幸福な降伏(17)





 ストックホルム症候群とは、誘拐事件や監禁事件などの犯罪被害者が、犯人との間に心理的なつながりを築くようになることをいう−−某百科事典にそう記されていた。

「自分、大学の頃に犯罪心理学の授業を受けたことがあります。 犯人によって死に直面している中で、食べ物や飲み物を与えてくれることに優しさを感じて、良い人なのだと思い込んでしまうそうです」

 この症候群の発端となった立て篭り事件では解放された人質達が犯人を庇う証言を行っていたり、後に日本で起こった事件では誘拐された女の子が同棲関係を築くようになった話まであります、とおかりんは学生時代に学んできた授業の事柄を披露してくれた。

 ぶっちゃけオレは他人に流されやすい性格をしているという自覚はあった。高校の頃のクラスの話し合いとか、ユキと出会って二人で過ごしている時も、現在に至るまで自分の意見を貫き通したことは本当に数えきれるくらいしかなくて、自分の意見が間違っていると思ってるわけでないけれど、言われてみれば確かにそうかもしれないとか、そっちの方が正しいんじゃないかとか、強く言われると「じゃあ……」と他人の意見を受け入れてしまって簡単に流される。信頼を寄せている人間や慕っている人間に言われてしまえば尚更だ。

 なまえのことも、誘拐なんてそんな話は絶対にありえないだろって思っていたはずなのに、事細かになまえの事情を理解しているわけじゃないけど、オレが考えているなまえの生き様を描いた時系列の隙間に『誘拐』という2文字が入り込んでくる。いや、誘拐がなかったにせよ、何かがあってそういう症候群のせいで了さんを信用しているのかもしれない……と、完全に否定ができないから疑惑のように入り込んでしまった。

「ほら見ろ、おかりん。 モモが信じ始めてる」
「ああ、いえ、あくまでそういうこともあるんですよと参考程度に聞いてもらえたら」
「大体、誘拐された子を相手にしているとしたなら、モモだって危ないだろう。 そういう冗談はやめてくれ」
「……あの、誘拐されたんじゃないかって言い出したのは千くんなんですけど」
「そうだっけ?」

 恐らくこれはいつものオレだったら「自分の言ったことも忘れちゃうなんてユキってば鶏みたいだね!超プリティーだよ!」って言うところなんだけど、その言葉が出てこないくらいには、オレは信じ込みそうになってる。

「モモ。 とりあえず、モモが彼女のことを悪い子じゃない、良い子なんだって言うなら、僕はそれを信じるよ。 だけど、もしおかしなことや危険なことがあったりしたらすぐに手を切って」
「……わかった」

 疑心暗鬼とはまさにこのことだ。心配事や不安な要素が積み重なれば、オレは何を信じたらいいのかなんてわからなくなる。



『やぁ、モモ。 美味しいウイスキーが手に入ったんだ。 モモはウイスキーが好きだっただろう? 今夜、僕の家に遊びにおいで。 なまえも来てくれるよ』

 絶妙なタイミングだと思えるほど、了さんからの一本のラビチャは突然に入った。ただの了さんからの遊びの誘いだっていうのに、オレは了さんからのメッセージを見た瞬間、一瞬何かを期待してしまっていた。コネクションを使っておじゃんになりそうな番組出演を立て直してもらえるかもしれないっていう期待をしていないといえばそれは嘘になるけど、一番はメッセージにも記されたなまえとのことだ。仲直りをするチャンス到来ってやつ。

 生憎なまえはこっちで了さんくらいしか頻繁に会っている人物はいなさそうだし、オレにとって了さんはなまえとの共通の人物であるし、了さんのことだから、こういうのだったら頼りになるかもしれないとは思っていた。そしてこのアクションはなまえから何かを言われたから起こしたのではないかと、数日ぶりに訪れた了さんの誘いと、わざわざなまえも来るっていう文面に期待してしまっていた。あと、美味しいウイスキーが飲めるってこと。

