泥濘の春





 和泉一織くんは、気付けば私の視界によく映り込むようになっていた。

 登下校中、校舎の廊下、移動教室、購買、等々。そしてちょうど今、窓からグラウンドを見下ろしてしまったら体育の授業をしている和泉くんの姿が見えて、一瞬だけ目が合ってしまったように思う。

 和泉くんが私の視界にふらりと現れるようになったのは、きっと、彼が話題沸騰中のアイドルだからだ。ひときわ輝いているように見えるせいで私の目によく留まって、映り込んでしまう。
 通っている学科は異なり、芸能人が多く通っている芸能コースは当たり前のように何かと優遇されているため、同じ学校に通う生徒といえど芸能人はどこか雲の上の存在だ。友達が芸能人だったり、同級生がスカウトされたり、そういう経緯で身近な人が芸能人になり転科した知り合いが周りに一人もいないほど、私は平々凡々と芸能人が通う同じ学校で普通の女子高生をしていた。こんなふうに生きているせいで、テレビに出ている同世代の芸能人は校舎内では頻繁に目に留まって「芸能人だ……」なんて当たり前の感動を覚える。それで、その中でもひときわ輝いて見えてしまっているのが和泉一織くんというわけだ。

 彼が私の視界に入り込むのは単なる偶然にしか過ぎず、何度見かけたって結局なんの接点も得られない。目が合うことなんてただの奇跡だ。スクールカーストが高くもなければ彼に近付けるようなものも、それ以前に性格だって、なにもない。

 なにもなかったけれど、それはある日突然起こった。
 先生が出張で不在となった自習時間、でも図書室への行き来は可能という一コマ。図書館へ向かおうとしていた時に、廊下で和泉一織くんを見つけた。同じIDOLiSH7のメンバーである四葉環くんと一緒に壁に寄り掛かりながら何やら話している様子だった。はじめて間近で見てしまう和泉くんに緊張しながら、彼の目の前をはじめて横切ろうとした。もちろん、赤の他人の私は何もないようにさり気なく、だ。

「−−わっ」
「……っと。大丈夫ですか?」

 あの和泉くんの目の前を通り過ぎることに緊張して、ぼんやりしていたからかもしれない。あろうことか私は、何かに躓いて転びそうになったのだ。視線がぐらついて、見ていた視界が一気に急降下した瞬間、誰かが支えてくれたことで転倒を免れる。
 危なかった……と顔を上げると、支えてくれたのは和泉一織くんだったということに気付いて一瞬時間が止まった。掴まれた腕は制服越しだというのにやたらと熱く感じてしまったし、羞恥なのか緊張なのか、ドクドクという心臓の音が血管を通って彼の元へ伝っていってしまいそうだ。

「うわ、いおりん。ラッキースケベ!」
「だ、誰がラッキースケベですか!」

 長いこと硬直していたような気がするけど、たぶんほんの数秒だっただろう。和泉くんの隣にいた四葉くんの声ではっと我に返って、四葉くんにそう言われて慌てる和泉くんからさっと腕を払ってしまった。

「ご、ごめんなさい、ありがとうございました!」

 そのまますぐにお礼を返して、私は恥ずかしいばかりに二人の目の前から走って逃げ出してしまった。はじめて、和泉くんと話した。ほんの一言だけ。あれほど視界に映り込んでいた彼を間近で見て、本当に実在する人物なのかと衝撃と感動を受けながら、だけれどあれがきっかけで話すことになってしまったことは、ただただ恥ずかしい。





 はじめて話した日からしばらくの間、校舎の中で和泉くんの姿は見なかった。遠目でいつも映り込んでいた彼がいなくなったのは、ツアーの仕事のため学校を休んでいる日が続いていたからだ。IDOLiSH7は今話題のアイドルグループだから、テレビを見ていればいつどこでツアーを行うのかという情報くらいは簡単に耳に入る。

「−−あれ、あなたは」
「え? ……あっ、い、和泉くん……!?」

 ツアーの仕事を終えたらしい和泉くんはいつの間にか学校に来るようになっていた。彼に限らず四葉環くんもそうなのだろうけど、私の視界にふたたび現れるようになったのは他でもない彼だ。
 そんな和泉くんに話しかけられたのは、図書室で本を選んでいる最中だった。狭い本棚の間を潜りながら行き着いたのは図書室の一番奥の棚、読みたい書籍を選んでいると、隣にふらりと人が現れた。このような場所だから邪魔にならないようにと身を引きながら目で書籍を追っていたら、不意に声を掛けられる。顔を上げて、吃驚した。あの和泉一織くんが私の隣に立っていて、私を見下ろして、私に声を掛けてくれていたのだ。
 反射的に彼の名前を呼んでしまった。ほとんど話したことのない赤の他人だというのに、馴れ馴れしくその名前を呼んでしまったら、まるで私が彼のことを陰でずっと見ていたように思われてしまいそうだ。実際そうなんだけれど、いつも視界に映り込む彼を遠目から見続けていた私は至近距離に映る和泉くんに余計に焦ってしまった。

「私のこと、ご存知だったんですね」
「そ、そりゃあ……和泉くんは、有名人だから」
「まぁ、そうでしょうね。 私も、あなたのこと知っていますよ。先日、転びそうになったところを助けた……」
「そっ、その節はありがとうございました! お見苦しいところを……っ」

 お見せしてしまって−−そう告げようとしたら、和泉くんは私と距離を縮めて、同じ視線に立って、人差し指を立ててしーっと合図してきた。「ここは図書館なので、お静かに」なんて、間近でアイドルのファンサービスを受けてしまう突然の出来事に興奮のあまり叫んでしまいそうだった。それをぐっと押し込めて、気をとり戻して落ち着いて和泉くんと向き合う。私よりも背の高い和泉くんを見上げて、端正な顔立ちとその双眼に見つめられると恥ずかしい気持ちがずっと強くなる。

「北欧神話……お好きなんですか?」
「えっ……あ、はい。この間、夜にやってた映画が面白くて」
「あ、すみません。あなたが見上げた先にそれがあったので。 私も、読書家が身近にいるので最近かじりましたよ」
「へぇ、そうなんだ……あ、ごめんなさい、タメ口使っちゃって」
「私は気にしませんよ。あなた、三年生ですよね。同い年なんですから、私のことも同世代の人と同じように扱ってください」
「え、え、わ、私のこと、知って……?」

 探していた本を知られていれば、私が三年生であることも知られていたようで驚いた。私が和泉くんを視界に留めていたのと同じように、彼も私のことを……と都合の良いことを思ってしまったけれど、それは違うらしい。「当てずっぽうです」と微笑みと同時に返されて、視界がクラクラしてしまいそうだった。

「私は、和泉一織です。もしよかったら、あなたのお名前も教えていただけませんか」
「みょうじなまえです。普通科に通ってて……」
「そうなんですね……みょうじさん。また、話ができたら嬉しいです」
「えっ……あ、ありがとう、ございます」

 ……まさか、和泉くんの方からそんなことを言ってくれるだなんて。これから先、私の名前をずっと覚えていてくれるかはわからないけれど。また話ができたら嬉しいだなんて、単なるお世辞やファンサービスかもしれないけれど、いきなりドッキリのターゲットにされたんじゃないかとも疑ってしまったりもしたけれど。和泉くんと話ができて、そう言われて、名前を覚えてもらえたことはとても嬉しいことだった。





 −−あ、和泉一織くんがいる。

 図書室で和泉くんと話したあの日から少し経った昼休みの時間、友達と二人で裏庭を歩いた帰り道、校舎の裏口の通路で彼を見つけた。きっと昼休みの後は体育の授業なんだろう。いつもの制服姿とは違ったジャージ姿で、どこかで見たことがあるような男子生徒と一緒にこちらに向かっていた。裏庭を越えた先にある第二体育館を目指しているのかもしれない、歩いた先ですれ違うことは簡単に想像できたけれど、私は挨拶をするべきなのか悩んでしまった。

