると「も、申し訳ありませんでした!」と頭を下げられていたのを目にして悟った。
 本当は、了さんがその人を煽って怒らせたんだけど、あの芸能人が不憫でならなかった。


 2時間も待っていたらいよいよトイレに行きたくなった。こうなることは予測していたのか、それとも気晴らしにでもと気を利かせてくれていたのか、了さんは車を降りる時にこのビルのIDカードを手渡してくれていたので、待つのも疲れてきたのでそれを持って車を降りた。

「−−お疲れ様です」
「は、はい。どうも……」

 ビルの裏口もゲートを通るのも、手渡されたIDカードさえあれば自由に出入りできるらしい。部外者の私がこんな場所をうろついてしまって大丈夫なのか?と思ったけれど、いかにも関係者しか入れなさそうなゲートを見て、これさえあれば本当に入れるのだろうかと思って試しに潜ってみたら問題なく通れてしまった。その先で人に見つかって一瞬焦ってしまったけれど、すれ違う人は会釈をしてまで挨拶をしてくれるし、こんな場所は身の丈に合っていない私でも軽く有名人になった気がしてしまった。

 トイレに行きたかったのに、トイレを探しているはずなのに、結局のところ一人でこういう場所を歩いたことがなかったから冒険感覚でビルの中をうろついていた。一向に戻ってこない了さんをついでに探しながら歩いていたけれど、そろそろ本気でトイレに行きたくなったのでビルの中をうろうろ。広くて、長くて、どこに何があるかわからない、いつの間にか誰もいなくなった廊下をひたすら歩いた。

「あの。すみません、お手洗いってどこにありますか?」
「えっ、トイレ? えーっと……え、あ……君」
「……?」

 右も左もわからない状態でトイレを探して歩き始めて5分、やっと人に巡り会えたので声をかけた。実際にここで仕事をしている人の方がこの場所のことをよく知っているだろうし、自分で探すよりも聞いた方が早いと思ったからだ。黒髪のちょっとだけ幼い顔をしている人と、眼鏡をかけたいかにもマネージャーという感じの二人組で……ということは右側にいる青年は芸能人なのかもしれないと思ったし、私の顔を見て一瞬あれっ?というような顔をしたので部外者であることがバレたかもしれないと思ってめちゃくちゃドキッとした。

「お手洗いなら、あそこの角を右に行ったところにあるみたいですよ。地図にそう書いてあります」
「あっ、ほんとだ。すみません、気付かなくて……ありがとうございました」
「いえ、お気になさらず。力になれて良かったです」

 眼鏡の男性が指をさしたすぐそこには現在地まで丁寧に表記されたマップが貼ってあって、恥ずかしさとここの関係者ではないことを知られてしまったかもしれない焦りで少し頭を下げて逃げるようにトイレの方へ向かっていった。
 バクバクと音を立てる心臓を抱えながら、了さんが戻るまで車の中で大人しくしていようと思った。



「なまえ、お待たせ。待ちくたびれたでしょう」

 了さんが戻ってきたのはお昼を過ぎた時だった。ざっと4時間以上待たされたけれど、待っていたのは最初の車で待っていた2時間くらいで、あとはトイレに行きたくなって抜け出してしまったし、いろいろあって車に戻るなり眠ってしまったので感覚的にはそれほど待ちくたびれてはいなかったので「大丈夫でしたよ」と答えると、了さんはそうかと言いながらふんふーんと鼻歌を歌いだしたので、きっとここで何か良いことがあったのかもしれないと感じ取った。

「商談は無事に終わったんですか?」
「うーん? うん、そうだねぇ。人に頭を下げられるのは、やっぱり気分が良いなぁって思いながら帰ってきたよ」

 了さん曰く、社長である兄がさっき会ってきた編集長との仕事を断ったらしく、けれどどうしても使いたいネタがあるから了さんと交渉して社長を説得させてもらいたいという最終手段を使ってきたらしい。了さんは「そういうことは、僕にとってどうでもいいことなんだけど、お偉いさんの頭を下げさせることは気分が良いからね。つい、駄々を捏ねてきちゃったんだよねぇ」と恐ろしいことを言ってきたので、先日の縁を切る発言同様怯えてしまった私は言葉を返せなかった。

「あっ、そうだ、僕の友達にも会ってきたんだ。今度、なまえにも紹介してあげるよ」

 今日の了さんはすこぶる機嫌がよろしいみたいだ。了さんの口にする「トモダチ」は基本的に柄が悪くて舎弟のような人がほとんどだからなるべく紹介はされたくないのだけれど「きっと、なまえも気に入るよ」と私の心を読み取ったのか遠慮しないでと言わんばかりの口ぶりで付け足してきた。了さんと過ごす最近は、気が重たいことばかりだ。


 けれど、この日了さんが連れていってくれた場所は、了さんが商談で使った時間くらい車を走らせた、東京からはずっと遠い工場夜景が見える場所だった。確かに私は前に、テレビで流れたその場所の工場夜景を一目見て感動して「行ってみたい」と零したことがあって、了さんはそれを叶えてくれたのだと思うと、明日の夜に控えた手料理披露会の不安が吹っ飛ぶくらいには嬉しかった。








「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -