明け方におやすみ





「モモくん、あのね。 ここはペット禁止なんだよ」
「ユキさん、ごめんなさい! でも、雨に濡れてて可哀想で……」

 台風が直撃していた日、居酒屋バイトからの帰り道で雨風に打たれ弱い声を出しながら鳴いている白い子猫を拾って帰ってしまった。ペットが禁止されているおんぼろのアパートで、動物が苦手なユキさんがいるってことは頭の中にちゃんと入っていたんだけど、一度子猫の姿が視界に入って、おまけに弱った鳴き声を耳にしてしまったなら、無視することなんて動物好きなオレにはできなくて、べっちょり濡れたカバンの中に入れて連れて帰ってしまった。

 オレが家に帰ると、もう夜も遅い時間だというのにユキさんはオレの帰りを待っていてくれて、けれどオレが手に抱えているカバンからひょっこり顔を覗かせてしまった子猫を見るなり大きなため息をついて呆れたように口にされた。
 ここはペットが禁止だっていうことくらいわかっている。それを分かっていたけれど、でも、だって、という子供が駄々をこねる時に使う言葉しかオレの口からは出てこなくて、何度も同じことを繰り返した。「元いた場所に戻してきて」とユキさんは言う。雨に打たれてて可哀想で、こんな天気じゃ死んでしまうかもしれない。そんな言い訳をユキさんの目の前で何度かしてしまうと、ユキさんは折れたように「この荒れた天気が収まるまでね」と言ってくれた。

 タオルで水気を落としてあげて、体を温めた後に冷蔵庫に入っていた常備している牛乳をミルク代わりに飲ませた。チロチロとピンク色の舌を覗かせてそれを飲む姿は、本当に生まれて間もない子猫のようだった。

「モモくん、動物好きなのか」
「はい。 犬が好きですけど、猫も好きです」
「僕は動物、苦手だな」
「知ってます! 近付けませんから! 約束します!」

 とはいえ、ここは狭いワンルームのアパートだ。テーブルを一つ置けば窮屈に感じるくらい狭い部屋で、近付けないと約束をしつつもどうしたって半径2mが限界だ。そういうことを約束している間、オレが子猫から目を離している隙に、子猫はオレが帰ってくればすぐ眠れるようにとユキさんが綺麗に敷いてくれていた布団に前足を伸ばしてしまっていた。タオルで水気を落としただけの汚れたままの前足を慌てて退かせてみれば、くっきりと可愛い肉球が汚い泥で残されている。

「す、すみません! オレ、洗いますんで!」
「いや、いいよ。明日僕がやっておくから。 それより、その猫を早く洗った方がいいんじゃない」
「は、はい!」

 軽すぎる子猫を両手で抱えあげて、浴室に向かう。ついでにオレも一緒に風呂に入ろうと狭いユニットバスの浴槽に子猫を置いて、先にぬるいお湯で体を優しく洗ってあげた。オレの家には水浴びが好きな犬がいたけど、この子は猫で、しかも生まれて間もない子猫である。できるだけ割れ物に触れるみたいにそれは優しく優しく体を洗ってあげると、みるみるうちに元気になっていったのだった。



「−−モモくん、台風はもう行ったよ。 今日は晴れてる」
「わ、わかってます」

 膝の上に子猫を乗せて、珍しく朝の早い時間から目を覚ましていたユキさんにそう言われてオレはこの子を元の場所に置いてくる覚悟を決めた。決めたのに、人懐っこいのか太ももの上にすり寄ってくる可愛い姿を思わず指で突いて撫でてみせると、決めたはずの覚悟が薄れていく。

「……モモくん」
「ううっ、でも、可愛くって……」
「大家さんにバレでもしたら、また怒られるだろう? この間、女の子がアパートの前でうろついてるからいい加減にしてくれって怒られたばかりだ」
「それもそうですけど」

 この間、作曲に行き詰まったユキさんがふらりとアパートを出て行って1日帰ってこなかった時があったけど、帰ってきたかと思えばストーカーのような女の子がずっとこのアパートの周りをうろついていたことを大家さんに怒られた。1回や2回だけじゃない何度目かのことで、ついに怒られてしまったのだ。

 今回は、禁止されている動物を勝手に持ち込んだことがバレでもしたら、さすがに怒られて絶対に追い出されてしまう。それを考えるとこの子猫を元の場所に戻さなきゃという覚悟がまた訪れるけれど、ガラス玉のようにキラキラしている子猫と目があってしまえば、ため息をついてしまった。

「はあ……どこか、公園とかで面倒を見ていたらいいんじゃない」
「は、はい……」
「また雨に濡れて可哀想だと思ったら、ここで過ごさせればいい」
「え、いいんですか?」
「いや、よくないんだけど……でも、モモくんを見ていたら情が湧いてきて」
「猫、かわいいですよね!」
「猫にじゃなくて、君にだよ」

 ユキさんの一つの提案によって、オレの躊躇いはなくなった。アパートの中で一緒に暮らせずとも、公園かどこかでこっそり育ててあげればいい。雨が降ったら、ここに連れて帰る。そういうユキさんとの約束に舞い上がって、白い毛並みの子猫を両腕で持ち上げて喜んだ。



「名前なんか付けたら、愛着湧いちゃいますね」
「ネコって名前にしておけば大丈夫じゃない」
「この子、女の子ですよ。もっと女の子らしい名前を付けてあげなきゃ……って!」
「わ、ほんとだ。 何も付いてない」

 近所の公園だと、懐いたこの子が後を追ってアパートに来てしまう可能性があるから、できるだけ徒歩で行ける圏内の離れた公園に子猫を住まわせることにした。これから可愛がっていくんだから名前を付けてあげようという話をしていたけれど、ユキさんにこの子は女の子だと伝えると、大胆にも後ろ足をおっ広げにして確認しはじめた。動物は触るのですら苦手なのかと思っていたけれど、そうでもないらしい。って、そういう問題じゃない。

「ちょっと、ユキさん! 何してるんですか!?」
「っ、確認しただけなのに」

 オレの腕に抱えられたまま大胆に足を広げられている子猫が、濁点を付けたにゃあの言葉で軽くオレの腕に爪を立てる。まだ爪も伸びきっていないので痛くはなかったけれど、ユキさんはその姿に驚いたようでさっと手を引いてくれた。

「モモくんが可愛がる子なんだから、モモくんが名前付けてあげなよ」
「じゃ、じゃあ、なまえで……」
「ふうん」
「……なんですか」
「別に。 ストレートに決めたなって思って」
「ぱっと頭に浮かんだ名前です」
「そう」

 名前、名前……と思いながら頭にぱっと浮かんだなまえって名前を子猫に付けてあげた。名前を付ければ愛着が湧くと思っていたけれど、まさにその通りで、オレは毎日なまえに会いにいくのが楽しみの一つになった。

 なまえはオレをちゃんと覚えてくれているようで、公園に行けばたこ遊具の中や木陰からそっと出てきて、オレに甘えるようにすり寄ってくる。プロになったのに想像していたよりも給料をもらえずにいくつものバイトを掛け持ちしてやっているRe:valeが、いつか大舞台に立てるようになって生活も安定できるようになったら、きっとユキさんも一人で音楽を作りたいと思っているはずだから、別々に暮らした先で一緒に住もう。そんなことをRe:valeと同じように夢に見ながら、なまえとの生活を送った。もちろん、警報がでるほどの暴雨の日にはこっそりアパートに連れ帰って。


 可愛がっていたなまえが姿を消したのは、Re:valeが軌道に乗り上げて、オレが頻繁に公園に行けなくなった時期だった。最初は毎日訪れていたけれど、いつしか2、3日に1度のペースになり、今ではなかなか足を運びにいけない。そんな久しぶりに会いに行く感覚で訪れた公園には、なまえの姿がなかった。

 悲しいと思った。たかが野良猫だったけど、可愛がっていたのは本当のことで、久しぶりに会うたびに「なかなか来れなくてごめん」って言葉を掛けてしまうくらいには愛着を感じていたけれど、まるで恋人に振られたように胸が悲しくなってしまった。こうなるならもっと可愛がっておけばよかったとか、もっと会いにくればよかったなんてことも後悔のように押し寄せてくる。

「人懐こい猫で、いつまでも公園に住み着いていたんだ。他にも可愛がられていただろうし、誰かに拾われていったんじゃない?」
「うん……」
「モモ、ペット可の部屋に住むんだろう? 新しい猫を飼えばいい」
「そうだけど……」
「同じ名前を付けて、可愛がってあげたらいいよ」

 気落ちしている中でユキが励ましてくれているのかオレの背中を叩く。ユキの言うように誰かに拾われて、今は幸せに暮らしているのかもしれないと思いつつ、オレの心の中にぽっかり空いた穴は、いくら贅沢なマンションを借りられるようになってもわーいと喜べるほど気分が乗れていない。

 Re:valeがブラックオアホワイトで優勝を飾れたことを機に、オレはユキと生活していたおんぼろアパートを退去して、お互いに一人暮らしを始めた。しばらくの間は、なまえを忘れることができなかった。何度かあの公園に足を運んだけれど、結局、それからなまえの姿を見ることはなかった。




 あの日から3年が過ぎた。あの日と同じような台風が東京に直撃して暴風警報が流れている中、家の前で、玄関のドアに鍵を差し込もうとした瞬間、ふっとあの日のことを思い出してしまった。今まで、傷が癒えてからそんなこともあったなぁと思い出してはいたけれど、この瞬間はどうしてか、本当にふっと思い出してしまった。マンションの通路のから窓越しに荒れた天気を見て、なんとなく、子猫を拾ったあの場所に行こうと思ってしまった。

 当時は気にもしていなかったけど、記憶を辿って訪れた先は細い路地裏だった。そこを車で通る勇気がなくて、傘をさして外に出る。車に常備しているコンビニで500円で買ったビニール傘が今にも折れて飛んでいってしまいそうな天候の中で、路地の角に目を向けると−−いた。

「……君、こんなところで何しているの?」
「あ……。 雨宿りを、していて……」
「雨宿りって、ずぶ濡れじゃんか! 風邪ひいちゃうよ! 傘とか、持ってない!?」

 そこにいたのは、オレが思い出した猫の存在ではなく、白いワンピースを着た女の子で、雨に打たれてずぶ濡れだった。傘は持っていないのかと尋ねれば、女の子は首を横に振るもので咄嗟に傘を差し出そうとすれば、ちょうどよく勢いのある風が吹いてビニール傘がひっくり返ってしまった。ああっと思いながら、羽織っていた薄いジャージを脱いで女の子の身体にかぶせてあげる。

「家、どこ!?」
「……」
「……オレ、車で来てるからさ、雨宿りしていきなよ」

 家はどこかと尋ねたものの俯かれたままで反応がなく、かといって放っておけなかったのでオレはここまで乗ってきた車に誘導した。オレがそっちの方向に歩き出そうとすると、女の子はすっと立ち上がってくれたからまぁよかった。

 助手席に案内してドアを開けてあげると女の子は静かに助手席に座り込んだ。寒いのか、うずくまるように座り込む姿を濡れたガラス越しに眺めながら、オレは運転席側へ移動して中に入る。その時、うずくまって座っていた女の子がすんすんと、まるで匂いを嗅ぐように鼻を鳴らしている姿が見えてしまった。 いや、まさかな。そんなはずはない。

「ええっと、家、どこ?」
「私、帰りたくない」
「え゛!? いや、え、えーーっと、あの」

 なんかオレ、とんだ女の子を拾ってしまったらしい。雨に濡れてた初対面の女の子、おまけに家に帰りたくないって子を一度拾ってしまったらどうしたらいいんだ。こんな時、ゲームだったら選択肢が3つくらい出てくるんだけどなーーと考えながら、とりあえず、よくないことかもしれないけど、オレのマンションの方角へ向かった。

 どうしよっかなぁと思いつつ、オレは車に乗り込んだ時に思ったことも同時に頭の中に過ぎらせていた。まさか、そんなはずはないよな。そんなことを思いながら大通りへと抜ける。

「君、名前、なんていうの?」
「……なまえといいます」

 −−やっぱり、あの時の子猫だ。 いや、まさか、そんなはずない。そんなはずないよ。 さっきから何度も思っている言葉を、オレは何度も何度も頭に思う。こんなことってあるのか?と現実なのか夢なのかわからなくなるほど、緊張が高まった。

「君さ、君、あの時の子猫?」
「……やだな、私、人ですよ」
「そ、そうだよね。 あはは、ごめん、変なこと言っちゃって」

 これは偶然か何かなんだろうか。オレの記憶にくっきり残っているのは白い毛をした子猫だったけど、今隣に座っているのは確かに人である。最近は仕事が忙しいせいもあって、疲れが溜まっているのかもしれない。


 まさかモモちゃんともあろう男が、彼女でもない見ず知らずの女の子を自宅に連れ込むだなんて。こんな天気の中じゃ、パパラッチもまずいないだろうから、そこは安堵しつつも濡れた女の子、なまえを部屋の中に上げてしまった。

