エンドロールが恋しい





「おや、みょうじさんじゃないですか。 残念ですが、了さんは今、留守にしていますよ」

 わたしのお父さんは、月雲社長の社長秘書をしている。着任したばかりの新社長はŹOOĻというアイドルグループを今まで社長直々にプロデュースをしていたようだけど、社長としての仕事もŹOOĻの活躍の場もどっと増えてしまい、そろそろ手に負えなくなったものだからŹOOĻ専属のマネージャーが欲しいと言い出したらしく、わたしは下半期からお父さんに言われてこのツクモプロダクションで働き始めて、今はマネージャー修行の身だ。つまり、コネ入社したというわけである。箱入り娘だったせいもあり、初めて働く場所で社長とお父さんに言われるがまませっせと働いていて、今日は社長室の掃除の仕事をもらった。いわゆる、雑用というものだ。了さんとお父さんは商談に向かっていて不在ということは聞いていたし、ŹOOĻの仕事も夜まで入っていないので、社長室には誰もいないのだと思っていたけれど。

「あっ、巳波さん、お疲れ様です!」

 社長室の中には、ŹOOĻのメンバーである棗巳波くんがいた。来月から始まる新ドラマのサブメインキャラクターを演じる仕事を受け持っている巳波くんは、どうやら午後に控えたそのドラマの撮影があるようで、誰もいない社長室で一人台本を読んで、時間を潰しながら仕事を控えていたらしい。マネージャー修行の身としてせっせと働いていたけれど、俳優の仕事を兼業している巳波くんのスケジュールを把握しきれていなかったせいで、わたしはまさか巳波くんがいるということと、あろうことか2人きりになってしまった現実をうまく飲み込めないでいた。

 わたしは巳波くんと同い年だけど、彼はタレントということもあって、新米のわたしは肩をすぼめてご挨拶をする。心の中ではくん呼びしているけれど、彼の前では絶対にそんな馴れ馴れしい言葉をかけてはいけない。
 これは誰に言われたわけでもないし、年下の亥清悠くんには普通にくん呼びしているのだけど、彼に対してはちょっと臆病になる。その理由は、実はわたしは彼に対して好意を抱いてしまっているからだ。

「社長が不在なのは知っています。 不在の間、社長室の掃除を頼まれてて……」
「あらあら、それは。 微笑ましいですね」
「微笑ましい、ですか?」
「だってみょうじさん、了さんのことお好きなんでしょう。 そのような方に、こんな雑用染みた仕事を頼まれるだなんて、微笑ましいですよ」
「えっ、好き!? 何言ってるんですか!?」

 巳波くんはにこにこ、まさに微笑ましいという様子でそんなことを言い出した。そう、この表情だ。優しげに微笑んでくれる巳波くんのその表情にわたしは惹かれてしまったのだ。わたしが好きなのは巳波くんだというのに、それなのに想い人の巳波くん自身が勘違いしている様子で、わたしは必死に首を横に振りながら声を上げてしまう。

 「あら、違うんですか?」と不思議そうな顔をし始める巳波くん。そんなふうにころっと表情を変えてしまう巳波くんのこともわたしは好きだ。何かおかしな勘違いをされて焦っている時間ですら、そんなふうに好きだと思えてしまうくらい、わたしは巳波くんに恋心を抱いてしまっていた。

「みょうじさんのお父様、よくおっしゃっていますよ。 みょうじさんが、了さんのことを好きだと言ってるって」
「えっ、嘘!? 何かの冗談ですよね!?」
「こんな面白い冗談、私が思い付くと思いますか?」

 くすくす笑いながら、巳波くんはわたしの知らない場所でお父さんがそのようなことを言いふらしているのだということを教えてくれて、わたしの知らないところでそんなおかしな話が広まっているということを知ってしまった。

 好きだなんて一言も言った覚えはないのだけれど、わたしは社長のことを格好良いとお父さんに向かって口にしたことならある。あれは、了さんの社長就任パーティーでのことだ。身内関係者としてお呼ばれした就任パーティーで、お父さんが「この人が新しい社長で、お父さんはこの人の秘書になるんだよ」と言われて、お父さんの隣に立っている了さんを見た第一印象を、パーティーの帰り道にお父さんに言ったのだ。背も高くてスラっとしていて、格好良い人だった。よく見る俳優に向かって感想を言うのと同じようにわたしはそれを口にしたわけで、そこに好意など一切ないというのに、お父さんは何かを勘違いしているのかそれを触れ回っている。悲しいことに、話を盛って。

「いいじゃないですか、了さん。 彼は、人に好かれることを好む人なので、みょうじさんのこともお気に入りみたいです」
「え、ええっ!?」

 恋心を寄せている巳波くんから、まさかの後押しされてしまう発言を受けてわたしは母音しか発せなくなった。「全然、そんなんじゃないです!」と勢いよく否定するものの、巳波くんはどこか楽しげに笑ってみせた。

 きっとこういう時、トウマさんはほのぼのしいといった様子で、虎於さんなら無神経なところもあるから、こういう話はわたしはいくら違うんです!と言っても照れるなよとか言って続けられてしまうんだけど、巳波くんはどれかといえば受身な人のようで、わたしが違うと口にすればそれ以上のことには触れず、社長室には静かな空気が流れ始めた。

「……あの、巳波さんは今、付き合っている方とかいらっしゃるんですか?」
「どうしたんですか、急に。 いないですよ」

 2人しかいない、会話のない社長室には静かな空気が流れていた。慣れない沈黙に痺れを切らすように、掃除をするために持ってきたタオルを流しで洗って、それを絞りながら、せっかく2人きりになれたのだから何か話をしようと思って、出てきたのは下心を隠しきれないそんな言葉だった。

 虎於さんはアイドルのくせに女遊びが激しくて、そんな話題が絶えない。社長の力があるからいろんなスキャンダルが持ち上がったところで全て揉み消されているということは、ここに入ってから知ってしまった。トウマさんはそんな虎於さんを見て若干引いた様子で「俺だって彼女がいたら……」って言っていたから、トウマさんに彼女はいない。悠くんは「彼女なんてそんなのいらない」って言っていたから、彼女がいない。一応、この先担当していくメンバーのことだからその辺りの話も把握しておいた方がいいかなと思って覚えていたけれど、巳波くんはそういう話を輪の中で持ち上がったところでその手の話を口にしている姿は見たことがなかったから、じゃあ巳波くんはどうなんだろうと思ってはいた。本当は好意を寄せている人だからずっと気になっていたのだけど、どうやら巳波くんも彼女はいないらしい。いないと言われて、心の中でよっしゃ!とガッツポーズを決めてしまった。

「巳波さんは、どういう人がタイプですか?」
「年上が好きですね」

 だけどわたしの心の中でのガッツポーズは、その一言で腕を下ろしてしまった。巳波くんは、年上が好きらしい。つまり同い年のわたしはタイプ外ということか、ちょっとだけヘコんでしまった。あんまりこんな話を続けたところで怪しまれてしまうのではないかと思い、社長デスクの元へ歩きながら話を切り替える。本当に、他愛のない話をしたいだけであると思わせるように下心を隠しながらだ。

「じゃあ、巳波さんは、何か好きなことはありますか?」
「そうですね、好きというよりは、占いが得意なんですよ」
「占い……」
「はい。 みょうじさんのようなお方は、何をせずとも人が集まっている気質をお持ちでしょう。さらにあなたのような方は老若男女問わず、積極的に接します。そのため周囲の人間に惹かれやすく、友達も多い。ただ、恋愛面に対しては臆病な場面も持ち合わせているでしょうね」
「すごい、当たってます!」

 巳波くんは本当に占いが好きで得意なようで、饒舌にわたしのことをまんまと当ててくれた。確かにわたしは昔から何をしたわけでもないのに人が寄ってきてくれて友達は多い方だ、休日はほとんど友達と遊んでいる。昔から大勢の人に囲まれていたせいか人見知りをしたことはないし、自分から人に声を掛けていく方でもある。恋愛の面に対しては、現状そのままである。
 でもそれって何処を見て判断してくれたのだろうかと思いつつも、巳波くんはわたしのそういうところを見てくれているのかもしれないと思えば自然と嬉しさがこみ上げてきた。「当たっていましたか」と巳波くんは、関心してデスクを拭いていた手を止めてしまったわたしに言う。

「占いって、どういうところを見てわかるものなんですか?」
「顔の形や目の形、黒子の位置や表情といった人相占いで大体のことはわかりますが、それでも接していればわかるものですよ。それを占いと呼べるかは、定かではありませんけど」
「なるほど……じゃあ、わたしの顔でほとんどわかったということですか?」
「いえ、みょうじさんの場合は大半が他人の評価ですね。ですが、みょうじさんは態度や表情がわかりやすいです」
「なんていうか、見ていてくれてるんですね、そういうところ」
「あなた、マネージャーになるお人でしょう?」

 巳波くんは不思議そうに首を傾げた。遠い場所、その一瞬で目が合ってしまってわたしは背筋がピンと張るほど急激な緊張を覚えてしまって、慌てたように手を動かした。

「見ていますよ。 たとえ限られた期間の中で活動していくメンバーのことも、これからお世話になるマネージャーのことも」

 わかりきっていたけれど、あくまで仕事上の付き合いのために巳波くんはわたしのことを見ていてくれていたのだ。そうだよなぁとがっかりしてしまいそうな気持ちを抱きながら「それじゃあ、わたしも見習わないといけないですね」と苦笑まじりに零してしまった。

 結局のところ、まだまだわたしはマネージャーとして卵の状態なのだ。タレントとして活躍しているプロの巳波くん含めた他の3人だって、きっと同じような気持ちを持って働いているのだろう。誰かの言葉を聞いているだけで知った気になっているわたしには、そういう部分がまだ足りていないことを自覚した。

「どうかしました?」
「あ、いや、わたしってまだまだだなって思っちゃって」
「どういう意味です?」
「わたしは巳波さんのように、見掛けや態度で判断することが欠けていたなって思ったんです。結局、誰かから聞かないとわからないことばかりで」
「大抵の人は、そういうものでは? 私は長いことこの業界に身を委ねてきた人間ですから、そういうことは厳しく教えられてきました」

 巳波くんの一言はどうしてか少し重たく感じてしまった。プロという言葉にレベルの格差があるのかわたしにはわからないのだけど、悠くんや虎於さんのようにわたしよりもこの業界にいる期間は少し長いけど彼らはプロで、トウマさんはそれ以上に長いこと活動していたから彼らよりももっと上手のプロだ。だけど3人よりも10年、15年と長いことこの業界で活動していた巳波くんは遥かにプロだし、なんというか、ここに来てわたしと巳波くんの間にある差は大きすぎるもので、わたしには一生手の届きそうにないもののように感じられた。

「……あ! でも、巳波さんは、自分のことはあまり話したがりの性格はしていないかなっては思ってます」
「そうですか?」
「はい。 他の人たちがいろんな話題に食いついている中で、巳波さんはあまり食いつかないというか、輪の中に入っていかないというか……」
「人間関係、面倒臭いんです」
「そ、そうなんですね……」

 それでも、少しばかり前のめりに、わたしだって巳波くんのことを本当は他の人よりも見ているんですよというアピールを交えたつもりだったけれど、巳波くんは呆れたように人間関係が面倒臭いと言い出して、彼の本心を聞いてしまったように思う。

「ですが、聞かれたことは答えられる範囲で答えますよ」
「えーっと、じゃあ、どういうふうに厳しく教えられてきたんですか?」

 本当だったらもっとたくさん巳波くんに対する聞きたいことがあって、その多くの質問が頭の中でぐるぐると回っていたのだけど、頭の整理をするための時間延ばしで頭に入ってきた先ほどの話を訊ねてみた。巳波くんの話は、きっとこの先わたしが仕事をしていく上で必要になることの可能性がとても大きくて、パッと出てきた言葉にわたしは自分でなんてタメになる質問をしたのだろうと関心してしまった。

「きちんと挨拶をしろだとか、礼儀を弁えろとかですかね」
「なるほど……」
「当たり前のことだと思いません?」
「思いますね、はい」
「その当たり前がわからない子供の頃から、私はそれを言われてきたんです。 ですが、大人はみんな違うことを仰るんです。挨拶をして礼儀を弁えろと教えられながらも、次に会う人にはもっと子供らしくしていなさいと、とにかく注文が多かったですね」

 これが、常識をまだ知らない幼少期からこの業界に身を置いていた人の言葉なのか。その言葉はどうしてかわたしの心にずっしりとのしかかった。それはきっと、遊び回ってしかいなかった子供の頃の自分を思い返して、本当に彼とは全く違う世界で生きていたのだと知ってしまったせいだ。
 それに、子役ってみんなに可愛がられているものだと思っていた。わたしは了さんやお父さんに連れられて何回かだけドラマの撮影現場を見に行ったことがあったけれど、そこに子役の子は何人かいて、だけど知らなかった撮影現場に夢中になっていただけでそこまでは見れてはいなかったけど、想像と現実が違うものであるということを同時に知る。

「私は普通の学校にも通えず、いつも着せ替え人形のように扱われて、とにかく窮屈で仕方がなかったですよ。 だから海外へ留学して、自分が楽しめそうなものを見つけてきました」
「巳波さん。 今の仕事、ŹOOĻのお仕事は楽しいですか?」
「まぁ、そこそこですかね」
「好きですか?」
「普通でしょうか」
「わたしは……」
「はい」
「わたしは、好きになってもらえるように、頑張ろうって思いました」

 デスクを拭いていた手とタオルを手放して、胸元で拳を握りしめて意気込みを伝えるようにわたしは告げてみせた。

「たとえ数年の活動だったとしても、今の仕事が楽しかったって、その期間がまだ続いていてほしいと思ってもらいたいです!」

 まるでプレゼンテーションをしているみたいに緊張をしていたし、頑張りますと言ったところで無知なわたしの言葉なんて巳波くんには届きはしないだろうと思ってしまったけれど、それでも必死に意気込みを伝えた。
 そうすれば巳波くんはちょっと驚いたようにくすっと笑いをこぼした。

「みょうじさん、昔、私が好きだった人に似ていますね」
「え!?」

 巳波くんにはてっきり頑張ってくださいと言われるものだと思っていた。わたしの想像とは裏腹に、わたしが全く想像できなかったことを溢されてしまって、わたしは思わず声を上げてしまった。好きだった人に似ている、と言われたことが一番大きかった。

「いえ、なんでもありません」

 不意に本音を零してしまった、といった様子で巳波くんは口元を抑えた。「今の話は忘れてください」と隠した唇を動かしてわたしに言ったけれど、わたしは忘れることなんかできるわけがない。

「その話、聞きたいです。 聞かれたら、答えてくれるんですよね?」
「私を女子会のメンバーみたいに扱わないで下さいよ」
「女の子ってそういうものですよ、恋バナとか、気になるじゃないですか」
「それはお友達とやっていてください」

 別に女子会のメンバーみたいに扱っているわけではないけれど、聞きたがりのわたしはついつい後に引けなかった。巳波くんはそんなわたしを見て、口を開いてくれる。

「昔、共演した女優の方です。私のように厳しく扱われていた子役を擁護するように、現場にいた大物女優に反発していた方なんですが。 私がその子役と同じ年の頃に彼女に出会えていたのならば、私はもっと違った人間になれていたのかもしれないなと思って、彼女に対して、夢や憧れを抱きました。その方は私に、あなたと似たようなことを言いました。今からでも遅くないから自分の好きなことを見つけて、今の仕事を楽しかったって思いなさいと、そう言われた言葉が強く残っています」
「それが、留学するきっかけになったんですか?」
「そうですね」
「告白とかはしなかったんですか?」
「しなかったですね」
「どうしてですか?」
「どうしてって、それは恋慕とは違った、羨望のような形でしたから」

 てっきり違う意味での好きを捉えていたわたしは巳波くんの言葉に呆気に取られて、へええーなんてまぬけな声を出してしまった。それでも、巳波くんにとって記憶にはっきりと残された人を、それが憧れと羨望を抱いていたであるとはいえ、似ていると言われたことは嬉しい。
 きっと誰にも言わなかっただろう話をわたしに話してくれたことだって、嬉しいことでしかない。

