愛しの冬





慣れない寝室や寝具でも眠れるのは旅をする上で当たり前に身についたもので、初めての星の初めての睡眠でも問題なく熟睡できた。知らない家具が多くて壁の素材も床の素材も分からなくて馴染みのない仕事を言い渡されようとも、もう懇切丁寧に世界について教えてくれる相棒が側にいなくともそれはおんなじで、自分という人間性を勝手に振り返って、なんて都合のいい精神なんだろうかと自嘲する。目覚めて最初にすることがそれだなんて随分と虚しい目覚めだ。それは慣れていなくて少し新鮮でもあるかもしれない。
細かな仕事の内容を教えられる約束は今日だ。
気合を入れよう、と柔らかな寝具の中で寝返りを打って、慣れない中にさらに有り得ないことを見つけてしまって体も思考もとまった。
薄くて温かい毛布に、もうひとりが埋もれていた。
この部屋へ入ったときはたしかにひとりだった。鍵が掛けられることも充分に機能を果たしていることも確認してから就寝した。その時も簡素な室内に人影なんてものはなく、旅の相棒がいないから言葉も発さずにベッドに横たわって、どこを訪れたときとも変わりなく眠り込んだ。夢も見ないほどにぐっすりと。
それでも他人が毛布に潜り込んでくればいくらなんでも起きるだろう。いくらこの星が争いごとよりも契約で事を済ませていると言ったって予期できないことくらいあるだろう、とちゃんと構えていた。
だから、有り得ない。
「この星では信じられないことが起こる」だなんて仕事をもらう前に言われていたけれども、それでもまだ信じられない。
盛り上がった毛布の、頭らしいところを摘むようにして捲る。そこから覗く赤毛はさらにありえないほど見覚えのあるもので、息をするのを忘れて見つめる。
赤毛の髪をした青年が「んー……」と微かに唸って目を開ける。少し寒そうに肩を寄せてから、ぱっと目覚めよく瞼を開く。冬の海みたいに白くて青くて深い瞳が私を映す。

「おはよう、相棒」
「……ァ、」

とろりと甘ったるい声を発したその人物から離れるため、ベッドから転がり出て部屋を出る。
背後から心配そうな聞き慣れた声が追う。
息ができない。足が止められない。
それだけ混乱しているのに、たしかに喜んでいる自分もいて、ぐちゃぐちゃな感情のまま何処までも向き室な廊下を駆けた。






「この星はおかしいんだよ」

今日仕事を教わるはずだった職員の男はそう言って、複雑そうな機械に触れては板に固定した紙に何か書き込んでいく。仕事の説明と並列してこの状況を説明され、情緒は追いつかないままに事態の理解をしようと努力した。担当者の隣に若い女性が膝を抱えて座り込んでいるのも説得力に貢献している。手入れもされていない長い髪と、サイズのあっていない衣服と、暴力でも受けたかのように縮こまる姿がどうにも現実味がなく痛々しい。

「到着までに外は見たね。この基地意外、この星は海だ。陸地のようなものもあるがほぼ海底にあるものしかない。基地の基礎は地盤に固定されている。この星の生命体はひとつだけで、ひとつではない、海の中に複数の自我が溶けているようなものだ、というのが我々の見解だ」
「海が宇宙人?」
「そう。肉体も脳も個も持たない存在とのコミュニケーションまたは交渉が我々の仕事だ」

ガチン、と重い機器が動く音がして、下がるようにとの指示を受けて数歩引く。全身に響くけたたましい音の後に舟のようなロケットが噴射し、基地の外へと放たれ、小さな窓からそれを観察した。ここへ送られて来るときに乗ったものに近いけれども用途は随分違うようだ。

「知っているだろうが、基本的に我々のコミュニケーションは言葉で行う。が、あの海には何が通じるのかわからない。だから電波を観測する機械を送り込んでは壊れるまで監視する。前回のものは一週間もったよ」
「成果は?」
「母星の海と同じだ。引き潮と満潮があるように、電波が押し付けられる時期とほぼない時期がある。それだけわかっただけでも賞を取れるさ」
「会話はできた?」
「できない。そのかわりに送られて来るのがこれだ」

