始まらないかもしれないし始めようとはしてる



「結婚するならアズール先輩かな」

食堂で漏れ聞こえたそんな言葉に足を止め、ふむ、と満更でもないので続きを待つ。
食事はラウンジのまかないで済ませていたけれども、昼休みに数人との話し合いがあったためにわざわざ足を運んだ結果予想外に興味深い話題が出てきたもので、早めに移動教室へと向かい予習をする予定は切り捨てた。昨晩すでに予習の予習はしているので困らないだろう。
いやいやいやいや、と妙にユニゾンする相槌を打つのは先の衝撃発言をした彼女、監督生の親友を自称しているいつもの二人組と一匹だ。

「ないわー、だってあの先輩だろ?人権費浮かせるためならウマいもんちらつかせて人間を釣り上げる暗黒社会先輩だぞ?」
「大丈夫か?なんか弱み握られてるのか?カチコミするか?」
「つまり家計面では頼れるのよ」

あぁと納得し少しは落ち着いた一年生たちに思うところはあるが、その前に刻まれた僕へ向けられた評価が覆るわけでもない。
批評は使えるだろうと仕方なく心にとどめて、流行りを確認するためにそのまま耳を澄ませつつSNSをいくつかチェックする。すぐさま真似できるかはともかく、こういうものはインプットが多ければ多いほどいいものだ。そしてこうしていれば聞き耳を立てていようともある程度は怪しまれないだろう。どうせなら口を挟むような話題展開が行われてはくれまいかと待ちながら画面をするすると送る。

「それにリスク高いから浮気も不倫もないでしょ。ていうかたぶん結婚する前に違約金の誓約書を書かされると見た」
「いやそれ結局やばくね?死ぬまでとか虫眼鏡いるくらいちっっっちゃく書かれてても気付ける?」
「浮気しなければいいんだろう?」
「なるほど、デュースも候補に入れよう」
「は!?俺は?!」
「うーん……」
「なんでだよぜってぇバレねーようにすんのに!」

そういうところだよねと切り捨てる監督生の切り返しの小気味よさに頷き、パーティメニューの流行りへと目を通す。そういえば先程の『話し合い』でも「女にもそう詰めてたらすぐに振られてそうだよな」みたいなことを捨て台詞に言われたばかりだ。その際に監督生が近くにいた可能性はあるからこそのこの話題だろう、なにしろ彼女は気配を消すのが妙に上手い。いつの間にか真後ろを歩かれて前後の話題にやましいものがなかったかともぞもぞする生徒が地味にいるのだ。まさか被害者側として噂の盗み聞きをする羽目になるとはとうてい思っていなかったのだけれど。それにしてもブライダルフェアは中々に華々しい装飾が多くてインスピレーションの足しになりそうだ。

「それに関係冷え切ってもお金には困らないじゃんか。家庭からは逃げそうなタイプだから、気まずくなればなるほどお金は増えるのに家では一人の時間が増えてハッピーになる」
「なぁ、女子ってそんなに具体的なことまで考えて付き合ってるのか……?」
「いやいや監督生だけっしょ」
「あはははー」
「ふーん、この話やめよーぜ!」

そう宣言した一言ですっぱりと話題を変え、課題の進行具合で競争を始めた彼らから遠ざかり、授業の準備に取り掛かる。
いやはやそれにしても彼女は見る目がある。デメリットとメリットをまぜこぜにし、評価を落としたいのか上げたいのかわからない話術はさておき、生活の安定を第一に結婚相手を指定するとは。
こちらから条件を提示したことはあれど、彼女を主体とした契約は詰めたことがない。結ぶとしたらどのようなやり取りになるのだろうかと想像するだけで今日起こったアクシデントやクレーム処理などでくすんだ心境が晴れるようである。



それからというもの、なにか不愉快な事態が勃発しても「まあ監督生さんに結婚相手として認められているからな……」という心のつぶやきによってある程度気持ちを和らげることを発見した。イデアさんが「まぁボクには完凸さいつよ推しがいるので?」という発言を飛行術前に呟いていたのでおそらく用法は同じだろう。
思いの外キャンペーンがのらなくてもまぁトータルなら黒字だし予想していた誤差の範囲内ではあるし結婚に向いているらしいし。バイトのミスで桁をひとつ間違えた発注が出てもまぁ消耗品であるし日持ちもするし彼女には認められているし。体を動かす類の教科で追試を言い渡されてもまぁ平気だ。僕を旦那に相応しいと形容する女性が追試の補助についているし。