「あっ……ねえ!」

 悩んでいると、驚いたように声を上げた友達が私の腕をガシッと掴んでくる。「見て見て、IDOLiSH7の和泉一織くん!」それから、隣にいるのは読者モデルのなんとか君だと友達は二人の姿を見てちょっと興奮したように耳元で囁いてきた。それについて私は「そうだね」くらいしか返せなくて、こんな状況で挨拶を交えてしまったらどうしよう、なんてことも考えた。

 すれ違う手前、私と和泉くんは目が合った。けれど、軽く逸らされて、スルー。そんな和泉くんの態度にほっと息を吐けばよかったのか、がっかりしてしまえばよかったのか。まるで先日の出来事が夢だったように完全に赤の他人を振舞われてしまって、素直に傷付いている自分がたいそう可笑しい。ちょっと話しただけなのにもうお友達感覚でいたのかと、心の中で悲しみに暮れる自分をもうひとりの私が嘲笑う。
 そんな私のことなど知る由もない友達は、私の腕を引っ張りながら「本物だった!」「なんかいい匂いした!」と興奮を隠しきれない様子だった。私には同意する以外の術はなくて、眉を八の字に下げてしまいながら、友達に話を合わせていた。



 その日の放課後、借りるものはこの間全部借りたくせに私はまた図書室に訪れていた。はじめて和泉くんと会話をした場所で、何を期待しているのかなんてわからないけど、あの日のことを思い出すように本棚を見上げていた。あれは夢だったのかなぁとか、思い出に耽るような記憶を辿ってしまうような自分がやっぱり可笑しい。追い求めていた人に離されたように寂しくなって、まるで彼のことを恋い焦がれているみたいだ。

「……こんにちは。よかった、今日もここに居たんですね」
「え? ……あっ、い、和泉くん……!?」

 ぼんやりと上の本の題名を眺めていたら、斜め上の方から声が落ちてきた。人の気配を感じていなかったからいきなり声を掛けられたことにも驚いたけど、首の方向を変えた先でさらに驚いた。和泉くんが立っていて、私はこの間のようにまた反射的に彼の名前を呼んでしまった。
 そうすると和泉くんは隠しもせずに私を見てぷぷっと吹き出す。「この前とまるっきり同じ反応じゃないですか」と、どこか私を面白がるような視線を向けながらだ。

「い、和泉くん、どうしたの」
「今日はオフなんです。暇だったのでここに来てみたんですが、またみょうじさんに会えたのでよかったです」
「え、そ、そう……?」
「昼間はすみませんでした。ご友人と一緒にいらっしゃったようだったので、挨拶するのに気が引けてしまって」
「あ、そうだったんだ……気、遣ってくれてありがとう。でも、ちょっと助かったかも」

 こんなこと言ってしまうのは友達に失礼かもしれないけれど、助かったのは本当の話だ。あんなふうにはしゃいでいた友達の隣で和泉くんと挨拶を交えたら一体どうなっていたことか。それに、あそこでスルーされたのは和泉くんが気を利かせてくれたからだということがわかって安心してしまった。

「今日も本を探しにここへ?」
「今日は、なんとなく……」

 和泉くんにそう問われ、わかりやすく語尾が弱っていった。和泉くんにあんな態度を取られてしまったことに素直に傷付いて、この間の和泉くんとの思い出に浸っていました、なんて言ったら気味悪く思われてしまうに違いない。だから、はぐらかそうとした、けれど。

「本当は……ちょっとだけ、寂しくて」

 本音が勝手に口から零れ落ちてしまって、私は慌てて口を塞いだ。気味悪がられたらどうしようとか、そんなことを思ったばかりだったのに。和泉くんの驚いたような表情に焦った私は、また慌てて言葉を探した。

「ご、ごめんなさい。私、浮かれてるだけで。和泉くんのことずっと見てたから……あ、テレビとかでね。 だから、話しかけてもらって、名前覚えてもらって、嬉しくて。それでちょっと浮かれてて。気を遣ってくれたの嬉しいって思ってるけど、ちょっと寂しかったなって思ったりもしてて……ご、ごめんなさい」