また別の、波でも写しているような計器の窓を眺めながら、男が床に座り込む女性をペンで指し示す。それへと目を向ければ「妻だ。自殺した」と感情を潰したような声で補足された。
その女性は上司の男よりも随分と若そうで、疲れたように覇気がなくて、けれどもそばにいるのが当然のように男の足元にくたりと座り込んでいる。異常に思えるこの状況も、彼らからしたらいつものことなのかもしれない。
昨日はそばに誰もいなかったと思ったけれど、いや、それを質問するには男との関係が浅いなと口を閉じる。

「やつらは俺たちの脳の波を感知する。勝手に脳を覗き込んでは一番反応の良い事象を引っ張り出し、形にして、そばに作る。そうしてわざと大きな波を作っては観察する。どうやっているのかは知らないが常に情報は渡っていると思っていい」
「それが、私がするべきコミュニケーション?」
「そう、俺たちの仕事だ。だがたまに精神がやられてもたないやつがいる。その補填がお前だよ。……任期さえ終われば解放されるんだがな。あれは海からそう離れられない」
「……まだ、信じられない」
「だから事前に説明するのは諦めてたよ。あれは寝ているうちに記憶を覗く。寝て起きたら隣に何がいた?」

その言葉に今朝のことを連想し、それでもまだ信じられずに「生きてるようにしか見えなかったし、本人にしか見えなかった」と反論なのかなんなのかわからない言葉を男にぶつけた。
作業をすることで自分を保っているらしい男が「殺しても帰ってくる。何度でも」としたことがあるように言うので、戸惑って黙って窓を見た。
私の常識では海は青く重いもので、窓の外のそれは桃色や紫に色を代えてはうねっていた。
素性も明かさない人間をこんな閉鎖的な職場に送るなんて、と不思議に思っていたけれど、なるほどあらゆる刺激を試したかったのかと納得した。もしも私がここの人を皆殺しにしたとして、おそらくあまり困らないのだろう。また補填され、私が海へと投げられて終わりといったところか。
異星との交流。そんな仕事が存在するのかと、神と会話して戦ったこともあるくせにそんなことはしたことがなかったもので、素性を問わないなんていうので参加してみれば二日目からこの有様だ。
仕事の上司である男は何やら機械から出てきた紙の印刷を見て「波長が現れたな。お前の刺激は意味がある」と初めて褒めるような言葉をもらした。抑揚もなく淡々と。

「我々はあれらをお客さんと呼んでいる。ひとりにつきひとりが作られる。この海の真ん中の基地にいる限りは逃げ場はない、任期まで覚悟しろ」
「……今まで、お客さんを通して海と会話出来たことは?」
「ない。お客さんは俺たちの脳内の人物を真似ているだけだ。海に刺激を伝えるだけで一方通行の擬態をしているだけらしい。言語のような波長を待っているが……」
「辛くない?」
「自殺した妻との生活が?」
「……ごめん」
「ああ、すまない、俺も少し疲れているな」

なんにも動じなさそうな上司の、ようやく滲んだ感情は苛立ちだった。
こんな基地に好んで残るような人物だから割り切っているとつい考えてしまったけれど、そんなことはなかったようだ。当たり前だろう、私だって裸足で私室から逃げ出してこんな作業場で人の邪魔をすることによって平静を装っている。
戻らなくては、と思う。
すべて置いてきてしまった。少ない荷物もあの人影も。仕事を手伝うための道具すらも手元にないから、戻らなければいけない。
立ち去るために立ち上がったけれど、社交辞令以上の言葉が探せずに足が重くて動かせない。

「…………」
「遠ざけても、補給船に乗せても、海に還してもお客さんは戻ってくるよ」

びくり、と彼のそばの彼女が怯えるように男を見上げている。
したことがあるひとの声だった。だから、本当のことなんだろう。この星で起こることがすべてがでたらめな妄想でもない限りは。
色々教えてくれてありがとう、と手を振ってみせてから、計測室のドアを潜り素早く閉めた。と、直ぐ側に立つ人影につい武器を手で探して、この世界では武器の携帯がそうそう気軽にできることではないのだと思い出す。

「ああ、やっと出てきた。抱っこと靴を履くの、どっちにする?」
「……アヤックス、外で待ってたの?」
「事情も知らずに話題に入れはしないよ。不利益なことを口走ったら困るだろ?」

廊下の壁に寄りかかっていた、見慣れない作業服のようなツナギを着たタルタリヤから靴を受け取って履けば、日常のように「残念、抱っこしてどこまででも歩いたのに」と笑う。あまりに日常生活らしくて「やめてよ恥ずかしい」といつかのいつものように返せば軽い笑い声で会話を締められた。
基地は名前の堅さのとおりに飾り気がなく無機質でごちゃごちゃしていて、明かりをとるためか観察のためか大きな窓が目を引いた。昼は息も出来ない暑さと夜は凍えて身動きが出来なくなるような寒さから見事に遮断しながら海を覗かせている。
荒れている、と言えるのか、落ち着いているのか、緩やかに大きな波が持ち上がっては沈んでいく。何も知らなければきっときれいなだけの風景だ。太陽も月も出ていて明るすぎるけれど。

要は、何処でもよかった。
忘れられるようなところなら尚よかった。
前の星でのしでかしを、どうしようもない後悔を、そんなものを置いてきてしまえばまっさらになって楽になれるんだと信じていた。
どこにいたって、何年経ったって寂しくて辛いのはどうしようもないのだと知っていたのにどうにかしないとつらすぎた。

「タルタリヤ、聞いてたよね」

馴染みのある「海」よりも粘度のあるうねりを眺めながら、歩き慣れないつるりとした廊下を進む。ここに着いて二日、あの星を出てからまだ一月だというのにもう石畳が恋しい。

「貴方、私と別れた日のことを覚えてる?」
「覚えてるよ。別れたんじゃなくて死に別れだろ?」
「その服どうしたの?」
「部屋にあったのを借りたよ。裸で迎えて欲しかった?」
「武器は?」
「持ってないよ。急に襲わないから大丈夫、安心してくれるかい」

無我夢中で駆けた廊下は長く感じたけれど、ただ円形の建物の外周を要領悪く走っただけだったようだ。今回は短く済んでしまった。
見覚えのある扉が思いの外早く目に入り、ドアノブに手を掛けて躊躇してから後ろを見る。当たり前のように斜め後ろに並んで立っているタルタリヤは「ん?」と私を見返し、何も警戒していないようだった。こんな滅茶苦茶な状況なのに。いや、滅茶苦茶だからこそ、少し楽しんでいるかもしれない。そういうひとだった。

「どうして生きてるの」
「どうしてだろうね。殺してみるかい?」
「……死体は残るのか、訊いておけばよかった」

カラカラ笑うタルタリヤに、毒気が抜かれていく気がする。
そうだった、いつもそう。重いことも軽いことも変わらずに、公私も簡単に混ぜてぐちゃぐちゃにして楽しいを抽出して遊ぶようなひとだった。愛してると言いながら刃を向けて、もう嫌だと言いながら簡単そうに書類を片付けて、一緒に暮らそうと誘っておいて毎日のように殺し合いをして。
それが幸せだった。
兄の居ない寂しさもぐちゃぐちゃにかき混ぜて、楽しいねとお互いの怪我をお互いに手当して、そんな滅茶苦茶な生活で心の底から笑えていた。

「さっき部屋を検分したけど変わった建物だ。警備は甘いみたいだね。それにしても、はは、目が覚めたときは驚いたよ、君がすごい顔してふかふかのベッドで寝てたんだから」
「……潰されなくて良かったよ」
「寝相のことまだ根に持ってたのか」

タルタリヤが遠慮なく部屋のベッドに座るので、備え付けのロッカーの近くに置いていた頼りない折り畳みの椅子に落ち着いた。自分の横をポンポンと叩き何かを主張するタルタリヤをとりあえずは放置するとして、渡された仕事の資料へと目を通す。