「わたし、巳波さんがそういうことを話してくれて嬉しかったです」
「それは、よかったですね」

 だからわたしは正直にそれを口にした。よかったですねって、まるで他人事のように言った巳波くんだったけれど、そんな巳波くんを見て、わたしは口を開いてしまった。

「……あの、巳波さん」

 そっと巳波くんの名前を呼んだ。本当はこんなところで言う必要なんてないのに、巳波くんに誰も言わなかったであろうことを零されたら、わたしはそれに背中を押されたように巳波くんにそれを伝えたくなってしまった。

「わたし、了さんよりも、巳波さんの方が気になってるって言ったら、どうしますか」

 好きという正直な気持ちは勇気がなくて伝えられなかった。それでも巳波くんが勘違いしている人の名前を出して、はっきり好意が伝わる言い方をした。巳波くんは少し、ぎょっとしたような顔を見せて一言。

「みょうじさん、それこそ、何かのご冗談では?」
「こんな冗談言えるほど、わたし性格悪くないですよ」

 ソファに座り込んで、台本を眺めている巳波くんに積極的とまではいかないけれど、いけるところまで行けたと思う。にこにこと笑っていた巳波くんは動きをピタリと止めて、驚いたような様子でわたしを見る。こんな巳波くんのことは見たことないと思う。それは今まで修行をしてお仕事をしている中でも、ドラマや映画のシーンでも、こんなふうな顔は見たことがなくて、そうするとわたしは、言ってしまったんだと、行いを後悔するわけではないけれどあまり良くない意味でドキドキしてしまった。

「正直な事を言ってしまえば、嫌ではないです」

 よく微笑んでいる巳波くんはどこへ行ったのやら、巳波くんは少し悩んだ後に、落ち着いた様子でそれを切り出した。嫌ではない、ということはよくわからなかったけれど、わたしの好意は悪い方向に思われていないということで、ちょっとだけ安心した。

「私、まだみょうじさんのことよく知りませんから。慎重に舵取りさせていただきたいですね」

 はっきりと好きだとか、付き合ってくださいという言葉は話の波に乗っかるように言うことはできなかった。それでも巳波くんはその言葉の意味をそうやってちゃんと捉えてくれたようで、優しげな声で語りかける。

「まずはお友達から。 タレントと事務所関係者という関係を仕事関係以外では無しにして、普通に気の合うお友達になりましょう」

 そしてまずはお友達から、というよく聞く言葉を告げられた。仲良くなったら、巳波くんはわたしと同じように、わたしのことを異性として見てくれるようになるのだろうか。

「みょうじさん。 まずは、下の名前でお呼びしてもよろしいですか?」
「え!? も、もちろんです!」

 友達になるにはどうしたらいいんだろう、そう考え始めると先に巳波くんが口を開いた。その言葉にわたしは声をあげてしまうけれど、想像もできなかった嬉しい言葉に頷きながら言葉を返した。

「では、なまえさん。 あなたも、私に対してもっと砕けた呼び方をしてくれてもいいんですよ」
「え、えっ、じゃ、じゃあ、み、巳波くん、って、呼ばせていただきます!」

 初めて、ずっと心の中で呼び続けていた名前を巳波くんの目の前で口にした。とても緊張した、この場所で許されたその呼び方を何度も口に出してしまいそうになるほど、同時に嬉しさもどんどん込み上げてくる。
 こうやって、巳波くんともっと仲良くならなくてはと少しだけ前に進めたわたしは、マネージャーという立場ももちろん、巳波くんに異性として見てもらえるための修行も始まったのだ。



 わたしはŹOOĻの専属マネージャーになるべく、ŹOOĻのグループ活動の際には打ち合わせなどで社長やお父さんと同席してお勉強をする形をとっているけれど、たまに、2人の仕事の関係からか好きなことをやっていろと野放しにされる時がある。

 基本的にŹOOĻは社長直々にプロデュースしている特殊なグループなこともあって、仕事はどんどん流れてくるし、社長やお父さんがいなくても周りのスタッフさんがサポートしてくれる。だからŹOOĻ自体も野放し状態というか、打ち合わせや楽屋にいる時はグループメンバーのみで過ごしていることの方が多かったりするのだけど、そのŹOOĻも野放しにされている時に、わたしだってマネージャーらしいことをやってみようという気持ちを大きくして、彼らと楽屋の中でも同席するようになった。