 言葉を探した先に出てくるのは馬鹿正直な言葉だ。言い終えた後にやってしまった、なんて思うくらいなら最初から言わなければよかったのに。なんて後悔したところで今さら遅い。

「あなた、正直すぎませんか」
「ごめんなさい、テンパっちゃって……」
「でもそういうところ、可愛くて、好きです」
「え−−」
「あ、いえ……。けど、助かったと思ってくれているなら良かったです。学校では、今まで通りに振舞いましょう。その方があなたも気が楽だと思いますから」
「そ、そう、だね……」

 和泉くんは気味悪がるどころか、ちょっと照れくさそうに笑っているようにも見えた。好き……と一瞬言われたことに素直に反応してしまったけれど、思い違いだ。
 気を取り直したように和泉くんは話す。これからは学校の中で見かけてもお互い今まで通り、赤の他人を装いましょうと。そうしなければ、お互いの環境が面倒なことになってしまうから。友達には申し訳ないけれど、それは簡単に想像できてしまうことだ。

「ですが、みょうじさんさえよければ、ここでお話しましょう。ここはあまり人も来ないようですし」

 ここ、とは図書室の今立っているこの位置だ。和泉くんの言う通り、ここは図書室の一番奥の本棚で、授業の参考になる本は置いていない場所だから人が来ることは滅多にない……んだと思う。そんなことを言われてしまったら、私が拒む理由なんて何もない。学校生活を今までどおり普通に過ごすことができるわけだし、ここに来れば和泉くんとこういうふうにまた話ができるのだ。
 私が頷けば、和泉くんはほっとしたように笑ってくれていた。

 ……そういえば和泉くんは最初、何をしにここに来たんだろうか。今日来たのは、私のことを探すため?





 和泉くんと図書室の奥で話すようになってはや幾度目か。借りるような本もないのに、人目を凌いで他愛のない話をしているだけの関係が始まった。
 もし人の気配を感じれば、お互いがそれぞれ別の方向に足を動かして、ただこの辺りの本を探しに来た生徒を装う。和泉くんは芸能人なんだから、余計な騒ぎを起こしたら大変なことになる。それは私だけじゃなく和泉くんも分かっていたから、暗黙のルールのように人の気配を察すれば他人を装うのだ。

 こんなふうに内緒の関係……なんて言い方はおかしいかもしれないけれど、人に言えない関係のわりに和泉くんとの会話は穏やかなものだった。お互いにクラスの話をしたり、昨夜見たテレビ番組の話をしていたり、高校生活の延長線の話をしながら「うんうん」「そうだね〜」なんて話をする。
 和泉くんは人気者のアイドルをしているけれど、私の前では普通の高校生のようだった。話をしていればクラスの男子と同じように親しい存在になって、当たり前のように私の学校生活の中に和泉くんの存在が強く刻み込まれる。彼に会えない日が焦れったくなって、会える日が待ち遠しくなるほどに。

「昨日のRe:valeの番組見たよ。Re:valeの番組に何度もお呼ばれしてるってすごいよね」
「そうですね。Re:valeさんは良い人たちなので、共演するとすごく落ち着くんですよ」
「ふぅん。あ、私ね、Re:valeの千さんが好きなんだ。もう、すごく格好良くて! Mission毎週見てたし、映画も楽しみで。 そういえばIDOLiSH7の大和さんも映画に出演するんだっ……け?」

 そんなある日。ちょうど昨夜見た大好きなRe:valeの番組にIDOLiSH7が共演していたから、つい和泉くんの仕事と絡めた話を持ち出してしまった。無意識に好きなアイドルである千さんのことをぺらぺらとお喋りしてしまって、私は気付いた、和泉くんが私をじっと見ていることに。見つめられていたことに気付けば思わず言葉が途切れそうになって、私は和泉くんを見上げる。

「……すみません、爪が綺麗だなと思ってしまって」
「爪? そうかな、別に普通……だ、よ?」

 ……どうしてそうなったのかはわからないけれど、そのまま手を握られてしまって、吃驚した。

「綺麗ですよ、すごく」
「あ……ありが、とう……」

 男の人に手を握られるだなんて初めてだ。それのせいでドキドキしてしまうけれど、ましてや相手はあの和泉一織くんだ。緊張して心臓の音が外まで聞こえてしまうのではと思うくらい煩く響いている。

「……あの。えっと……和泉くんって、今、付き合ってる人って……いるの?」

 私、本当は気付いていた、いつの間にか彼のことを好きになってたこと。それがいつからかはわからないけれど、私の目の前に普通に映り込むようになった和泉くんに心惹かれていた。それは当初抱いていた、彼が芸能人だから、という理由なんかじゃない。普通に、一人の男の人として好きになっていて−−だから、手を握られて、私は訊ねた。

「いませんよ。だいたい、好きでもない子の手を触ったりもしません」
「え……」

 その言葉に驚いて手を引きそうになるものの、それは和泉くんの力によって拒まれた。逆に力を入れられてしまって、和泉くんの傍に引き寄せられる。向き合って、驚きのあまり瞬きすらできない状態のまま和泉くんの顔を見上げると、彼は言った。

「−−みょうじさん、好きです」
「わ、私も……和泉くんが、好き」

 ドクンドクンと心臓の音が徐々に大きくなって、自分でもわかるくらい顔が真っ赤に染まる。私も好きだと告げたら、ただでさえ近かった和泉くんがもっと近付いてきて、人知れず、図書室の一番隅っこでキスを交わした。





「勉強を教えてもらいたいんですが」

 和泉くんと付き合うことになった次の日の放課後、今日も仕事がなく暇をしているらしい和泉くんにそんなことを言われた。
 勉強??と首を傾げてしまうけれど、芸能コースは学業よりも仕事を優先するので勉強が追いついていないんだろう、ということはなんとなくわかって、だから和泉くんは私にそう言ってきたのだと察した。

 断る理由は特にない。勉強を教えるくらいなら……なんて思うけれど、一体どこで? 流石に図書室の机で勉強なんてしていたら周りにバレてしまうだろうし、こんな場所じゃあ狭くてできるはずもない。それは彼も同じように考えていたんだろう。和泉くんは言った、だから私の家に行きたいと。
 そう言われても私が断る理由はない、と思いたかった。勉強するくらいなら……と思ってはいるけれど、家で二人きりになるだなんて、余計なことを考えてしまいそうだ。今まで二人きりで話し込んでいたことは何度もあるけれど、場所が場所だから……。

「−−あなた、本当に素直で正直な人ですよね。勉強なんて、ただの口実に決まってるじゃないですか」

 ……余計なことを考えていたのは、和泉くんも同じだったようだ。けれど彼は私と違って、最初からそんなことを考えていたらしい、というのは彼の言動で理解した。

「図書室だけでの逢瀬だなんて、できることは限られてるでしょう」
「あ、あの……和泉、くん……」
「みょうじさん。一織って、呼んでください」

 周りにバレないよう私が先に家路に着き、そのずっと後ろから和泉くんが追いかける形で後に続き、やがて私の家にたどり着いた時、親はいなかった。二人きりの広い家の中、けれど狭い部屋に和泉くんを連れてくればあっという間に彼の下敷きになってしまった。つまり今、私は和泉くんに押し倒されていて、真上には彼の顔がある。

 人に押し倒されるだなんて、こんなことをされたことなんて一度もない。そんな中で押し倒してきた相手が和泉くんであることと、両手首を握られ、彼の言動から漂ってくるこの行為の意味を理解してしまっている私の身体は、緊張と恐怖でガチガチに強張っていた。カチカチと歯を鳴らしながら震える唇を開き彼の名前を呼べば、こんなことをしているというのに、その声は落ち着いていた。

「い、一織くん……わ、私のことも、名前で呼んでいいよ」

 彼に釣られるように私も声を絞り出す。そうすると静かに和泉くんの顔が近付いてきて、唇が静かに触れ合った。図書室の奥で交わすキスは唇を軽く重ね合わせるだけの可愛らしいものだったけれど、ここに来てされるキスは可愛らしさなんて微塵もない、深く性的なものだった。
 初めて触れる人間の舌触りに肩に力が入る。恥ずかしいとか怖いだとか、そういう感情よりもずっと、得体の知れない違和感に不快感のようなものを覚えてしまった。

