星に恋した蛍の話





「なまえ、明日暇でしょ。僕の童貞、貰ってほしいんだけど」

 同級生の折笠千斗に爆弾発言をされたのは10年前の秋、高校一年生の時だった。誰も居なくなったのを見計らったのか、静まり返った放課後の教室で窓硝子に凭れていた千は突然そんなことを言い出した。

 はい? 今なんて? 同定? 道程? 童貞? DT? 高校に入って買い与えられた携帯電話で興味本位でその手のことを調べていたこともあったので千の口にした単語や言葉の意味はすぐに理解できたものの、何せ下品な話を直球に投げられたものだから脳みそがフリーズした、こんなこと言われるなんて一体誰が想像できただろう。

 喉が乾いた自販機に行こう、私はトイレに行きたい。教室に残っていたクラスメイトは自由に口を開きながら個々の欲のため仲睦まじく教室を出ていった。賑やかだった分静まりが大きい。学級日誌の当番だった私は、教室を出て行く友達の後ろ姿を見ながら日誌を書く手を止めると、私と千しか残っていない教室にはしんとした沈黙が流れた。

「貰ってって言われても私まだそういうことしたことないから無理だよ他を当たって」

 なるべく顔に出さないようにしたものの、頭の中はパニックだし隠しきれない動揺が指先と口調と言葉に現れた。パキンとシャープペンの芯が折れた、焦って早口になった、何より「他を当たって」とだけ告げればいいものを、自分が未経験者であることをわざわざ口に出してしまったのだ。

「なまえが処女かそうじゃないかなんて関係ない。僕は、僕の初めてを貰ってほしいだけ」

 私は処女である。そんな告白を千はさらりと受け流して口元に手を置きながら話を続けた。とてつもなく自己中心的な人間であると、普段から知っている千の姿を思い返しながら千と話すと毎度感じるそれをまた頭の中に浮かべた。

 男にしてみたら、そりゃあソレを捨てることは容易いことなのかもしれない。女の子の初めては痛いらしいし、体に負担もかけると聞くし……これは全部インターネットの情報でしかないので本当なのかわからないけれど、今はまだ想像もしていなかった行為に身震いさえ覚えた。それに、そういうことをするってことは見たことも見せたこともない裸を見せ合うってことでしょ、耐えられない。

「いろいろ言いたいけど、なんでいきなりそんなこと考えたの。 なんで私?」
「僕と一緒にバンドを始めてくれた万が、一昨日先月できた彼女で童貞を卒業したんだって」

 要約すれば、千はバンドメンバーで童貞仲間だった万という人が先にソレを卒業してしまったことが面白くないのだ。男子の話は下品なものばかりだし、その経験したばかりの行為について千が羨ましがるようなことをペラペラお喋りしてくれたのかもしれない。余計なことを!と、顔も知らない万という男を恨んだ。

「僕はモテるから相手には困らないけど、一番最初にしたい相手を思い浮かべて真っ先に出てきたのがなまえだった。それがなまえを選んだ理由」
「そんな適当な理由で選ばれても……」
「適当じゃない。ちゃんと一晩考えた。今ならなまえに向けた曲だって作れる」

 典型的なバンドマンがやるようなことを平然と口にする千に笑うことさえも忘れてしまった、そのくらい千は真剣な眼差しを私に向けてくれていた。




「ごめんね、お待たせ。待った?」
「30分くらい待ったけど、どうせまた寝坊だろうなって思ったから1時間遅れてきた」
「流石、長い付き合いだけあるね。 僕のことをよくわかってる」

 長い髪の毛を上に巻き上げてるのか深い帽子を被ってマスクをした千が待ち合わせのチェーンカフェ現れたのは、最初に約束をしていた時間の1時間半後だった。千の寝起きが悪いのはいつものことだから、そこそこ遅めの10時に待ち合わせをしてみたものの絶対時間通りに来ないだろうなぁと思っていた私は1時間遅い時間に店に入ったのだけど、やっぱり千の姿はなくてラビチャを送信したって既読すら付かなかった。ため息を吐くのも忘れるほど慣れてしまった千の行動に、もう何も思わないまま持ち込んだパソコンを開いて仕事をしていたからそんなに待った気はしない。
 残業代の出ない会社に勤めて4年経つけれど、こうやって休みの日に時間を作れてしまうから残業時間が他の同期達よりもうんと少ない時間で済んでいるのは千のおかげだとポジティブに考える。家にいると仕事をする気が起きないから、こういう場所でせっせと作業ができるのはほどほどに有難い。

