幸福な降伏(21)





 家を飛び出してきたのは、去年の春先だった。

 お母さんと継父の赤ちゃんが生まれた日、家を空けた家族を見計らって、最低限の衣服と捨てたくない思い出が詰まったものをリュックサックに詰めて、隠していた幼少の頃からお父さんがくれていた貯めていたお小遣いと、お父さんが家を出て行く時に将来のお前のために貯金していたんだと50万が入った通帳を持ち出して家を飛び出した。
 家を出たいとは思っていたけれど、突発的な家出だったから不安しかなかったのに、こんなところにいたくないという気持ちを抱えたまま生まれ故郷の宮城県から逃げ出した。遠く遠くへ行かないと、探しに来て見つけられてしまう可能性は十分にあったから、ひとまず駅に駆け込んで電車に乗った。行き着く先はなかったけれど、私の頭に浮かんできたのは東京の二文字だった。憧れがあったかはわからないけれど、あそこだったら働く場所はたくさんあるかもしれないし、どうにかして生きていくことができると安易な考えで東京に向かった。

 東京はどこも人が多いから、人ごみに紛れたらたとえ家族が探しにきたってわかりはしないだろう。街ゆく人々を見ながら泊まる場所を探した、ホテル代はこんなにするのかとお金の心配が出てきたのはそれを知った瞬間だった。大好きだったお父さんからもらったお金だったからできるだけ使いたくはなかったけれど、ここで生きていくためにはそれしか手段はない。ホテルを転々としながら働ける場所を探してみたけれど、どこも学生か高卒以上が最低条件だったから、とほうにくれた。

 ここで生活しているとお金はみるみるうちに減っていく。いくら三食100円の節約を心がけたところでホテル代にほとんど消えてしまうから、持っていたお金は2ヶ月も経たないうちに底をつきかけた。こんなことになるならば、両親の反対を押し切ってまでバイトをしておけばよかったと今更になって後悔する。

 ホテル代が払えなくなりかけた頃、野宿をしていこうと考えた。そうすれば、高いお金が飛んでいくこともなくて、毎日100円だけのご飯を食べて、耐えられなくなったらお風呂に行く。ホームレスみたいな生活を送ったけれど、お金は入ってくるはずもなくてついに底をついた。

 公園の水を飲みながらの生活は3日間しか持たなかった。生きていくのが限界になって、そのころに身体も心も疲れ果てたのか死ぬことを考えた。
 東京は電車がたくさん走っていて人身事故は日常茶飯事ということはここで過ごしていくうちに知ったし、高いビルもたくさんあるから知らない人たちに迷惑はかけるけれど死に場所はたくさんあった。

 だから、私は死のうとした。私が過ごしていた公園のほど近い場所にあった高い商業ビルから飛び降りようとした。だけど、死ぬことは怖いことだと知ったのは、飛び降りようとした瞬間に足が竦んで動けなくなってしまったからだ。死にたくないと思った。

 じゃあ、どうしたらいい? 水だけで生活していくには餓死していく未来が簡単に見えた、今だけでも辛いのにそうやってどんどん辛くなっていくことはもっと嫌だった。

 私は、考えて考えて考えぬいた先で、援助交際という4文字が浮かび上がった。数日お風呂にも入れていない汚い格好をしている私を相手してくれる人がいるとは到底思えなかったけれど、人はこんなに大勢もいる。誰か一人くらい、私の相手をしてくれる人がいるんじゃないか、そのわずかな可能性に賭けた。
 大丈夫、私はもう援助交際をしていくうえで必要な性行為というものを受け入れられる覚悟だってあった。そのくらい必死で、街ゆく一人で歩いているサラリーマンに声をかけ始めたけれど、わずかな可能性はほぼ0パーセントに近かった。

「−−お兄さん」

 同じ場所でうろついていたら警察に通報されるかもしれないと思った私は、場所を転々として男の人を探し歩いた。そこで、仕事帰りなのかスーツを纏った男の人が目に止まって、声をかけた。