「こんなことになるなら、もう少し女と楽しんでいたかったんだけどな」

 この日は音楽番組の収録を控えていたけれど、照明機材の不調トラブルが生じたこともあって時間が押してしまっていた。わたし単体でいる時に頭を下げられたことを経験していなかったため、ヘコヘコ頭を下げて謝ってきた番組プロデューサーと照明スタッフさんに驚いて「大丈夫です! こちらこそすみません!」なんてわたしだってテンパるあまり謝りながら頭を下げるという事態が起こって、いつも集合時間にきっちり来てくれる3人に「なんでお前が謝ってんだ?」と言われてしまった。
 虎於さんに至っては収録が遅れていますという連絡をしたって電話すら繋がらなかったけれど、遅刻してきたのに第一声がそれだった。遠回しにというか、責められているということを薄々感じながら肩をしゅんと垂らして虎於さんへ「すみませんでした」と口にする。


 最近、こういうふうに輪の中に入って気付いた。ŹOOĻは寄せ集めともあって、気ままというか自由奔放というか、ちょっと纏まりのない空気の中で彼らが過ごしているということに。

「おい、なまえ。 ここにあったお菓子、どこにやった?」

 そこに仲間入りしたわたしは、おかげでマネージャーというよりは新入りの下っ端状態で、よくパシリなんかに使われるようになった。わたしがこの場にいることに疑問を抱かれているのか、居心地が悪いと思われているのか、それともわたしの被害妄想でそのようなことを考えてしまっているせいなのかはわからないけれど、彼らの一つ一つの責め入る言葉がわたしの胸に突き刺さる。

 悠くんと虎於さんは特にそうだ、何か面白くないことがあるとすぐに誰かのせいにしようとする。悠くんはただ純粋にそういうことを口走っているだけなのかもしれないけれど、虎於さんは意図的に、無神経に言葉を吐き出す。それにはいくら鈍感なわたしだって気付いている。その度に巳波くんとトウマさんがフォローに回ってわたしを助けてくれるのだけど、今は誰かに煽てられたりするとすぐに調子に乗ってしまうトウマさんは嬉しそうに悠くんを連れて楽屋から出て行ったきり戻ってこないし、巳波くんはお手洗いに行ってきますと席を外したきり戻ってこない。つまり、この楽屋にはわたしを意図的にいじめてくる虎於さんしかいない。先日巳波くんと2人きりになれたことに喜ばしさを覚えていたわたしは一転、今は何を言われるのかヒヤヒヤしている。

 そして、2人きりになった途端に言われた虎於さんから出た言葉はそれである。

「さっき悠くんが食べてました!」
「おいおい。 なんでお前、止めないんだ?」
「え、だって、トウマさんが持ってきたお菓子だっていうから……」
「……はぁ。……腹が減ったな」

 ほら、パシリの合図が、今日は虎於さんの手によってやってくる。ちなみに昨日は悠くんにパシられた。

 先日トウマさんが実家に帰った時に親戚からもらったんだと持ち寄った駄菓子は、最近虎於さんがよく好んでいるという話を巳波くんに後になってから聞いた。でも、それを知らなかったわたしは「これ、食べていいの?」と言った悠くんにお菓子を食べさせていた。収録の時間が押していて、その頃にはお腹を空かせてしまっていたのか、悠くんは全てを平らげる。ちょうど、その頃にテレビ局で知り合いに会ったということで時間まで知り合いとお話していたトウマさんが戻ってきて、全部食べてくれたことに喜んでいた姿を微笑ましい様子で眺めていたけど、その間、いい女を見つけたって楽屋から抜けていた虎於さんのことなんて考えてなかった。ましてや、こんな1個10円や30円しかしないお菓子を御曹司でもある虎於さんが欲しがるだなんて思ってもいなかった偏見も混じっていて、それが抜け落ちていたせいもあるのだけど。

「な、なんか買ってきましょうか!?」
「……うまい棒だったか? トウマがやたら鞄に入れてるやつ」
「それはよくわからないですけど、うまい棒って……本当にそれでいいんですか?」
「できれば納豆味がいい」
「わ、わかりました。 すぐに買ってきます!」