「何か買ってこようか?」
「アーモンドミルクってやつがいい」

 千はレジ前の大きな看板に記された新商品のそれを指差して告げて、私はわかったと言って千の代わりに飲み物を注文しに行った。千は一応あんなんでも芸能人だし、アイドルでもあるのだから女と一緒にいるところを見られでもしたら大騒ぎになってしまうのは目に見えている。
 実際、ネットニュースでいくつか熱愛が報じられている記事を目にしてきたけれど、記事のコメントでもSNSでもファンが発狂しているのをいくつも見てきた。ネットだからそういうのは凄いなぁと見れていたけれど、目の前で大騒ぎになると私は巻き込まれ不可避のためそれだけは絶対に避けたかった。

 信者と呼ばれる千の昔からのファンだったりRe:valeの熱狂的なファンは声、仕草、立ち振る舞いですぐにわかってしまうかもしれない。だから、プライベートで私と一緒にいる時はなるべく他人に存在を知られたくないし声もかけたくないと言っていて、そこには私を気遣っての気持ちもあるのだろうけど、それを考えると千は昔と比べてだいぶ丸くなったとさえ感じる。

「−−モモのお姉さんの瑠璃さんが結婚するんだって」

 千が飲みたいと言っていたアーモンドミルクを受け取って席に着くと、千は勝手に私のパソコンを触っていた。仕事をしていたExcelをそのままの状態にしていたから思わず「何やってるの!」と言ってしまったけど千は「別にいいだろ」と言い返してきて、仕事の最中なんだからとパソコンを取り上げると次の会話がやってきた。

 千の相方であるRe:valeの百とは数回だけ会ったことがあって、百に姉がいるということは有名な話だからもちろん知っていたし、だけど私は瑠璃さんと呼ばれた百の姉のことは存在くらいしか知らなくて、直接会ったことも顔を見たことだってない。

「結婚式に行くってことだよね?」
「そうね。モモのお姉さんだし、なんだかんだ迷惑をかけた人でもあるから。 なまえにも感謝してるよ」
「私が土下座したらいいんじゃないって言ったこと、本当にしたみたいだから吃驚したよ」

 一年に一度、年末に行われているブラック・オア・ホワイトミュージックファンタジアと呼ばれる対抗形式の大型音楽番組で、Re:valeが初めて優勝をする前に千に相談されたことがあった。どこからか、新しい相方になった百が、実はRe:valeでデビューしたことを機に家族と不仲状態だということを聞いたようで、それについて相談されたのだ。相方が数日、数ヶ月の間不仲状態だったらなまだしも、1年2年もそのような状態が続いていてそれに気付いていなかったということにも驚いたけれど、直前に千と喧嘩していたこともあって投げやりに「土下座でもしてくれば?」と言ってしまったら、千は本当に土下座をしてきたらしくてまた驚いた、和解できた千になまえのおかげだと感謝されたことは鮮明に覚えている。

 10年前の秋に童貞を貰ってくれと頼まれてそれを受け入れてしまった時、似たような表情で似たような台詞を言われたから、あの時の記憶はいつまでも頭に焼き付いている。千の感謝は本当に思っていなくても無心のまま言えるような子だったから、なんとなく、本当に感謝しているんだろうなぁという空気だったから意外な一面もあるのだと思った。

「……いいなぁ、結婚」

 一応身近の人のおめでたい話を聞いて、窓の外を見つめると仲睦まじく歩くカップルや親子が目に入ってため息を混じらせて口に出してしまった。長いこと千と一緒にいたせいでまともな恋愛を経験したことがなかったから、そこには憧れも混じっていた。

「なまえって、結婚願望あるんだ」
「あるよ、当たり前じゃん。私ももうアラサーだよ、友達みんな結婚してるし」

 友達の結婚式には何回か出席したことがあって、羨ましいとはずっと思い続けていた。そんな私が千にとっては意外だったのか驚いたように口にされた。千にとって私は、どういう人間に見えているんだろうか。

「千は、結婚したいとか思ったことないでしょ」
「うん」

 千とは、付き合ってるのか付き合っていないのかよくわからない関係だった。10年前の秋を機に、2人きりで会うことはもちろんキスやそれ以上のことを何回も経験してきた。付き合っているのかな?と思ったことは何度もある、だけど千は恋人同士がするようなことはセックスをする時にしかしてこなかった。街中に2人で出掛けるデート染みたことを何度繰り返しても、そこで手を繋いだりイチャついたりした経験はない。指先を絡めることやキスもハグもセックスをする時くらいしかなくて、千が私に好意があるのかないのかすらわからなかったけれど、私だって自分の千に対する気持ちがよくわかっていないままだった。

 高校生の時、それを求められたということは付き合うということなんだろうかと思ったけど、それがあってからすぐに、千は私のことを本当にただ童貞を卒業するためだけの道具だと思っていたのか他所に女を作っていたことが発覚して喧嘩した。「別に付き合ってないだろ」と言われたので割り切ったのだけど、千はどこかで誰かとなにか問題を起こしてくると私の元にすっ飛んでくることがよくあって、慰めてと強請る千を受け入れても、交際には発展していないということだからこの関係は全くわからない。
 いくつか年を取って大人の深い事情を知るようになるとセックスフレンドという言葉を覚えて、私達はこういう関係なのかと思い始めたけれど、それ以外の目的でも私と2人きりで会うことも多々あったから本当によくわからなかった。