「お兄さん、援助交際とか、興味ないですか?」

 何回口にしたか覚えていない言葉を吐いた。汚いものを見るような目でシカトされたり走って逃げられたりしていく人しかいなかったから、それに耐えられる覚悟があったのでダメなら次に目についたあの人に声をかけようと先のことを考えながら。

「ええっ? 何、僕が、そういうのに興味があるように見えたの?」
「っ、すいません」

 この時初めて、そういう態度以外のことをとられた。私の言葉にええっと高い声で笑って、私の姿を見て鼻で笑った。急に怖くなってしまって一つ謝って逃げ出そうとしたら、腕をぐいっと引っ張られて引き止めてきた。その人が、了さんだった。

「……細いな。 ご飯もまともに食べられていないんだ?」
「は、離して!」
「援助交際に興味ある?って聞いてきたのは、君だろう。 いいよ、興味が湧いてきた。僕の家においで」

 僕が住んでいるのはあのマンションなんだ、と目と鼻の先にある高いマンションを視線を向けて告げてきた。ほんのわずかしかない確率だったけど今ここで成功した。生きて行くことができるという安心があったけれど、全く知らない男の家に連れて行かれることは覚悟をしていたはずなのに恐怖でしかなかった。

 マンションに向かって部屋に入るまでの記憶はほとんど残っていなかったけど、了さんは、私のことを部屋に入れると「嗅いでいたくもない汚い臭いがするから、早く風呂に入って」と言いながら、真っ先にシャワー室に放り込んだ。
 1時間くらい、入浴していたと思う。了さんの言っていた嗅いでいたくもない汚い臭いが身体中に染み付いていたということは、まともな場所に来て初めて気付いたことだった。頭がヒリヒリ痛みを伴うくらい髪の毛をずっと洗っていて、身体が赤くなるくらいごしごし身体中を洗ったらそのくらいの時間を要した。

 人様の家でどのくらい風呂に入っているのだと怒鳴られてしまうかもしれないと思って、お風呂を上がった後はビクビクしていた。バスタオルと、触ったことのない素材をしたパジャマが綺麗に畳まれて置いてあってそれに着替えた。下着は綺麗なものがないから躊躇ったけれど、借りたパジャマはあとで素手でもちゃんと洗おうと何も履かないでズボンに足を通した。

「臭いはちゃんと落とせた?」

 廊下を進んだ先にある広そうな部屋のドアを開けると了さんは長風呂のことには何も言わず、それだけを訊いてきた。静かに頷いたら「それなら、お食べ」とテーブルに乗った美味しそうなお肉が乗った食事を私に食べさせてくれた。久しぶりに食べるまともなご飯を口にすると、その美味しさからか、死にかけていた心が動き出したのかぶわっと涙が込み上げてきた。泣いてしまった、これから援助交際をする人様の家の中で、泣きながらご飯を食べるみっともない姿を見せてしまった。

「あはは、泣いちゃうくらい美味しいんだね」
「す、すみません……」
「いいよ。 お腹が空いているんだろう? 食べ足りなかったら、次の食事を用意してあげるよ」

 了さんの家はレストランでもやっているのか次から次へと食事が出された。この1ヶ月くらいの間、毎日100円だけのおにぎりを食べて、この数日は水だけ飲んでいる生活をしていたせいで、胃袋の中には何も入っていないせいでいつまでもご飯を食べ続けられた。まるで最後の晩餐のようだと思ったけれど、途中からは無我夢中でご飯を食べていたんだっけ。


 それから、了さんは私の世話をしてくれるようになった。何処の馬の骨ともわからない汚い女だっていうのに、そんなことをお構い無しに了さんは私の面倒を見てくれるようになって、食べたこのない美味しいご馳走を食べさせてくれて、着たことのない素材の良い服を買ってくれた。
 了さんがいなかったら、今頃私は死んでいたのだ。








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