「部屋めっちゃ汚くてごめん! お風呂入ってて! えっと、着替えはオレの貸してあげるから、君がお風呂に入ってる間、部屋片付けて、なんか飯作っておくから!」

 ステンレスの物干しハンガーにぶら下がったままのタオルを引っこ抜いて差し出して、浴室に向かわせる。まさか人を入れるなんて思いもしなかったから、片付けが苦手なオレが足の踏み場もなく散らかしたままの服たちをかき集めて、隣の部屋のベッドの上に放り投げた。着替えはなんとかなるとして、飯を作ると言ってしまったけれど料理ができないのでそこはやってしまったと思った。だけど、冷凍庫の中には肉があるから、それを焼いてしまえばいい。

 ほっとしたところで、後ろを振り返ると、濡れたままの服を着ているなまえが佇んでいた。

「−−うわっ、ビックリした!! ど、どうしたの!?」
「ごめんなさい、シャワーの使い方がわからなくて」
「え、えっと、うち風呂場のお湯は温度調整されてあるから、そのまま熱い方のシャワー捻ってくれれば大丈夫だよ」
「は、はい……」
「わ、わかった、わかった。 シャワー出してあげるから」

 まるで肉眼で幽霊を見てしまったってくらいビビった。心臓が口から飛び出るかと思ったけど、口で説明してもわからなそうななまえに焦りながら一緒に浴室へ向かった。シャワーを捻って、冷たく出た水がちょうど良い温度になったのを確認して「これで大丈夫だよ」と告げればなまえは静かにうなづいた。
 さっきからバクバクと鳴り続ける心臓を抱えながら、浴室で無事にシャワーを浴び始めるなまえの音を聞いてオレは台所へ向かった。冷凍庫の肉をレンジで解凍して、フライパンに油を敷いて解凍された肉を乗せればジュウジュウと肉の焼ける音が聞こえて、油がはねた。

 なまえが風呂から戻ってきたのは15分くらい経ってからだった。ちょうどよく肉も焼きあがったけれど、そこそこ冷めて食べやすい頃合いではないかと思う。こっちにおいでと、居場所が見つからずドアの前で突っ立っているなまえをソファに呼んで、ローテーブルの前に座らせた。

「オレ、料理できないからさ、ただの肉なんだけど……でも、良い肉だから美味しいと思う!」

 なまえは、人間である。きっと日本人でもある。だけど、そうであると確信を抱けなかったオレは何かを疑うように箸代わりにフォークをテーブルの上に置いておいた。これもまたなんの偶然か、それとも案の定といえばいいのか、物を持つことすら初めてという様子のなまえの後ろ姿をソファに座りながら眺めていた。

 なまえは、4年前に拾った捨て猫で、姿を消してそれっきり会えないでいたあの猫だ。そんな確信とも呼べる……というか、下手をすると妄想と言えてしまうものだけど、この子があの猫ではないと絶対的に否定できる理由の方が少なかった。
 あの時と同じ場所で拾い上げて、あの頃に育てていた同じ名前をしていて、今更だけど同じ場所で再会したなまえは彼女の存在を匂わせるほどの白のワンピースと、使いなれていなさそうなフォークで必死に肉をつついている。

「……モモくんは、どうして私をネコだと思ったの?」
「えっ? えっーと、昔、可愛がっていた野良猫と同じ場所で出会って、同じ名前をしていたからかな」
「そうなんですか……」
「猫を飼える家に住んでなかったから、公園でお世話してたんだけどさ、いなくなっちゃって」
「それは、どうして?」
「ううーん……人懐こい子だったから、誰か、世話をしてくれる人の元に行ったのかもね」

 なまえはおとなしい子で、オレが話しかけなければ自分から話すようなことをしなくて、しばらく沈黙が流れていた。と思っていたら、なまえの方から先にオレに問いかけた。ここに来るまでオレの方から話しかけなければ反応を見せなかったなまえに驚きつつも、正直に、過去の記憶を辿りながらそれらを口にした。
 だけれど、オレはなまえに昔のことを喋りつつも、頭の片隅に疑問を浮かべた。

 −−なんでこの子、オレの名前を知っているんだ?