「アズール先輩、なんだか余裕ありそうですね」
「ふふ、ふ、そうですか、貴女には僕がそう見えます、か」
「ないのにある、みたいな?ドリンクありますよ」
「カロリーは……」
「けーこーほすい?なのでちょっとしかないですよ」

バカのような規定数のスクワットで力尽き芝生に転がっていれば、額に立てるようにドリンクを置かれたので火照った肌に心地いい。隣で数分遅れで倒れ込んだイデアさんの方角から「ンひぃっ」と微かな悲鳴が聞こえたので同じ目に合っているのだろう。視界がペットボトルに占められているので見えないけれど。

「証拠写真も撮ったので解散できますが」
「は?はっはひぃっ……ふぁへ……へぁ……」
「まだ居ますね、はい」

喋れもしないイデアさんにジャージの裾を掴まれ、彼女もぺたんと芝生に座る。ハンカチを敷いてあげられれば良かったのだが、生憎、イデアさんほどではないとしても余裕がない。ドリンクを押し込んでまた乱れた呼吸を整えるばかりである。

「監督生さん、は、このあとご予定は?」
「レポート提出用の本を読まなきゃいけないのでお構いなく」

これです、と抱えていた鞄へカメラを仕舞い本を取り出す様子に安心し、重くて仕方のない足を投げ出す。ついでにその課題の手伝いでもと視線を向ければ、よほど集中しているのかこちらの視線に気付く様子はない。ついでに言うと芝生に溶けでもしそうに倒れているイデアさんは全身が重すぎて動けないといった様子なため、起き上がれるようになるまではもう少し掛かるだろう。その時間を読書に当てるというのは賢明な判断と言える。

「よかったら、お手伝いしましょうか?教員ごとの、好まれる傾向だとか、」
「や、大丈夫です……素直に読んで素直に書きますよ。というかそんな無理して喋らなくても……」
「性分ですので、お、お気になさらず」

まぁイデア先輩みたいに無言になられるのも怖いですね、と呼吸以外でろくに動かない背中を見ながら言うのに笑いながら同意し、その手に収まりきらない大きさの本の表紙を盗み見る。見覚えのあるロゴデザインは懐かしささえ覚えるような児童書だったので、学力というよりは基礎的な知識を身につけるのが目的の課題なのだろうと推測できた。それならば、評価よりも理解度を求められるはずだ。
監督生という生徒は、たまに驚くほどに頼りがいがあり、常識がない。あれらは無知からくる不安定さだ。海に潜る人間が危険な海流へと笑いながら向かうような、いいものが採れたと笑う危うさ。無謀は運が良ければ黒字になるがすべて失う覚悟もなく突き進むのは見ていて楽しいものでは……時には楽しいけれどもそれは置いておこう。

「それは、娯楽に寄りすぎてませんか、教材としても使えるでしょうが」
「はい面白いです。というか前に出された課題図書、あんまりに寝落ちするのでこっちに変えてもらったんです」
「わかりみ」
「お、イデア先輩が喋った。帰りますか」
「無理み」
「ではもうちょっと待機します」
「貴方たちよく会話が成立しますね……」
「慣れ」
「ほんそれ」

リズミカルな会話の合間も荒い呼吸音が響いているのだから傍目には無駄がない。ラウンジ運営に隠語として転用したなら役立つだろうかと考えて、フロイドに魔改造されるところまでを想像して取りやめた。そうなればもはや難易度が上がりすぎても会話は成り立たないだろう。おそらく別の言語が誕生するか、従業員たちのストレスが爆発する。
そんなことに思考を割いている間にも息が整ったので、これ以上無為に話す時間ももったいないだろうと立ち上がり監督生へと手を差し出せばチェキを添えられた用紙が手渡される。

「それでは僕はこれで。監督生さん、追試や自主学習にお困りなら是非ラウンジでご相談を。特別価格でお受けしますよ」
「……はーん、賄賂です?」
「これはまさしく賄賂ですなァ」
「効率のいい話をしているだけでしょう?」