 そうだ、この了さんの誘いに乗っかればオレは美味しいウイスキーが飲めるんだ。きっと1本何万とする高級な美味しいウイスキーを飲めるし、仕事であった嫌なことから逃げられる自棄酒だってできるし、なかなか感情が纏まっていない中でも、なまえが来るのならこの間のことを謝れる。

 そんなことを考えると、オレは了さんの誘いを断る理由もなかったから、それにすんなり乗った。


「了さん、こんばんはー! 遊びにきたよ! はいこれ、お土産ね」
「わあ、ブランドのチョコレートなんて珍しいじゃないか、モモ」

 ユキが知らない女の子からもらったっていうチョコレートを「気持ち悪いからいらない」という理由でオレに押し付けてきたから、丁度いいなと思って了さんへのお土産として渡してしまった。口の開いていないちゃんとしたブランドのチョコレートだから、おかしなものが入っている心配もないだろうなと思ったし、こういうの、了さんはオレにも食べなよって出してくれるからオレからしてみたら嬉しいもんだ。

 了さんはブランド物の商品が好きなのかわかんないけど、とりあえず手土産を渡せば何かしら喜んではくれる。高級な紙袋を手にした了さんはふんふんと鼻歌を混じらせながらオレに言った。

「モモ、夕飯はまだだろう? とびっきりの極上のお肉が手に入ったんだ」
「了さん、なんか良いことでもあった? 今日はパーティーでもやんの? なまえちゃんは?」
「なまえはバイトだって言ってたから、まだ来ていないよ。 期待してた?」
「まぁ、ちょっとだけ……」

 先になまえの姿があるかもしれないと思って謝罪の言葉は頭に入れていた状態で来ていたから、了さんの言うようになまえがいるかもしれないってことはちょっと期待してた。

 なまえは了さんにあの日のことを話したのか?と思いつつ、見るからに機嫌の良さそうな了さんは、そう言いながら極上の肉を振舞ってくれた。スーパーで売ってるような安い肉じゃない、ファミレスで出されるちょっと美味しい肉じゃない、ドの付く高級レストランで出される分厚くて肉汁が溢れる肉をオレのために焼いてくれながら。

 あと、了さんに言われてたウイスキーも美味しかった。やっぱりオレが思っていた通り1本何万かする高級なウイスキーのようで、味は美味しいし飲みやすい。最近飲み会にも行ってなかったし、節約のためお酒を飲むことがなかったから、久しぶりということと今日あったことの影響でそれはみるみるうちに喉を通していった。
 あんまり酔っ払った状態でなまえに謝ったところで、それはそれでよろしくないことだってわかってたけど、1杯飲んだウイスキーはかなりのアルコール度数だったらしくて一気に酔いが回ってきた。

「モモは、何かよくないことがあると、空元気を起こすよね。 何かあった?」
「さすが了さんは察しがいいね。 ああ、なんか気分が良くなってきた……」
「なまえと揉めちゃったんでしょう、聞いてるよ」
「あーー、やっぱり? それもあるんだけど、実はさー」

 正直に言うと、こっからの記憶は曖昧だった。曖昧というより、気分が良くなって余計なことをペラペラお喋りしてしまう、あの感覚だ。途中から自分が何を喋っているのかわけがわからなくなってほとんど覚えていない。なまえのことは確かに引きずってるんだけど、結局のところ記憶にはっきりと焼き付いてしまった今日の仕事の出来事の方が酔ったオレには大きいものだったのから「仕事でミスったから美味しい肉と美味しい酒が飲めるのはとっても嬉しいよ!」って言ったことは覚えてるけど、その後の記憶は本当に曖昧。

 なまえにちゃんと謝んなきゃいけないのに、優先順位は自分とユキの方が上であることに安堵してしまったし、そんな中でもなまえのことを考えられていた心の隙に安心した。








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