「私は人を名前で呼ばないんです。呼ぶのはあなただけです。なまえ、あなただけは特別だ」
「ま、まっ……て」

 感じたことのないキスのせいで意識が逸れ、何を言われているのか理解が追いつかなかった。引き離された唇と唇の間には透明の糸が引かれ、それが切れると私の唇に落ちる。冷たくて思わず拭いたくなってしまうそれだけど、身体を動かすことを許されない。それよりも、和泉くんがそう囁きながら私の首筋に顔を埋めるのでそれどころではなかった。

「い、一織く……っ、ちょっと、あの、こういうのは」
「−−なんでですか」

 突然の行為に思わず拒んでしまった。彼も男の子なんだし、そういうことは考えてしまうのだろうけど、なんにせよ突然すぎる。心の準備ができているはずもない。動きをピタリと止めて何故だと言った和泉くんは、身体を少し起こして、私の目を見て訊ねた。聞き慣れない、不満をぶつけるような低い声色だった。

「私のこと、好きじゃないんですか?」
「す、好き、好きだよ。すき、だけど……こういうこと、したことなくて……」

 怖くて、まだ、心の準備もできてない。初めてだから、いきなり襲いくる未知の行為にただ恐怖しか感じられない。だから−−と口を開こうとすると、彼の声に遮られた。

「当たり前じゃないですか」
「−−へっ?」
「あなたが処女なのは、当たり前じゃないですか。そうじゃないのなら、私が許しませんよ」

 ギリッと握られていた手首にさらに力が込められた。痛い、を零そうとする前にその痛みに意識が剥がれて上手く言葉が繋がらない。彼は、何を言っているのだろう。

「私はあなたが好きです。あなたも私のことが好き。だから、いいじゃないですか。私はなまえの全部が欲しいんですよ」

 余計に理解ができない。わかることと言ったら、私は今、和泉くんの考えと欲を押し付けられていると言うことだ。急に別人のように豹変してしまった和泉くんと、さらにはこの状態。一気に怖さが増してきて、身体を起こそうにもぴくりとも動けなかった。

「気付きませんでしたか。私があなたのことをずっと見ていたこと」
「っ、え……?」
「好きだったんですよ。あなたが私を知るよりもずっと前から。好きで、どうしようもなくて、やっと手に入れられたのに、それを拒むんですか?」

 ずっと……って、いつから? 私、いつから和泉くんのことを見ていたっけ。気付いたらよく目に映りこむようになっていて、いつの間にか彼に惹かれていた。彼と話せたことは嬉しかった。偶然にも話すことになってしまったこと、図書室で偶然出会して話していたこと。その奇跡みたいな偶然に、私は……と思って、気付いた。

 もしかして、和泉くんの姿が私の目に留まるようになったのは、私が意識していたからじゃなくて、意図的にそうされていたから?
 ……あれ、そういえば。初めて和泉くんと話をした時、私は何に躓いて転びそうになったんだっけ。どうして転びそうになって助けてもらったんだっけ。図書室で会えたのは……。

 恐怖で緩んでいく力は、これ以上和泉くんを拒むことも制止することもできない。「ずっと好きだったんです」と風邪を引いているような声で何度も耳元で囁かれ、シャツのボタンを外し素肌に触れてくる彼の指先は、今まで触れてきたどんな指先よりも熱く感じた。

「……一織くん、私も、好きだよ」

 今零れ落ちた言葉は、きっと本心から出たものだと思いたい。
 この人は、私の恋人だ。こんな顔をするのもさせるのも、こんな表情を見るのも、好きを返せるのも、私だけにしかできないことだ−−そういうことを思っていないと、たった数十分前まで普通に過ごせていた彼との暖かな関係が完全に冷え失せて、これから過ごしていく彼との日常がなにも見えなくなると思うから。








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