 この時、どうして虎於さんともあろう人がそのようなことを望んだのかわからなくて、頭の中のメモ帳にひっそりと『虎於さんはうまい棒の納豆味を好む……』とメモを記した。
 2日続けてパシリに使われるハメになってしまったけれど、蚊帳の外になるくらいならまだいい方だと思うことにして、わたしはマネージャーとしてタレントのためにせっせと遣いになった。いつ収録の出番が回ってくるかわからないこともあって、さっとカバンから財布を取り出して部屋から出ようとした。

 そうすると、タイミングよく楽屋のドアが開いておでこにドアが当たってしまい、思わず「いたい!」と声をあげてしまった。

「あ、すみません……どうされました?」
「み、みなっ、巳波さ、ん、じゃ、ないですか」

 ぶつけられたドアの先には巳波くんがいて、わたしは思わず声をあげてしまった。お手洗いに行ってきますとしばらく虎於さんと2人きりになった空間の中で、ぱっと姿を現してくれたのが巳波くんであることに驚きつつも、わたしは、彼の名前を素直に呼ぶことができなかった。

「ちょっと、下のコンビニに行こうと思って」
「御堂さん。 パシリに使うだなんて、可哀想じゃないですか」
「へぇ。 巳波がそういうのは珍しいな」

 傍で、巳波くんと虎於さんの会話を聞きいる。わたしは2人の会話にどういった立場で入りいれば良いのかわからずにドアノブに手を当てたままその話を聞いていたのだけど、虎於さんの「そういうのは珍しい」という一言で、わたしの身体がビクッと反応を見せてしまった。

「なまえさん、私も一緒に行きましょうか」
「え!? で、でも……いつ出番が来るかわからないので!」
「さっきスタッフの方にお声を掛けられましたが、まだ暫くは、というお話でしたよ」
「そ、そうなんですね。 巳波、さん、本当にすみません」

 本来ならばその話はマネージャーが受ける話と思っていたけれど、先に聞いたらしい巳波くんはわたしに優しく告げた。楽屋からひっそりと身を逃すものの、巳波くんだって一緒に外に出てきてしまうものだから緊張が一気に走り抜けた。

 わたしは、巳波くんのことが好きなのだ。
 だけどそれを彼に告げてしまってからというものの、臆病なわたしは彼へ近づくことを恐れてしまっている。まさか一緒に虎於さんのパシリを掛け持ってくれる様子の巳波くんに緊張を覚えつつ、後ろに付いてきてくれていた巳波くんに一礼した。

「……あの! 今日は、仕事押しちゃってますので、帰るの遅くなっちゃいますよ。 休んでいた方が、よかったんじゃないですか!?」 

 砕けた呼び方をしてくれてもいいんですよ、と、巳波くんはあの時わたしに言った。あの時はとても嬉しくて何度かその呼び方をしていたというのに、他の誰かがいる前ではそんな呼び方をできるはずもなかった。というよりも、最近は本人の目の前ですら、その名前を呼ぶこともできない。今までなんでもないように口に出せていた名前ですら、わたしは本人に向けて口をすることができなくなってしまった。

「−−なまえさん」

 巳波くんがわたしの名前を呼んだ。その名前を呼び慣れてしまった巳波くんは、平然とわたしのことを下の名前で呼んでくれるようになった。「お前が下の名前で呼んでるなんて珍しいな」って、最初こそは他の3人に突っ込まれていたことをわたしは知っている。「マネージャーになるお人ですし、少しくらいゆるい感じも良いかなと思いまして」と、それすら平然と告げていた巳波くんのことだって知っている。その度に、わたしは自意識過剰かもしれないけど、自分が意識されているのではないかとドキドキしているのだ。

 あの時のことを思い出しながら、わたしだって、本当は巳波くんのことをその呼び方で呼びたいのに。もっと彼の名前を呼び続けていたいという想いが届く日は訪れるんだろうか。
 そんなことを考えながら巳波くんの前を歩いていたわたしに、本心は何を思っているかわからない巳波くんの言葉が耳に刺さった。

「占い、当たってらっしゃいましたか」








「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -