たかがマザコンの一席




「君、ヌヴィレット様の恋人になってくれないかい?」
「はいお母さん」

相談があるんだと呼び出され、いつもよりちょっと真剣なお母さんの声に納得し、すぐさま是と応えた。
そうと決まれば準備が必要だ。
私が住んでいるのはお母さんたち、メリュジーヌたちの生まれ故郷からはほんの少し離れている。サイズの問題もあるしお母さんたちが私の社会復帰を願ったからだ大好き。だから人間向けの家具とメリュジーヌ向けの家具が混在するこの家を離れるのは寂しいけれど、まあ、仕方ないだろう。ほんの少し人里に近いのは今は利点だ。片道数時間は削れるので、その時間を「恋人」という概念を作り上げるのに当てられる。
何が必要だろうかと考えながらとりあえず服とか下着を鞄に詰めてみる。珍しく、ひとりぶんだけの荷造りだ。


私は実の親に捨てられた。
「私の世界はここじゃない」「知らない」「怖い」と泣き叫ぶ乳児だったのだとお母さんに聞かされて、そりゃ捨てるだろうなと納得しているので親を恨むつもりはないし、むしろ正しかったのじゃないだろうかとすら思う。
言葉を話す赤子は湖の近くに捨てられ、メリュジーヌに拾われて裁判が起こった。両親は正しくなくとも間違ってもいないだろうと減刑がされ、私は第一発見者のもとへと預けられてそこで育った。
メリュジーヌのお母さんたちは優しいし、面白いし、存在するのか分からない私の前世の世界の話もたくさん聞いてくれたし茶化さなかったし、私はとても幸せである。
長い長い彼女たちの人生に私をねじ込んでくれたのだから、この生はお母さんたちに尽くすためにあるのだと確信したのもあって最近は精神は安定しているのだ。もう朧気な記憶の日本という故郷にも未練はない。あまりない。稲妻のお米と調味料を取り寄せて小説も熟読しているけれどないったらない。そのうち漫画文化産まれないかな。


お母さんに頼まれたのだから村と街の橋渡しを仕事にしていた私の仕事の範疇にもなるはずだ。そう思えば慣れない作業も何時ものものに思えて効率が上がるというもの。
荷物を詰め終わったなら、今度はすぐさま旅支度を整える。大きくて可愛めの鞄に最近買ったばかりのコート、少しお洒落目の靴、どれくらいで戻るのか分からないからちょっとした貯金も切り崩して半分ほど。ヌヴィレットさんも父親のように私に接してくれていたので大恩人だ、必要とされるのならこの身すべてを掛けてでも役に立たなければ。貯金も私がお母さんたちに迷惑をかけないよう、何かあったとき用のものなので使用用途に間違いはないはずだ。

「あの方ね、恋人に付きまとう男の人の気持ちがどうしても分からないんですって。裁判は終わったんだけど、あれで良かったのかってずっと悩んでるみたいなんだ」
「分かりました。私が付きまといます」
「駄目よぉ、それじゃきみが捕まっちゃうでしょ。それにあの人、恋人がいたこともないから分からないんじゃないかって零してたの。ひとりのときだったけど聞こえちゃった子がいたんだぁ」
「分かりました。付き合って一月目くらいで行けばいいんですね」
「うーん、きみの方が詳しいだろうし、たぶんそうだね!」

お母さんたちにあれもこれもと手土産と荷物を持たせてもらい、いきなり遠距離恋愛はハードルが高すぎるだろうと町中に家を借りなければと考えて、それも準備ができてるよと言われてお母さんの手を取った。私が断ったらどうするつもりだったんだろう、そんなに入念に私のことを考えて準備してくれて。こんな、こんなにもふもふなのに、そんな細やかな気遣い本当に胸に染み入る。私が神の目を得たなら絶対に水関係だろう。そんな兆しまったくないけれど。

「警備の子たちの部屋が空いてて良かったね、わたしたちのかわいい子は安全なところに住めるんだね」
「掃除洗濯愛妻弁当鉄拳交渉なんでもしますね」
「恋人?って大変だわ、大丈夫?怖かったり疲れたら何時でも帰ってくるのよ?」

もふもふもふとお母さんたちとハグをして送り出され、ささやかな旅をして街へと着き、引っ越し作業をさささと済ませて買い物をして服も髪型もメイクもきちんと直して手土産を持ち、街のお母さんたちに声を掛けてから彼の職場へと足を向ける。日の出とともに出立したけれどなんだかんだと時間がかかったので陽はもう傾き、白っぽい城壁の多い人工的な街はゆるく赤く染まっている。一緒に行こうか?と心配してくれたお母さんと玄関で別れて、受付の人に名前と要件を伝えてから控室の椅子に落ち着いた。あ、手土産渡し忘れた。今を逃したらなんかもう二度と渡す機会がない気がする。こういう感覚は日本人の頃から引きずっている気がしてならない。こう、浮ついて落ち着かない感じだとかのあたり。
立ち上がり紙袋を抱えてもう一度受付へと向かおうとすれば、奥の扉から見覚えのある姿がピンとした背筋で現れた。