それでは、と立ち去るうちにも残ったふたりの会話が内容まで分からずとも漏れ聞こえ、変わらずリズミカルなそれにいつの間にそんなにも打ち解けたのだろうかと胸のあたりがもわっとしたが、まぁ、彼女が結婚したいのは僕だしなと思い直す。それに小気味いい会話は息が合いすぎてももはやコメディだ。

「アズール氏なんでそんなに速く行くの僕をコロコロするつもりですかそうっすね裏切り者ぉそんなこすいことしとらんで最下位争い末永く続けようぜぇ」
「イデア先輩と女子の私を置いていったらこうなるんですから、あとちょっと待って下さいよー」
「ヒィっ女子が女子って名乗ってらぁこわあタスケテムリ」
「息継ぎなしで……元気そうですね、イデアさん」
「お陰様で疲れを忘れて走ったので見てほら膝笑ってるんだけど動画オルトに送ろ」

別に現地解散でいいだろうに、無駄にたむろすように駆け寄ったふたりを待って更衣室へと向かいながら、満更でもなくこの空気は嫌いではないものだなとは思う。時間を浪費しているし、足は遅くなるし話題の内容はなんの役にも立たないし好感度を推し量る要素すらもどこにも見つけられないけれど。
まともに歩けずふにゃふにゃと愉快かつ絶妙なバランスで歩き続けるイデアさんはといえば撮影には不向きだったようで、スクワットに合いの手を入れるばかりだった彼女までもが笑い過ぎて息切れと手の震えを起こしている。

「アズール先輩、ふふ、代わりに撮って、笑、手ブレやばすぎ、んふ」
「仕方ないですねぇ……編集のオプションも付けてこのお値段になります!リボ払いも受け付けておりますよ!」
「ひっやめ……とどめささないで、んっふ、あは」
「監督生氏の姿勢それなんてバグ?とりあえず監督生氏も撮っていい?」
「イデアさんも一緒に画角に入ってみては?」
「は?女子とツーショとかむりごめんなさいなんでもしますあっやめてレンズ向けないで」
「三人で撮りま……膝が……とまってやがる……」

なんてくだらない会話だろうか。
同郷のふたりとふざけあうのとも違う、クラスメイトと交わす下品な雑談とも違うあまりに頭の悪いやりとりに頭を使わずに笑い、腹筋がつったとしゃがみ込むイデアさんを彼女と囲い込んで見下ろすだけの遊びもした。傍目にもつまらなそうなそれもあまりにつまらなすぎて実に楽しかった。



「おや。今日の隣は監督生さんですか」
「はい。よろしくお願いします」

ぺこりと礼儀正しく腰を折る仕草はもはや見慣れた、異国の礼儀作法らしい。一年生あたりの顔ぶれに伝染しているのか最近見かける挨拶だ。最初はそんなにヘコヘコしていては強者に食われはしないかと心配していたが、したたかであることはもはや周知である。
つつがなく挨拶を終え机に教材を並べ、ポテンと魔獣が隣に座る。一人分なら体格の良い獣人が座ろうとも余裕のある席だ、ふたりと一匹がキリリと並んで座っても少し横幅が余っている。

「おいアズール、暇ならオレ様たちにノートを見せてくれてもいいんだゾ、他人のノートを写すとテストの点が上がるっつー発明をしたばっかなんだ!」
「うちの親分天才じゃないですか?」
「はははは」

イソギンチャク事件から勉強法について研究しているらしいんですよ、と、にこにこと告げ口する監督生にチクチクと魔獣の尾が攻撃していて不満を表していたようで、事件の当人にそれを言うかという嫌味は飲み込んだ。というよりは、正しくは中和されて溶け出した、といった心地だ。
内容はともかく声色に悪気が皆無すぎる。本当に自慢したかっただけなのだろうと分かる声色で傷口を掘り返されても、おままごと用の包丁ほどしか切れ味はない。まあこんなことを言っている彼女は結婚相手に僕を選んでも構わないと思っているのだけれど。
すぐに教師が入ってきて始まった授業は選択科目だけにニッチな内容で、つい気になり横へ目を向ける。やはりというか当然というか、ひとりと一匹で参考書を睨みながら首を左右に捻っており、ただ板書をシステム的にしているといった様子だ。そんな様子ではテスト前にヒンヒンと泣き言を漏らす未来しか見えない。
トトン、とペンで小さく呼び、二対の目がこちらに向けられたのを確認してからノートを少しそちらへ押しやる。参考書の参考書、とでも言えるような、基礎の基礎が学べる本のタイトルをいくつか書いておいたそれに「勉強は是非ラウンジへ」と書き添えていたページをそのまま割いて渡せば、神妙な顔をしたふたりにこくこくと頷かれたので笑うのを堪えるため頬杖をついて前へ向き直った。





「あの、これ、分かりやすかったです」

分かりやすかったですけど、と歯切れ悪く言い淀む口元にストローが差し入れられ、スソソと氷の隙間から空気が吸われる音がする。手持ち無沙汰なだけであろう。
脚を組み換え、充分間を置いてから「それは良かった」と言葉を返した。どうしてだか不満げな彼女はグリムさんにツナオムレツを取られないよう遠ざけながら本を手渡す。

「そうでしょうそうでしょう。コミックであれば読破にかかる時間も短縮出来ますし、定期的にイデアさんと推薦図書をディスカッションしているので内容も吟味を重ねたものですよ」
「部活動ですそれ?」
「作中のゲームを再現するために本を持ち寄るのもありますからね。デスゲームは流石に無理なのが残念ですが」
「ボードゲームの範囲よ」
「とにかくお役に立てたようでなにより」

居心地悪そうに、けれどもしっかりとオムレツをつつきながら海鮮パスタを咀嚼する彼女の態度はほぼ債務者だ。完全な善意ではなくとも取り立てるようなことでもなく、貸したコミックも油のシミや頁の痛みもなさそうで弁償の心配もないだろうに。

「それで、あの、私の全財産はこの食事でして」
「明日からは子分の焼いたパンだゾ!たまにベチャベチャなやつ」
「パンじゃなくてナンでしてよ」
「あまり聞かない選択ですね」
「ジャムもカレーもバターも合います。あと宴で頂くものとめっちゃ合います。というわけで、買いためたもので食いつなぐ予定なので、その」

皿洗いならなんとか、と押し出すように言いながらサラダを口に運ぶ手には戸惑いはなく、生存本能が高い様子が窺える。海でもなんだかんだと生きていけそうな彼女を想像して可笑しくなれば、ひぃとか細い悲鳴を上げた彼女が付け合せのスープで喉を潤した。
警戒心を解かせるため、足を組み替えてドリンクに口をつける。見栄えばかりは抜群のそれはシェフの気まぐれという賭けに負けた味がした、要は不味い。いや不味くはないが美味しくもない。それを顔に表せばあらあらと彼女は肩を寄せる。予期せず緊張は解れてくれたようだ。

「別にどうってことありませんよ。命を救っていただいた恩義は僕が成功するほど大きくなりますし、学園内で貴方に融通を利かせてもらう機会は稀によくあるでしょう?」
「恩の押し売りですか、なるほど……」
「いやだなあ、何か困ったときに僕のことを思い出して欲しいだけなのに」

確かに嫌な意味で浮かぶんだゾ、と横槍を入れてくる野獣は無事にツナオムレツへスプーンを差し入れ、残っていた半分近くを一口で飲み込んだ。こちらの生存本能も将来有望だろう。

「でも……」
「今日はやけにしつこくねぇか?小テストだっていい点とれたっつーのに」
「そんなン構いてーからに決まってんじゃん?」

デザートのソルベを置きながら余計な一言も置いていくフロイドをしっしと追い払う。けれども発せられた言葉はしっかりとふたりに届いたようで同じ方向に首を傾げながらソルベをもぐもぐしている。

「まあ、そうですね。フロイドの言いようはあれですが。ちょっかいを掛けたくて掛けているだけですね」
「あらまぁ」
「いや余計にわかんねーンだゾ。なんだよ、コイツのこと好きなのか?」
「やだグリ厶、そんな恋バナみたいな……」
「ふふふ、そんな、僕を好きなのは貴女でしょう?」
「そうですよね、ん?んー?」
「ふな?」
「んん?」
「おやおや?」

ジェイドのドップラーおやおやが聞こえなくなるまでテーブルは静かで、彼女の表情も常と変わらないものからドップラーに伴い少しずつ呆けて、終いには両手で頬を抑えて唇を上やら下やらへと歪ませ続けている。
僕はといえば完全に気の抜けた失態を自覚し、頬が火が近いように熱い。
ここでさらなる失言か失態を重ねるくらいなら弁明も釈明もせず一旦引いて頭を冷やすべきであるここはホームだ撤退まで失敗するはずがない足がもつれて転びそうで転ばかなったのでもしかしたら小躍りに見えたかもしれないうわぁなんだこれどうしろと。



「わー。アズール先輩って実はかわいい……?」
「おや?おやおや」
「マ?小エビちゃんの感性ヤバいね」
「こないだはバルガスのやつにかわいいって言ってたゾ」
「やっば」
「おやおやおや」
「かわいいもん」









恋をするには余裕がなければいけないのでは、という考えがあったのだけれど、そうでもなかったようだ。
夜の残りと定期で届く牛乳で朝食を済ませ、親分とお互いに身支度と忘れ物の点呼をして寮の幽霊たちに挨拶してから校舎へ向かう。勉強して、休み時間も勉強して、昼は食堂で貰ったチケットを使って中くらいの値段のやつをたまに食べてまた勉強して、バイトして寮を直して。
この世界へ飛ばされてから一年も経っていない人間なので、野生生活をしていたらしい親分と知識量は同じである。みんな知っている歴史も童話も交通ルールも知らないので、生きるための勉強も学力のための勉強も必要で、異性のど真ん中に突っ込まれて共同生活さえするなんて何そのマンガ絶対恋愛展開あるでしょ?な状況でも全然そんなことなかった。
なかったのだけれど、いつも晩御飯のことを考えながら勉強しているような有様だったけれど、恋なんてポロッとした拍子でしてしまうものだったらしい。

「あ、アズール先輩ー」

遠くからでもよく分かる、長身双子が並び立つ間に人ひとり分ほどの隙間があれば、確実にアズール先輩はそこに鎮座している。私が学園内で下から数えるほうが早い程度の身長なのでこの目印しか使えないとも言える。いや体格も発育も良すぎると思うここの学生。
少し先を行く彼らに立ち止まってもらおうと出した声は、周りの人垣が避けるように引いてくれたので思った効果ではなかったもののすぐにその背に追いつくことが出来た。
一応は歩みを遅くしてくれたらしい彼に、面と向かって「おはようございます」と挨拶する。もちろん両サイドの双子にもする。
朝イチの営業スマイル「おはようございます」を浴びて、満足したので一限目の教室に向かおうとすれば「おや、それだけですか」と意外そうな反応が返ってきた。それ自体が意外だったのでちょっと驚きながら振り返れば営業よりは授業向けみたいな笑顔に切り替わっていた。相変わらず便利そうだ。

「ジェ先輩とフロ先輩の頭が見えたので。ほんとに挨拶の用だけですね」
「おや、珍しい愛称を頂いてしまいましたね」
「立て続けに呼ぶと長いんですよ」
「じゃアズールはタコ先輩になんの?」
「即座に法則を崩すのやめろ」
「あ、アズール先輩はアズール先輩で」
「それはそれで納得がいかないのですが?」

三人組で歩いているときに絡むと、営業用みたいな様子だけれども会話が幅広くて面白い。
お得な気分で「それじゃ」と手を振って教室へと早歩きを再開した。
今日は残念ながら選択科目で先輩と同じになるものはなく、ついでに言えば補習の手伝いもない。朝に挨拶出来ただけマシだろうかとは思うけれど、少し寂しい。ラウンジに通えればと思うけれども立派な金欠だ。もうすぐある小テストが不安だからバイトをする時間もない。学園長から食事代はせびるとしても、なんとなく、余裕がない。まあマブと遊ぶ時間は気合で作るけれど。
マブズと集まっても勉強には向かないのでひとりになるか、寮でやるか、いや寮は最近サボりの温床として使われてきてしまったから駄目だろう。騒がしいのは好きなので困っていなくとも勉強には向かない。
ラウンジで、ドリンクだけで粘ろう。
仕方ないのだ、この間補習ついでに貰ったクーポンもあるし、勉強しなきゃいけないし、集中したいし、今回のテストは実技の補填のようなものだから私しか受けないやつだからひとりのほうが気楽で捗るし。仕方ない、仕方ない。