 高校を卒業して東京の大学に進学して東京で生活をしていた5年前、万という千の相方が事故に遭って行方をくらましたことは昨日のことのようにまだ覚えている。私のアパートに突然押し掛けてきて泣きながら慰めてくれと騒いでいた千は子供みたいで、なんで私なんだ彼女のところに行けと追い返そうとしたけれど「なまえじゃないとダメなんだ」とまで言われて朝から晩まで千の世話をしていたんだっけ。

 地元では女関係のいざこざは絶えなかったけど、万と呼ばれたバンドメンバーを追いかけて東京に出てきた時もそれは変わらず、だけど万がいなくなって百と一緒にRe:valeを始めると千はそれをきっかけに人間らしく変わっていったということには当時から気付いていた。百と一緒に暮らし始めて、たまにうちに押し掛けてくることもあったけど昔の千と違って些細なことですら感謝を口にするようになったし、穏やかになったというか、友達の数は昔と大して変わらなかったけど人間付き合いがそこそこできるようになっていた。
 たまにわけのわからないことを口にするようになったのもこの時期からで、まぁ元々わけもわからず私じゃないとダメなんだと口にしていたけど、それについて理由を付け加えてくるようになった。暇だったからとかそういう適当なことじゃない、一緒にいて楽だとか安心するだとかワンランク上のことを言い出すようになって「なまえのことが好き」と言いだしたのもこの辺りからだった。あんなに無差別に彼女を作っていたくせに、それすらもピタリと止めたのもこの時期だったけど、付き合おうとかそういう肝心なことは口にしてくれなかったので、この意味不明な関係は変わらないままだった。

「僕は、結婚したいって思ったことはないけど、結婚するならなまえしかいないなって思ってるよ」

 ほうら、またわけのわからないことを言うんだ、千って人は。結婚したいと思ったことはないけれど、するなら私がいいと言われてしまって嬉しくないはずがない。

「……千って、私のこと彼女だって思ってくれてるの?」
「どうだろう。でも、10年前からずっと、僕にはなまえしかいないって思ってるよ」
「嘘吐き」
「嘘じゃない。本当」
「私しかいないって言ってるくせに、平気で彼女たくさん作ってたじゃん」
「あの時の僕は、子供だったんだよ。なまえに甘えて過ごしてた」

 昔の自分をそういうふうに思えている千は、やっぱり丸くなったよなぁと思った。千はとても自分勝手な自己中心的な性格をしていて、何があっても自分が悪いとは決して口にすることはなかった。

 童貞を貰ってと言われた時、どう理由を加えて断っても自分の意思を変えなかった千に押される形でそれを承諾していたけど、その時も自分のことしか考えていなかった。十分な手順を踏んでないから準備ができていない私の身体に無理矢理ブツを捻り込んできたし、痛いと言っても我慢してとの一点張りであの瞬間は本当に地獄でしかなかった。
 もう二度とこんなことしたくないと言ったのに、結局千は言うことを聞かないままちゃんと勉強してきたからと私を押し倒したりして、高校生のくせにズルズル関係を続けてしまっていた。

「なまえは僕の特別だったよ。それは今でも変わってない」

 誰かに言われる特別っていうのはよくわからない。だけど、私自身26歳になるまで付き合ってるわけではない千と関係を持ち続けてまともな恋愛一つしてこなかったのは、自覚していなかっただけで私にとっても千は特別な存在だったからだろうか、と思ったら不思議と納得できてしまえるような気がした。

 千は5年前に芸能界に入ってRe:valeの千となってしまったけれど、テレビに映る容姿も金銭面も私なんかよりもすこぶる良いものを持ち合わせている女性がわんさか存在している世界の中で、いつまで経っても私のことを特別だと思ってくれていることに嫌な気は一つもしなかった。

「なまえは、今すぐ結婚したい?」
「したいって言っても、千は無理でしょ」
「……そうね。 10年、20年経って、なまえと一生過ごしていきたいって思ったら、結婚しようかな」

 それは遠すぎる未来の話だったけれど、千と関係を持って10年目の今を折り返しの時だと思いながら新しく実った関係を1から始めていこうと思えた。恋人同士だなんて新しい関係に思えたけれど、なんの変哲もない関係でもあった。それなのに、緊張してまともに目も合わせられない−−そんな今まで感じなかったことを感じながら、私は今日も10年前と変わらないまま千の近くに居て、アイドルとの恋をはじめた。

 今や日本を魅了するトップアイドルRe:valeの千とは、口が裂けても言えない関係がここに存在している。








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