「あ、ヌヴィレットさん。お待ちしてました」
「ああ、君か。話は聞いている」

カツコツと小気味いい足音でこちらへと歩む彼はいつもどおりに気を張っていて、帰りですかと訊ねてそうだという返答を聞かなければどこをどう見ても仕事の最中という雰囲気だ。一緒に帰ってもいいかと訊ねてもひとつ頷くばかりで、よほど忙しかったのだろうかと心を痛める。
手土産を受付のお姉さんに渡し、待ってくれていた彼のところに履きなれない靴で駆けて追いついてから裁判所の外に出る。それにしても受付のお姉さんもだけれど、視線がものすごい。働いている方々全員の視線が彼に集まっていたんじゃないだろうか。流石はヌヴィレットさん、と思うと同時にちょっと躓いただけでどよめきでも起こりそうだと可哀想になる。私なんかは躓こうが家の仕切りに頭をぶつけようがあらあらの一言で終わるのが日常だというのに、彼に関しては新聞記事にでもなってしまいそうだ。なったらなったで絶対に買うだろう。保存用とお母さん用と切り抜き用で最低三部は必要だ。
扉を通った瞬間、少し振り返った彼が私の目の前に手のひらを差し出して私の目をじっと見る。もちろん手のひらが上で、彼にとっての恋人とはそういうことなんだろうと納得して、その手に手を重ねた。

「あああぁあ、あの」
「はい?」

エスコートされながら階段を降りきり、それでも離されない手をちょっと振って遊んでいれば手帳とペンを握りしめた女性が私に声を掛けてきたので、反射で足を止めた。止めてから彼の迷惑になっただろうかと見上げれば、目配せ一つだけがあってあとは何も言われなかったのでまぁ大丈夫なんだろう。
ペンが折れそうなほどに手に力を込めている記者らしい彼女が「そそそそそそその、」と言いよどんでから、意を決したように、でも小さく「お二人はどのようなご関係で……」と訊ねる。正直に言えばいいのか適当に答えるべきか悩んで、悩んでいるうちにヌヴィレットさんに肩を抱きかかえられ、体の向きを記者らしい女性へと真摯に向け直したヌヴィレットさんがさらっと宣言する。

「恋人だが」

ばきゃん、とペンの折れる音を聞き、肩に乗っている手にくるりと向きを変えられる。答えたならもういいだろう、ということか。
喧騒が妙に落ち着いて水路を流れる水の音ばかりをバックに、近い彼の顔を見上げながら「どこに向かうんですか」と訊ねる。歩きながら少し考えた彼が「こういうのはデートというのか」と訊ねられたので、街の案内は充分デートになりますね、と深く深く頷いてから街中デートをした。



今までは街に来たとしても長居はしなかったので、ヌヴィレットさんという彼氏に案内される街はどれもこれも新鮮だった。
職場の中も見せてもらったし、全体を見下ろせる展望台のようなところでは足が竦んだのを支えてもらいながら周りを眺めたし、おすすめのケーキ屋巡りなんてとても恋人らしいこともした。
今日も不意に向けられる撮影機が突然の雨で駄目になったらしい悲鳴を聞きながら、お母さんたちの働いている港へと足を向ける。こちらは私のほうが足繁く通っているので詳しく案内できると思っていたのに、手を引かれて見させてもらう裏側はとても新鮮で楽しかった。まぁ、少し悔しいけれど。

「今日の夕食の予定は?」
「帰ってから作ります。ここの工房すごいんですよ、たこ焼き器が欲しいって相談したら作っていただけて」
「そうか……」
「明日にしますね」

流石に誘われる気配を察知して予定を変更する。相変わらずの他人の目線には慣れないけれども記者っぽいひとがグッと握られる拳が目に入ったのでこちらも拳を軽く上げて応え、花壇の近くに犬を見つけてしゃがみこんだ。メカメカしい犬には慣れないけれども撫でされてくれるので問題はない。現在の最重要課題はヌヴィレットさんにいかに自然な流れでディナーに誘われるか、である。時間稼ぎと癒やしとしてなかなかに良い作戦に出れたのではなかろうか。

「すみません、私の作る料理は馴染みがありませんよね。たこ焼きは熱いし焼きながら食べるものですからちょっと汁っ気がないですしいや中身はとろっとさせるのがコツですけど粉ものですし」
「そうだな。馴染みがなく、興味深いものばかりだ。今度是非作ってもらえるだろうか」
「へへ、はい」

いや違うほんわかしている場合じゃない。デートからのディナーへと繋げなければいけないのに。
なけなしの前世の記憶にある恋愛経験はカッスカスで、こういった場面ではべらぼうに使いようがない。創作物めいた雑談としてならたくさん話せるんだけれどもそれじゃあいけないことくらいはわかる。きちんと恋人らしくディナーのお誘いをしてもらい、かっちりデートの延長をせねば。私の住むお母さんたちの寮に着いてしまうまでに。
ええとええとと悩みながら犬とぬるっと増えた猫を撫でつつ視線をあちこちへと向けていれば、最近良く見かける記者らしい方がバッサバッサと新聞を大袈裟に開いて花壇に座り込んだ。思わず目を向ければ最近開店したらしいレストランの広告らしきものが目に入る。

「レストラン……」
「おや。丁度招待券を貰ったのがここにあるんだが」

ちょっと読み上げただけだったのにものすごく滑らかに行く口実を差し出され、茶番っぷりに笑いながら立ち上がり手を差し出す。当たり前に取られた手を繋いで、先程まで向かっていた方向とは違う向きへと方向転換した。場所なんて知らないので助かる。

「個室を用意してもらえればいいのだが」
「あぁ、お茶してるだけなのにすごい視線を感じたことがありましたね。お母さんたちまで来ちゃってゆっくり話せなくて」
「……恋人らしいことはできているのか、と重ねて訊かれたな」
「はい」

コツコツ、規則正しく刻まれる足音が少し乱れ、おやと隣の彼を見上げれば前を向いていた視線が私に落とされる。
確かに、付き合う前のお母さんたちを訪ねるついでに私を構う彼とさほど変わらない視線だ。優しげで、しゃんとして、いいところだけじゃなく私の悪いところもそうじゃないところも、おかしなところもただの人間だというだけのところも一緒くたに目に映して、すべてを許してくれる目だ。恋人という役割を充てがわれたけれども変わりない。
昔からヌヴィレットさんのこの目が好きだった。許されるからじゃない、むしろ慣れるまでは冷たく見えていたその視線が、どこか心地良かった。山で触れる湧き水や跳ねる雨水のようにどこか親しいと、勝手に感じている。
両肩を掴まれて、お母さんたちほどではないけれどもヌヴィレットさんよりは確実に小柄な体は身を寄せてもらっただけで包まれたような安心感がある。そのまま両腕を彼に巻き付ければ、幼い頃とは違う感覚で安心して胸の中からとろけていく。
顔を上げなさい、と請われるままに目線を上げれば、幼い頃のように頭の天辺にちゅ、と唇を落とされて、恋人らしくないなぁとつい笑う。けれどもまあ、傍目にはいい感じに見えているかもしれない。一番嬉しいのはヌヴィレットさんが恋人と過ごしているという実感を持ってくれることだけれど、外堀からアピールしていくのも確かに理にかなっているだろう。

「うわっ、またあそこだけすごい豪雨。そうだヌヴィレットさん、日本にはゲリラ豪雨っていうのがあったんですよ」
「ほう」
「水柱がはっきり見えて……わっ、そうそう、あんなふうに!」

街の排水装置は見事に働いているようで、雨の中も向こうも全く見えないほどの水量でも影響なく喫茶店もレストランも営業していたし案内されたレストランの食事は絶対にひとりなら立ち寄らないようなお洒落な店で大変真っ当にデートをして満足して帰った。
うん、今日も恋人をできていたことだろう。



○ ○ ○ ○ ○



これが父親の気持ちだろうか、とその子を見るたび、思うようになってきた。
その子はメリュジーヌに拾われた。言葉を話す乳飲み子はたいそう不気味に思われていたらしく、捨てた親は刑罰が重くなっても子どもを引き取るのを拒否すると裁判で公言した。哀れと言える状況に、だが民衆は同情し、とうの赤子ははもう嫌だと明確に言葉を使いこなしながら泣きわめき、メリュジーヌは迷いなく赤子を抱き上げて笑いかけた。その仕草だけで引き取るべきなのは拾い主だろうと言葉もなく決まり、意思疎通に困らない赤子の世話は人間を育てることに慣れていないメリュジーヌたちにとってはただただ便利なもので、不気味だなどと言うものはいなかった。
そうしてすくすく育つ子どもを見守り、「母親」としての役割に使命感を持つメリュジーヌたちに懐き、当たり前のように私にも懐くその子にはよく遊びに誘われたものだ。遊びというか勉学というか、そういったものばかりだったけれども。
泣くことの少なくなった彼女は学業に励み、「母親たち」のために将来を定め、友人が出来たと話すようにすらなった。異性の話題も出るようになり、思うところは成長の実感である。

「寂しいですねえ」

訪れた彼女のための家での会話も以前と比べるまでもなく引き出しが多く、あの村の観光とはいかなくとも特産品は作るべきだとか、収益で村近くの道を舗装すれば母親のためになるだろうだとか、考えて温めていたらしいことを矢継ぎ早に告げては意見を求められる。時折学友との思い出が語られ、成長が見える。今などは特産品の試作を作るからとばたばた元気に材料を取りに倉庫へと向かっていったばかりだ。メリュジーヌの建てる建造物は人間には少し足りないものが多く、必要になるたびに増築したのでこういった事態にしばしば陥りがちだ。
だが半休程度の日程だ、移動時間を考えると長居はできずすぐに席を外すことになったあたりで、舗装の話は有益かもしれないと納得した。その子の話しは数カ月分きっちりと溜め込んでいたように解き放たれるのでいつも時間が足りなくなり、帰る頃には半泣きにさせてしまう。
それに、若い意見を聞けるのは刺激になり好ましいことだ。機会がある限りは通っているが、だが、その中に男の話題が増えて、悲しさとも違う感情に苛まれていれば彼女の上の発言だ。成程これが巣立ちする娘を持った父親の気持ちだろうかと噛みしめる。

「寂しいな……」
「人間の成長はあっという間ね。心の変化も、体の変化も瞬く間ですわ」
「…………」
「たくさん楽しいことをして、うーんと楽しく過ごしてもらって、お別れのときまでいっぱい笑っていて欲しいわね」
「…………」
「お母さん、雨!雨が降ってきました!鉢植え仕舞ってきますね!」

大きい木箱を抱えて肩や頭を濡らしたその子は、玄関に木箱を落としてまた忙しく扉から出ていく。あまりに必死な様子に微笑ましくなっていれば「雨やんだ!」と素早く戻ったその子がいくつかの鉢植えを玄関に並べてキッチンへと赴き手を洗い鍋を準備する。

「すまないが、そろそろ戻らなければならない。顔を見るだけだったからな。充分だ」
「え……」

こちらまで悲しくなるような声にその子へ手招きし、おずおずと寄ってきた小さな少女を抱き締めて頭頂へ唇を落とした。最初は見様見真似だったこの行為も、繰り返し繰り返し少女へ送ればその意味を理解した。

「また来る。その時にでも食べさせてくれないか」
「……はい。日持ちの問題もその間に解決しますね。ヌヴィレットさんのまた、は遠いですし」
「……出来る限り近くに、予定を建てておこう」
「はい。じゃあ今日から研究をはじめます」
「無理な睡眠時間の短縮は図らないように」
「ちゃーんとお母さんが見張りますからね、ふふ」
「うぅ……」

まだ不満げな、前回訪れたときから確実に成長した少女を、もう一度抱きしめれば細くか弱い腕も回されて抱きしめ返される。言いようのない多福感で満たされてから、警備ついでに帰省していたメリュジーヌも回収しながら帰るため重い腰を上げた。


後に「人間とずっと一緒に居たいなら恋人かお嫁さんにすればいいじゃない」と言い出すのはこの場に居なかったメリュジーヌである。
その視点はなかったと大いに盛り上がり、気付くころにはすべてお膳立てがなされ、彼女たちの優秀さに眉間の皺を深めたのはこの五年後、その子を少女と法的には表記せずとも良くなった頃のことである。


○ 。 ○ 。。○



「ヌヴィレットさんは私を抱けますか?」

細かな情報が必要な裁判が重なり、残業後に会うとなるとあまりに遅くなることから休憩ついでに執務室へ招いた彼女にそう問われ、ふむと吟味する。
年若いとはいえ成人女性だ。若気の至りと言うには彼女は精神も成熟しており、気の迷いという線も薄い。そして現在の我々の関係性は双方合意での付き合いをしている、ならば法的に何も問題はない。

「抱けるだろう」
「そうですか。安心しました。あ、時間ですね。それじゃあ」
「送らせよう」
「大丈夫です、お母さんと買い物の約束してたんです」

いつも通り柔和な笑顔を絶やさない彼女を玄関口まで見送り、すぐに非番の警備のメリュジーヌと合流する後ろ姿が見えなくなってから、ついでに言うなら彼女が振り返って手を振らなくなってから執務室へと戻り、資料の仕分けをするため書類に目を戻す。
上滑りする。内容が水に浮かべた油のごとく馴染まず入ってこず、数度同じ行を読んでから諦めて目を離した。
抱く、とは。生殖行為のことだと理解しているが、人間のコミュニケーションの一環としても、また犯罪になりうるほどに執着心を生むものでもある、ありふれている上に危険な行為である。出来る出来ないという二択であれば「出来る」が、するかどうかで問われたのならもう少し熟考して答えていただろうが今回のものは判別が難しい。いやどうだろうか。今でさえどうするべきなのか判断がつかない。裁判なら揺れる天秤を眺めていれば結論は自然と出るというのにこんなにも繊細な議論に判決など簡単に下せるだろうか。
ふー、と細く長く深呼吸し、この問題は保留にすると己に言い聞かせてからもう一度裁判資料へと目を落とす。今度は内容を理解できたが、心の中にはどうしてもあの言葉が鎮座していた。



「下着を新調したんです。服を見ていたらお店の方が選んでくれて……日本のとは違くて着方が分からなかったから、えへへ、今、可愛いの付けてるんですよ」
「化粧品のことがあんまり分からなくて、でも最近は色々試していて触り心地が良くなったんですよ。お母さんたちほどではないですけど。ほら」
「うぅ……ヌヴィレットさんと食べるご飯、美味しくて、ほら、ここ太っちゃって」
「あの、ヌヴィレットさんのご自宅、いってみたいなー、なんて、あの」

ここ最近の彼女の言動を振り返り、それらは予兆であったのだと気付いたのは案件の区切りが付き少しは時間に余裕ができてからだ。
ここ数日は本当に忙しく、歌劇場と執務室を往復するだけのような日々だったものだから彼女との時間を大きく取れた日は少ない。それでもこまめに顔を出してくれた彼女をもてなす時間も取れず、彼女が話すのをただ聴いていたような日々であった。
寂しい思いもさせたであろう。
ようやく出来た夕方からの自由時間に、彼女が喜ぶであろう手料理を振る舞うための材料を買い込みながら彼女の言動を振り返る。
こちらの生活に合わせて短時間でも訪れてくれていたのには感謝している。いい気分転換になったし効率も上がっただろうし、共律官たちすら休憩の目安にしていて連帯感からか休憩後は作業に勢いがあった。そのお陰で今日は何時もよりもさらに早い時間に自宅へと戻れることになり、彼女が訪れる前の準備を細々とする時間も多くとれた上で最近の彼女の言動を鑑みている。
今の案件が落ち着いてから何がしたいかと思いつくままに言い連ね、そのうちどちらかの家でゆっくり過ごそうと
ささやかな目標を立て、上のような会話があり私の私室へと招くことになったのだ。
フリーナ殿が住居に様々なものを求めたために、私の私室までも広く豪奢になっていると話せば是非見てみたいと話していたのを思い出し、メリュジーヌたちの背丈に合わせた生活をしている彼女からみればすべてが大きく見えるだろうかと反応を想像して微笑ましくなる。なってから抱く抱かないのやり取りへと思考は戻り、ぐるぐると答えがまとまらないまま約束していた時間になり、着飾って花まで抱えた彼女を部屋に迎えて中を案内し食事をして他愛ない話を夜更けまでして彼女を自宅まで送ってひとりで帰宅した。
期待しすぎたのだろうか、と嘲笑しながらひとりベッドに横たわり、全て新調した寝具の匂いに包まれ就寝する直前、これがひとりの女性に執心する男の心境かとほんの少し見識を深めた心地になった。




。 ゜○  ○ 。




私たちメリュジーヌは貴女の家族、すべてのメリュジーヌは貴女を否定しないし見捨てることもない、母親というまたとない機会を楽しませて。
私がようやく自分の足で歩けるようになったとき、村に集まれるだけ集まったメリュジーヌたちがそう宣言してくれた。
泣きながら全員に抱きついて名前を復唱し、多すぎて諦めて「お母さんたち!」と呼んだならさざめくように笑って認めてもらえた。みんながお母さんなんだと実感し、感情の箍が外れたように泣いてしまえばみんなが落ち着くまで待ってくれて、頼っていいんだ、と気楽になった。
村にはヌヴィレット様も来ていて、泣いたしもみくちゃに撫でられたしでぐちゃぐちゃの私の前に跪いて「私も出来得る限り君の味方として振る舞おう」と言ってくれて、けれどもお父さんと呼ぶにはあまりに若くて、私のような面倒な子どもはあまり寄りかかってはいけないだろうと思った。だから「はい、ヌヴィレットさま」と返事したのだけれどもその途端に悲しそうな顔をされてしまって、咄嗟に「ヌヴィレットさん」と言い直した。

「あら、お父さんじゃないのね」
「うん。やだ」
「……そうか」
「ヌヴィレットさん、も、ありがとう。私みたいなのを捨てないでくれて、ありがとう」

礼を言えなくなることもある、と前世で知ってしまったから、嬉しかったことは伝えたかった。
まだ少し悲しそうな顔をしていたヌヴィレットさんにそう告げる。すぐさまとても優しく抱きしめられたので、そのお顔を覗くことは叶わなかったけれど、その日からちょっと前向きになれたし、たくさん頼ったし、頼られるように頑張ろうという目標も出来た。
まぁ若く見えるだけで相当に年上だということに気付いたのは数年後だったし、綺麗な男の人を「お父さん」と呼ぶのはどちらにしろ気が引けた。だから今まで呼び方は「ヌヴィレットさん」で統一していたのだけれども。



「この間観た舞台で、恋人たちがお互いを愛称で呼んでいたんです」

テラス席での談笑中、ふと思い出しフリーナ様の新作の、と言えばあれかと納得したように彼も頷く。
街に住むと娯楽が多くて驚いたものだ。背丈が小さな頃はメリュジーヌの村で暮らしていたから、私の記憶頼みの遊びだとかを流行らせたりしていたけれども、そういうのとは当然別物である。本は取り寄せられても舞台は観に行かなければいけないし、機械のダンスなんてものまであって本当にこの世界は馴染みのないものと知らないもので溢れている。
ヌヴィレットさんも舞台は好きらしく、あれは観たか、これは良かったと予定が合わなくて一緒に行けなかったものも教えてくれるほどだ。別の日に観るのも同じ日に観るのも沢山話すことが出来るので楽しんでいる。
それはともかく、先日感銘を受けたテンプレートのような恋人たちがあれやこれやとお家騒動に巻き込まれる喜劇で、観ているこちらが恥ずかしくなるようなやりとりの多いそれにピンと来たのである。私たちもそんなことしてみたらどうだろうかと。

「ヌヴィレット様、かヌヴィレットさん、としか呼んだことありませんし、呼ぶとしたらなにかなって」

ふむ、と紅茶のカップ(中は水)を持ち上げたヌヴィレットさんが一口飲む間で思考を巡らせ、ソーサーに戻す頃に「君はどうなんだ」と問う。まあ話題を振っておいてあだ名の提案を強要するのもあれだったか。
ケーキを一口に切りながら、ううん、と考え無しだった発言について深く考える。やっぱりあの舞台のように恋人らしくおちゃらけた呼び名がいいのだろうか。冷静になったら絶対恥ずかしくなるような。第三者が呆れ返るほどが今の状況には丁度いいくらいだろう。

「えーと、ヌヴィ……ヌン……レット……」

少し肩を揺らして、無言で笑っているらしい彼の反応を楽しみつつ、口にしやすいものをもごもご探す。「様」も推しに言ったりはしていたし愛称の部類だろうけど、以前呼んだときの悲しげな視線を思い出してしまうので却下である。「さん」も「くん」もなんとなく代わり映えしないし、ならば。

「ヌったゃ」

きりっとポーズを決めながら、甘ったるい声を意識してしっかり彼を見つめながら言ってみる。隣と後ろの席から盛大に咳き込む声が聞こえたので、インパクトは充分あるだろう。基本様呼びの環境ならこんな呼び方をする不敬な人間など恋人以外にいるだろうか。いやいない。今の私はヌヴィレットさんの恋人である。
当の本人はといえばお母さんたちを見つめるような微笑ましい感じで緩んで私を見つめている。攻撃力に自信はあったけれども通らなかったようだ。

「では私はダーリンか」
「あ、なんかずるいです」
「ハニー、甘茶、シュガーシロップの君、それと……」
「甘い水シリーズもずるいです」
「独創性という点では君の要望に添えているとは思うのだが」

結局ああいうのは浮かれた脳で結論付けなければ意味がないだろうとふたりで冷静に分析し、たまにするヌーちゃん呼びだとかだけが生き残った。
お父さんと呼ぶ日があるのかないのか、ちょっと恋人らしい角度から考えてみたことは黙秘する。子育てとかはまぁ、恋人同士のうちはちょっと早いというか保留というか想像できないというか。



 ゜ ○。 ○ ○。




「やあやあいらっしゃい!キミが噂の最高審判官の恋人だね!」
「はい、ヌーくんの恋人をやらせてもらっています!」
「あはは、こんな日が来るだなんて思わなかったよ!今日の謁見は僕と彼の間で長く、長く語り継がれることだろう!」

いやいやそんなと日本由来の相槌を繰り出しながら、手土産のケーキと今回の謁見の目的の一つをテーブルに並べる。
フリーナ殿が君に会いたいそうだ、なんてヌヴィレットさんに切り出された日はそりゃあもう驚いたものだ。日本では神様は確かに身近なのだったけれどもこの世界では触れ合えるし会話もできるしさらに身近だ。参拝ならぬ謁見では一対一で話せるし、あと可愛い。親しみのある可愛さで謁見の予約は埋まっていると聞いていたし恐れ多いという認識もあって予約すらしたことがなかったけれど、まさか恋人経由で神様に呼び出される日が来るとは思わなかった。
堅苦しいものではないし茶会のようなものだ、と教えられていたとおり雰囲気は軽く、ヌヴィレットさんおすすめの店のケーキを取り出せば歓声が一度、手土産を開ければもう一度上がる。

「うわあ、なんだいこれ!」
「水まんじゅうとフルーツ大福です。お母さ……メリュジーヌの手の柔らかさを再現しています。さあ、どうぞ、ふにっといってください」
「わあ……え、やわらかい……」
「食べれます」
「罪深すぎないかいキミ……」

これを売って村に貢献したくて、と相談内容を早速話せばもきゅもきゅと頷いていただけ、水神の口添えという最強の後ろ盾を手に入れた。最高審判官の恋人という肩書はあれどもそれで生菓子を売れるかどうかというのは微妙なところだと踏んでいて、落とすなら甘党と名高い水神様だろうと狙っていたのだ。くらえ私の異世界知識。日持ちだけは叶えられなかったけれど。シリカゲル欲しい。
販路やら特許については後日詰めて口添えは任せ給えと言質をいただき、心配と目的のなくなったお茶会はとてもゆるやかな空気だ。初対面の神様は噂どおりに親しみやすく、けれども尊大に私が暮らす村の様子や街の様子を訊ねては昔との差異を補足するように教えてくれる。私の出自について、ヌヴィレットさんから聞いたのだろう。

「さてさて、喉も温まってきた頃だろう。そろそろ僕の本題に入っても?」
「なんでもお申し付けください喜んで」
「そ、そうかい、いやキミって僕の熱狂的な部類のファンとちょっと雰囲気似てるんだよな……」

いや違くてと身振り手振りも交えて仕切り直そうとするフリーナ様に癒やされながら、メリュジーヌイメージ白玉もそっと提出する。こっちはお母さんよりもちもちしているため納得はいかないが、見た目は自信作なので一応持ってきていたのだ。フォンタに沈めれば可愛いし美味しい。
はわはわカップを眺めてくれるフリーナ様に持ってきてよかったとほわほわしながら、和菓子お好きかなぁと次回に持ってくるものを考えた。そろそろ稲妻に武者修行に行きたいくらいだけれど遠恋はなぁ……。今鎖国してたと思うしなぁ……。

「うぅ……これに歯を立てるなんて残酷すぎる……じゃない、ヌヴィレットとはどうなんだい?」
「週に三日は会いますよ」
「そうだね、新聞に載るから嫌でも僕の目にも入っているよ。まあそうなんだけどそうじゃなくて、彼って公平とか平等が口癖じゃないか」
「あぁ、なるほど」

こうして恋人になった現在、顔見知りから友人、はたまた初対面の人々によく質問されるようになったものだ。馴れ初めにデートプラン、ヌヴィレットさんはどのように口説くのかとかそういう具体的な話を求められる。
街なかではお母さんとともに「あれは川をどんぶらこと流れていたときのこと」とか「あのケーキの隠し味を求め、ヌっぴと私はアマゾンへと向かったのだ」とかで煙に巻いて逃げてきて、当人とのデート中は良くゲリラ豪雨の水柱から悲鳴を聞いて……いやこれは違う案件か。
ともかくは恋人と公言して振る舞っているつもりでも、公平を重んじる彼から特別扱いをされていないのではないか、という心配をちょくちょくされてしまう。幼いを通り越して赤ちゃんの頃から接点を持っている私としてはある意味特別扱いされている気持ちでいるけれど、外から見るとそうでもないようなのだ。手を繋いで歩いたりしてるけど足りないのだろうか。

「恋人として平均的なことはしているつもりですが……」
「なんだいその平均って。舞台のようにとは言わないけれど、ほら、もっとあるだろう!キミしか独占できないヌヴィレットだと言うのなら僕だって譲歩するさ、けれどからかってやれるほど浮足立ったりしていないんだからつまらないよ」
「……あのお菓子、ヌヴィレットさんも監修をしているんですよ。肌触りとか柔らかさとか」
「それは共同開発じゃないか、もう!」

足を尊大に組み替え、後回しにしていたケーキを綺麗な手付きで一口大に切りながらふぅとため息をついたフリーナ様が一口頬張りふぅと悩ましげに吐息を落とす。買ってよかったホテルの限定ケーキ。そして物憂げに会話が再開される。

「恋をしているのなら、さ、ほんの少し浮いて移動するくらい浮かれて欲しいんだ。役割があるから一般人みたいな恋愛は無理でも、歌劇や小説みたいな恋愛ならできるかもしれないだろう?今現在しているというのなら、浮かれて馬鹿をして喜劇にならなければいけない」
「まぁ、浮かれて仕事を出来なくなるヌヴィレットさんの想像は出来ませんね……」
「出来ないね……」
「あと喜劇なら、歌ってステップを踏んで帰ったりしますよね」

んぐ、と紅茶を変なところに入れてしまったらしい水神様は咳を堪え、斜め上のあたりを必死に見つめながら息を止めて笑いの波を受け流そうとしていらっしゃる。我慢なんてせずに笑ってしまえばいいのにと寂しくなり「スキップならあり得るでしょうか」とちょっと思ったことを追加した。そっと俯いたフリーナ様は耐えきって無言で足元を眺めている。

「……ンンッ!ともかく、君がヌヴィレットの恋人だというのなら、君の言動でヌヴィレットを喜劇の舞台にあげられるんじゃないかって話をしたくてね」
「私は……」

前の人生を覚えている。死に際も覚えていれば、この世界に産まれた瞬間の喪失感も覚えていて、産みの親に捨てられる絶望感も、メリュジーヌに抱き上げられた安心感も、額に当たるヌヴィレットさんの唇の幸福感も覚えている。
それらは全部私にとって特別で、今こうして水神様と恋バナみたいなのをしているのだって特別で、ヌヴィレットさんと手を繋いで帰る帰路も特別に幸せだ。喜劇らしさがなくとも幸せだ。
手元の紅茶を眺め、言葉を探して、目を上げればフリーナ様は私を静かに見つめていた。

「……私は充分浮かれているので、ヌヴィレットさんが浮かれなくても、浮かれても、スキップが下手でも構わないんです」
「ンフッ……んんっ!充分喜劇に観えることを言わないでおくれよ」
「私は喜劇みたいな恋に向いてないのでしょうね」

組んだ脚をぱっと下ろしたフリーナ様は、詰め寄るように身を乗り出して「そんなことは言っちゃいけないよ」と否定してくれる。
けれども、平々凡々と生きていた前世の性格がこちらで変わるはずもなく、喜劇も悲劇も好きだけれどもその役には相応しくないから楽しく観れているのだ。降りかからない他人事だから面白いし自分に都合よく共感して泣くことが出来る。
俯いたならフリーナ様に笑い飛ばされ、顔を上げればポンポンと頭を撫でられる。いつの間にかテーブルに乗り出す状態からお隣へと移動を済ませていたらしい。神様にご足労いただいて大丈夫なんだろうか。たいそう楽しそうだから大丈夫か。

「キミたちはとても真剣に恋していたんだね。ならハッピーエンドにしかならないさ」
「それだけじゃ、物足りないのではないでしょうか?」
「考えてみてくれたまえよ、古い知人の恋バナだよ?」
「……一番楽しいですね……!」
「そうだろう!」

神様は恋をするのだろうかと、楽しそうに美味しそうに紅茶を傾ける彼女にそう思う。最高審判官が恋すべきなら神様だって舞台のように恋をするべきかもしれないし、そういうものとは無縁かもしれないし、お互いに話せたのなら一番楽しいことだろうと思うけれども。
謁見が終了し迎えに来てくれたヌヴィレットさんの、開かれた腕の中に収納されるように飛び込めば、フリーナ様は「心配とかいらなかったかもしれない」と呟いていたのが気になったので次回に訊こうかと思う。新作は一番にフリーナ様に献上するのが決まったので、私は神様とのつてをがっつりと手に入れたわけである。



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一晩、彼と共に過ごした。
形だけの恋人でも気分だけの役割でも構わないと思っていたけれど、抱き締めてもらえたらどうでもよくなった。
考えすぎてたのかもしれないな、と笑って、すべて受け入れられた。受け入れてもらえたし、知らなかった彼を一晩でたくさん知れて、
今は全力で逃げている。

「お、お母さん、わたし、どうしよう」
「大丈夫よ。今シグウィンがくるからね。あの子は人間に詳しいし医者だもの。大丈夫」

前世でも体験したことのないだるさにベッドで体を見分すれば、ひと目で腹が膨れているのが分かるほどに盛り上がっていて、恥ずかしさや眠さなんかは一瞬で吹き飛んで彼の部屋を出た。出てしまった。彼に部屋に誘われたのが嬉しくてお洒落な服を着ていったから装飾とかボタンが多くて、ただ頭から被ったような格好で下へと向かえば警備のお母さんに会えて、思わず泣いてしまえば彼女たちが警備の控室へと匿ってくれた。
しゃがんでいてもお腹が張っているのが分かるし、まるで妊娠したかのようなそれに感情がまとまらず、警備控室のティッシュを使い尽くしそうなほどに泣いていても事態は変わらず、部屋に残した彼のことだとか自分の体の変化だとかを答えも出ないのに考え続けていればシグウィンお母さんが来てくれて、お母さんたち独特の「観る」診察をしてもらう。

「まあ、交配したのね貴女たち」

きゃっと軽やかにだいぶ恥ずかしいことを見抜かれて、復活してきた羞恥心に一旦退かしていた毛布をまた被る。その程度でお母さんたちから逃げられるはずもなく、下からペイッと容赦なく毛布は捲られ膨らんだお腹をもふもふぐいぐいと触診された。

「わ、わたし、大丈夫?病気じゃない?妊娠してるの?」
「大丈夫。安心してね。ヌヴィレット様ったらとても嬉しかったのね」
「ヌヴィレットさん……」

あまりに慌てて飛び出したから、何も言わずにここにいる。
どうしよう、どうしようと混乱するばっかりで、お腹の出た私は彼にますますつりあわないかもしれないとか、子どもが出来たとして結婚を迫らなければならないのだろうかとか、一晩でここまで変わるなんて病気だったらどうしようと移したらどうしよう面倒がられたらどうしようと良い想像が出来るはずもなく、またどうしようと呟きながら体を小さくしようとして、お腹が苦しくなって正座にとどめる。私の心境を助長するかのように激しい雷雨らしい天候が窓から聞こえている。

「お母さん、どうしよう、どうしたらいいかな」
「あらあら、嫌だったのかな。それとも怖かった?」
「違うの、この体、嫌われないかな、面倒かな、捨てられるかな」
「まあ!どうしてそんなこと言うのよ!」
「だってぇ」

視界は塞いだままだったけれども触診は終わったらしく全身を毛布で覆われ、その状態でお母さんたちがさらに集まってこの状況を伝言しているのが聞こえる。思ったよりもたくさんのお母さんが様子を見に来てくれたようで、申し訳無さと嬉しさとわけ分からなさで涙が出てきた。むしろ耐えたほうじゃないだろうか。

「ヌヴィレットさん、に、嫌われたらどうしよう」
「一番怖いのはそれなのね?あら、ふふふふ」
「お母さぁ……」
「ごめんなさい、あはは、それはないもの」
「それより君、嫌われたくないなんて初めて言ったね」

そうかな、と思ってから、そうかも、と思い直す。
何しろ喋る赤ちゃんだったし、そのくせ共通の話題を持たない人間だったし、捨てられないよう、役に立てるよう頑張ってきた。可愛げなんてない子どもだから迷惑はかけないように。手間をかけさせてられないから最小限で済むように事前に要るものだとかは早めにおねだりして、私にできることなら何でもできるように勉強して。
要らないって言わないで。
捨てないで。
縋らないから。
縋らないようにするから。
したかったのに。