「何かお困りですか?」

仕方なくドリンク一杯で粘っていた隅の小さなテーブルで、こっそりとゆっくりと啜りながら勉強していれば嬉しいような気まずいような声が上から掛かる。
にっこりと隙のない営業スマイルに愛想笑いで返し、そっとメニューを開いた。

「二番目に安いものを……ください……」
「勘違いしないでいただきたいのですが、これはオーナーとしての質問ではありませんよ」

ほら、と寮服ではない制服姿であることを軽く指差した彼が、座っても、と形ばかり訊ねてから向かいの椅子に座った。

「先日ご迷惑を掛けたお詫び、というのもなんですが、軽い相談であればお聞きするだけしますよ」
「めいわく?」
「僕の失言についてです」
「しつげん……?ああ、暫定逆告白ですか」

すぅ、と大きめに息を吸う彼に「また余計なこと言っちゃったやべぇ」と思いつつ一番安い紅茶を追加注文する。当たり前のように素早く二人分届いたそれには小さなケーキも付いていて、ついテンションが上がったのでカメラを立ち上げた。なにこれ無駄に凝っててかわいい。フルーツの飾り切りがなんかもうえぐいほどの細かさだ。

「女性の感情を憶測で決めつけてしまい、あまつさえそれを当人が不快に思うであろうタイミングで口にしてしまうなどとんだ無礼を……んん、ですがこれは僕個人の問題です」
「はぁ」
「僕個人として、償わせてはいただけないでしょうか。相談が信用ならないというのであれば、物品での保障、このラウンジのチケット等お好きなものをお選びください」
「はぁ」

決定権があるようなないような、お得なようなそうでもないな、誠意があるようでないような言葉をどうにか咀嚼しながら、甘いケーキを小さくして口に入れて癒やされつつ考える。
朝のように、アズール先輩の表情がころりと変わって「つりあわない、でしょう、ええ、恋愛感情を弄ぶだなんて」と俯いて指遊びをする。そんなに気にしていないと言うにはどうにも彼の様子が深刻過ぎた。
気にしてないのだ。どうせ無理なことだと思っていたし、あのときに私の感情を断定した彼は自信に満ち溢れどうにも可愛かったし、そのときころりと簡単に恋に落とされているのだからまるきり嘘でもない。けれどもそれを堂々と伝えるにはどうしても時間だとか自信だとか時間の余裕がない。ケーキ美味しい。
無事皿を空にして、温かい紅茶を傾けながら目の前の、私の好意を嫌ってはいない彼を見る。ぱちりと合う視線に反射のようになめらかに返ってくる爽やかすぎる笑顔。

「…………」
「ええと、あの、急かすつもりはありませんが」

なんの気無しにじっと笑顔を見つめていれば、気まずそうにそう付け加えながらバツが悪そうに肩を竦める。仕草が全部見せるためのものでかっこいいなぁと思うのだ。私に出来ないことを軽々と見せてくれる、でも練習も復習も欠かさない誠実なところとかかっこいいし、でもどうしてだろうか。

「うーん、かわいい」

ずるり、と格好よく肩をすかしながら、ふぅと息をひとつして「褒め言葉であればいいのですが」とゆるく姿勢を変える姿に隙はない。

「嫌われているとは思っておりません……が、女性のかわいいという評価には含むところが多すぎますよ」
「そうですか?」
「第一、長くそばに居るには向いていないようなので」
「そう?」

なんでか暗めになってきた話の方向性に少し不安になり、まぁこれだって『交渉』の一部だろうなぁと思えば芽生えかけた罪悪感はちょっと薄まる。ちょっと。

「こうして話すのも好きですけどねぇ」
「それは有り難いお言葉です」
「デートみたいで楽しい」
「…………」
「やっぱりかわいい……」
「……貴女は、」

またふぅと仕切るように息を吐き、ちょっと見たことのない表情は召喚された帽子で隠され、彼の言いかけた言葉の続きは聞けそうになくて困る。またこうしてゆっくり話したいからデートして、という要求はいつになったら伝えられるのだろうか。



24.04.24


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