「なあ、相棒、暇じゃないか」
「私は暇じゃない」
「ふーん。俺は暇なんだけど」
「基地を見てきたら?」
「んー……」

煮えきらない返答に流石に思うところでもあるのだろうと、ここへ着いたときに渡された資料からやるべきことをまとめていく。まあ、基地で起こる現象や他職員の実験の記録や補佐くらいしか門外漢に出来ることはないし、それも書類にしっかり書かれているのはわかっているけども。
ここに記されていた基地での現象とは、この「お客さん」のことだろう。曖昧にぼかされた資料では何をしたらいいのかわからなかったけれど、今ならわかる。
この星の生命体は、基地から出られない私達を除けば海のみだ。虫も鳥も人間も魚も神も観測されていない。唯一の存在で、『死者の人形』を作るこの海を神としないのなら、だけれど。
目の前の彼は海が勝手に私の記憶から作ったもので、この星でしか存在できないのだろう。しかも母星と言える星ではこの情報は秘匿されているらしかった。持ち帰れない、海から離れられない、人の形をしているし会話もできるけれども何を考えてるのかわからない。何かしらを考えているのかもわからない。海から生まれたものがどんな意味があるのかもわからない。どうして記憶から人間だけを抽出して再現しているのかもわからないまま、研究は百年以上も続いている。
もう一度上司に話を訊くべきだろうと判断して、立ち上がり仕事の資料を抱えて部屋から出ようとする。当たり前のように立ち上がったタルタリヤが付いてこようとしたので、振り向きざまに素早く扉を閉めた。同じくらいの労力で勢いよく開けられた。

「…………」
「…………やー、相棒から離れたくないなー、なーんて」
「邪魔しない?」
「むしろ交渉は得意だ」
「喧嘩を売るのもね」

別行動なんてむしろ進んでしていたタルタリヤが、焦るように付いてくるのに「別人」という言葉が頭をちらついて、振り払うように足を進める。当たり前のようにすぐ後ろには彼がいる。

「アヤックス」

振り向きざまに手を後ろに伸ばせば、当たり前のように小指だけ繋げたタルタリヤがくっつくかくっつかないかくらいの邪魔とも思える距離で歩いてついてくる。
前と同じだ。一緒に過ごしていたとき、お互いに手は空けておきたくて、それでも触れていたくてああだこうだと模索して生まれた、子どもの遊びみたいな距離感。
これが偽物なら、私の記憶はどこまで読まれたんだろう。
怒りなのか嫉妬なのか不快感なのかわからないもので腸を煮え繰り返していれば、いつもと変わらない彼が「お、一戦やっとく?」なんて本気の冗談を零すのに呆れ半分に笑って返す。悔しいことに力が抜けた。
仕事で訪ねるついでに殴ってしまいそうなので、とりあえず今度は生活の基盤を確かめるため、基地内をぐるりとゆっくり散歩することにした。昨日はこの星に来るまでに疲れてしまったし、星の周り方も大きさも違くとも夜と指定されている時間だったので照明は落とされ窓は布で覆われてあまり観察できていなかった。そういえば食事もまだしていない。パイモンがいないと忘れがちになることに苦笑いしていれば、タルタリヤも同じような考えに至ったようで「おチビちゃんの代わりになるくらいは食べれないけど」なんて前置きをしてから食事を促してきた。
食事は配給制、頼めば機械が指定した部屋まで運んでもくれる、研究職が多いために朝昼晩の鐘だけに気を使えば時間は自由、仕事を優先するならそれはそれで、みたいにさっぱりした話を上司以外の同僚を訪ねて訊いて、ついでに食事を済ませてしまえば結構な時間になる。人工物の割には広い施設だけれど、ここ以外に行けるところがないとなると狭く感じるような、一周しての感想はそんなものだ。食事はまだ舌に馴染んでいないからか美味しいのか不味いのかも分からなかったけれども、タルタリヤは匂いを嗅いでからそっとテーブルに戻していたので感想を求めるのは諦める。
ここで過ごすのなら「お客さん」が必ずついて回る、というのは本当だったようで、植物の実験をしている女性には小さな男の子が付きまとっていたし基地の整備をしている男性には大柄な女性が付いていて睨まれた。観測を担当する男性にも母親らしいひとが隣で小言をもらしていて、正直職場の空気は悪い。それぞれがそれぞれの空気感で過ごしているといった感覚だ。
ついでに言うとここ数年は研究に進展はなさそうで、停滞しきっているようだった。それも活気に欠ける要因だろう。どんな刺激や変化でも喜ばれるか罵倒されるかの二択になりそうだし暴動になったら困りそうだ。主にタルタリヤを止められるかだとかが。戦闘に不向きそうな人たちばかりだけれど、警備の機械はわからないし。