「恋人やめたら迷惑掛かっちゃうかな……」
「どうしてやめるの?君はヌヴィレット様のことが嫌いなの?」
「嫌いじゃないよぉ……」
「うーん、難しいのね、恋人って」
「でも面白いわよ?」
「そうね」
「んー!」
「こらこら拗ねないの」

バタバタと雨が窓を打つ音を聴きながら、どう言って別れたら彼の功績に跡を残さないか考える。体が重くてだるくて、涙が滲んで頭まで重くて、そもそもこのお腹じゃあ外にすら出れないことに気付いてしまった。駆け出さなくてよかった。どんな記事が書かれていたかと思うとお母さんへの恩がすごい。

「貴女、ヌヴィレット様とお話したらどうかしら?」
「んー……」
「ヌヴィレット様はきっと……いいえ、直接お顔を見て話していらっしゃい、ね?」
「大丈夫。君のお母さんはたくさんいるんだから、味方もたーくさんだよ」
「あ、勝てますね大抵のことは」
「でっしょー?ほら、お話しに戻りましょうよ、付いていてあげようか?」

どうにか立ち上がり服を着て、寒いでしょうと毛布をぐるぐると巻かれたりギュウギュウとハグで送り出されてようやく医務室のドアを開けたらすぐに視界が真っ暗になった。
お母さんのハグとは違う、頭も肩もギュウギュウと重く締め付けられる感覚にヌヴィレットさんだと理解しつつよろければ当たり前に支えられ、心の準備が整う前の対面に少し動揺した。いや顔見えないけれど。

「無事か、怪我は、体調は」
「ウチたちが付いてたから大丈夫。それより、そんなに近かったらその子も喋れないわよ?」
「すまない」

もう一度すまない、と聞いたこともないような感情的な声で謝られて、毛布から掘り起こすように顔を探られて面会する。
いつものヌヴィレットさんだ。
部屋から出たヌヴィレットさんはきっちりと服を着て、身だしなみも整っていて、けれども声は動揺していて掴まれた肩は痛いくらいだ。昨日も知らなかった顔ばかり見たけれど、今日もこんなに違うヌヴィレットさんが見られるとは。
謝らないで欲しくて声を出そうとして、涙が先に出てしまう。彼の目が見開かれて戸惑うのがよく見えて、ますます混乱してきた。困らせたくなくて部屋を出たつもりだったのに、どうにもなにもうまくいかない。

「嫌だったのか」
「ちがいます」
「辛かったか」
「いえ、あの、ちがくて」
「すまないが私は君に言ってもらわないと何も分からない」

ほたほた落ちてしまう涙を悲痛そうに指で拭われながら、言葉を探すうちにも「なにか足りなかっただろうか、それとも無理をさせただろうか、マナーに反することをしただろうか」と口を挟む隙もなく質問を重ねられる。
一晩過ごした相手が部屋を飛び出したことに怒ってはいないんだな、というのは理解した。寧ろお母さんたちの前で昨晩の詳細な反省までも始まりそうで、お腹を庇うように毛布を抑えていた手を離してヌヴィレットさんの手に重ねる。寝起きとは思えない冷たさに心が痛む。

「わたし、捨てられるのが怖くて」
「捨てない」
「えっと、あの、理由があるのですが」
「別れないことを前提条件に聞いてもいいだろうか」
「や、えー……」

はい、と渋々頷けばうむと頷き返され、今度は髪を梳きながら話を促される。なんとなく腑に落ちないままその手を私の腹まで引っ張って、思いきり膨らんでいるところを撫でてもらった。
毛布と服の上からでも分かるほどの膨らみだ。昨日とは全く違うものだ。嫌われる前に去れればきっと丸く収まったそれに、捨てない、と言い切ってはくれた彼がどういった反応をするのだろうかと恐る恐る下ろしていた顔を上げて、困った。
真っ赤だった。
昨晩は暗かったしいっぱいいっぱいではあったけれども何度も顔は見ていて、それよりも明らかに赤かった。
それをどう受け止めるべきか分からなくて見つめていれば、私の手ごと腹に当てていた手が私の手も一緒に持ち上げられ、両手で捧げ持つように包まれた。

「すまない」
「別れますか」
「いや、違う、私のせいだろう」
「いえ、私は大丈夫です、お母さんとお菓子に囲まれて暮らせれば大丈夫です」
「違う。違うんだ。私が君から離れたくないと思ったのが原因だ」
「はあ……」
「あの時間を永く共に過ごせればと思っただけだったのだが、すまない、まさかこんなにも、」

嫌われてはなさそうで、捨てられそうでもなくて、お母さんの言うとおりお話しが必要、なんだろうとは思う。
握られている手を頼って信じようと決めた。決めてしまえばあとはもう開き直るだけである。前世も含めればもういい歳であるし、図太くなるしかない。

「好きです」

釣り合わないけれど。歳もずいぶん違うみたいだけれど。捨てられないためとか思っているつもりで、ここの生活が好きで離れたくなくて頑張っていただけで。
小さな頃から、たぶん、変わってなかったのだ、この動機は。
すん、と顔がほんのり赤いまま真顔になったヌヴィレットさんに抱き上げられ、膨らんだお腹を抱き抱えるように運ばれ、どうやら彼の部屋に戻ることになったようで少し緊張する。お母さんたちの「いってらっしゃい」の合唱で勇気を貰い、ふと気になって窓の外を覗けば雨も降りつつ晴れ間も見えつつ虹も出ていた。
今の私たちみたいにしっちゃかめっちゃかで、気分も晴れた。
まさか彼の部屋で待ち構えていたのは契約書の山だとは思わなかったけれど。



23.12.18


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