 オレはなまえに名前を聞いたけれど、オレが名乗った覚えはない。試したつもりはないとはいえ、こんな偶然あるのだろうか。一応オレはありがたいことに有名人になっているから、そりゃ、顔を見られただけでぱっと思い当たる顔なのかもしれないけれど。

 なんていうか、この場に立ってわかる、こういうの。オレのことを知ってるファンの子やテレビや雑誌を見ている子ならふらりと立ち寄った先で黄色い声を浴びるほど喜んでオレの名前を呼んでくれるというのに、なまえは違う。まるでどこか、昔からオレのことを知っているような口調と声色でオレに問いかけたのだ。

「モモくんは、その猫のことを、忘れていなかったの?」
「そうだよ。 あの頃は貧乏だったから一緒に住めなかったけど、いつか一緒に暮らそうと思ってたんだ」
「……きっと、その猫も、モモくんと一緒に暮らしたがっていたと思う」
「そうだったら、嬉しいな」

 背中を向けているなまえの表情は伺えなかったけど、声色だけでその表情を想像した。ああ、やっぱりそうだと、現実にはあり得ないことだけど、嬉しそうにしているなまえの様子を見てほっとした。

 なまえは、あの時の子猫のなまえだ。馬鹿みたいな大きすぎる妄想だろって言われたとしても、オレはそれでいいと思えるほど、心の中で彼女との再会を喜んだ。




 気が付けば、いつの間にか深い眠りに落ちていたらしい。肝心のあれからの記憶が頭の中からすっぽり抜け落ちていて、オレはソファで横たわったまま寝落ちした身体を起き上がらせた。部屋の中には、誰もいなかった。部屋中を探し回ってもなまえの姿はなかった。だけど、ローテーブルの上にはくっきりと昨夜出会ったなまえへ与えた食事が、綺麗にたいあげられた皿とフォークがそのままの形で残されている。

 書き置きなんてものも残されておらず、玄関に向かえば鍵とチェーンがかかったままだった。この空間の中で存在を消すように消えていったなまえの存在は、疲れ果てて眠ったオレの夢物語だったのかもしれない。ローテーブルの上には、ついでに安酒の空き缶が一つ置いてあった。

「−−もしもし、おかりん? ごめん、今起きた」

 ソファに座って昨夜のことを思い返しながらスマホを開けばマネージャーのおかりんから『今、自宅を出たので10分後くらいに着きます』とラビチャが入っているのを確認して、慌てるように電話を繋いだ。
 オレは寝起きはいい方だし、朝方の人間だから目覚ましをかけなくてもそれなりの時間には目を覚ませるけど、10分後の文字に慌ててしまったんだ。

『百くん、おはようございます。 大丈夫ですよ。ちゃんと、千くんを起こす時間も考慮して向かっていますので』
「さすがおかりん! オレたちのこと、よくわかってくれてる!」
『何年一緒にいると思ってるんですか。 ああ、すみません、信号が変わりそうなので、着いたらまた連絡します』
「オッケー! 気をつけて来てね!」

 慌てて電話をしてしまったけど、こちらに向かっているのであればおかりんは今運転中だ。幸いにも信号待ちの途中で電話を掛けて電話に出てくれたみたいだけど、あと少しでおかりんはこのマンションにたどり着く。それまでの間、急いで身支度を済ませた。

「おかりん、おはよう! 来てもらって早々悪いんだけど、ちょっと寄ってもらいたいところがあって」
「おはようございます。近場ですか? 集合時間まであと1時間弱ですが、千くんは……」
「大丈夫! オレが頑張ってユキのこと起こしてあげるから!」

 おかりんがマンションに着いて部屋に上がってきたのはすぐだった。電話が掛かってきたのがあそこの信号だったんですよと部屋から見える十字路を目で指しながらおかりんは言う。我ながら、とてつもない勢いで身支度を済ませられたなと思いつつ、オレはおかりんにどうしても今行きたい場所を告げる。それは言わずもがな、なまえと初めて出会って、なまえと再会した場所である。

 台風が過ぎ去った翌朝、空は雲一つない快晴で、真夏なこともあって暑い。あの場所に行けば、また"なまえ"に会えるのだと、オレは昨夜、現実か夢の中かわからない中で確信していたものと同じような確信でそれを思って、行くことを決めていた。





「なまえ、なまえ! よかったっ……オレ、ずっと会いたかった!」

 なまえがいなくなった翌日、あの路地へ向かうと、そこには月日が巡っても変わらずにいた白い成猫の姿があった。








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