「暇だねぇ」
「暇だね」

一周りして顔見せを済ませれば、翌日からは本当にやることがない。
資源が限られているから畑も荒らせないし、料理なんてもってのほかだそう。最も重要な『仕事』内容といえば海に新しい刺激を与え続けていればいいのだとか。電流での実験観測は上司の男が随時しているらしいので、指示も特になく本当に暇である。刺激、の内容がわからない限り。いっそ泳いでみようかと思ったりもしたけれど記載された水温が卵を茹でられるくらいだったのですぐに諦めた。そもそも、外気すら呼吸に適さないのだったか。
あてがわれた私室に戻り、前任者の荷物を漁り、間取りが気に入らないと言い出したタルタリヤと一緒に寝具と棚を動かして、扉から戸棚を挟んで死角に置き直したベッドで出てきた資料を見るともなしに捲っていれば会話の内容が「暇」一色になる。資料は面白い内容でこの星と人類の戦いが熱く語られていたけれど、それは最初だけでここ十年ほどははもう単調だった。法律も愛の言葉も冗談も罵詈雑言も通じないものとの交流は、もう不必要なのではないかと思える程に無害で無意味で無味だった。お客さんというかたちで死者が語りかけてくること以外は。

「相棒、運動用の空間あったと思うんだけど」
「だめ」
「武器もないし組み手だけだよ?」
「だめ」
「どうして?」
「どうしても」

上司から渡された資料と前任者の資料と日記を読み終われば、思い出話もそこそこにタルタリヤがそわそわと落ち着きなくベッドでのたくる。その仕草の懐かしさに頬を緩めてしまったなら彼も笑い、ねぇねぇと横たわったまま私の膝に寄ってきて勝手に乗って腹へ手を回して落ち着いてしまった。死角に全部寄せたら椅子とベッドが近くなったのは便利だと思っていたけれど、こうなると少し後悔する。重い暑いと文句を言ってもタルタリヤがこうなってはてこでも動かないやつだ。
あぁ、どうして、ここまで『彼』なんだろう。
彼は死んだのに。こうして五体満足で、そのしなやかな腕で私を囲って、柔らかく息をして声帯をゆらして強請る。温かくて、ふたりきりには当たり前の距離で、彼だとしか思えない『これ』は調査対象で私の理解の及ばない生命体なのだ。
「試しに殺せばいい」と虚ろに提案した同僚のひとりを思い出し、同僚の足元に転がっていた人形みたいに出血のない人間を思い出す。
分厚い日記から手を離し、やわらかくてあたたかい額に手のひらを置けば、目尻を下げたタルタリヤが「んふふ」と声を漏らす。満足はしていないようだけれどとりあえず機嫌はよくなったようだ。
同じだ。あのとき死んだあの人と。

「まだ、殺すのが嫌なのかい」

微睡むように目を瞑ったタルタリヤが食事のメニューのように軽く訊ねる。
あの星で過ごした記憶が引きずるように思い出されて、言葉に詰まった。
兄と旅している間もたくさんの星で暮らしてきた。たくさんの人と関わって、親密になって、別れてまた別の星に渡った。愛着があっても旅しているのだからと割り切っていて、あの星で兄と別れてしまってからはあんまりに寂しくて、人との関わりがいつもよりも深くて、みんな自分の生活もあるのに協力してくれたし巻き込んでしまうこともあったしそれでも悲しかったし寂しかったし楽しくて。たくさんの感情を知った。
恋人というものも、他人と暮らすということも、初めての体験だった。
愛情深くて凶暴で触れ合いが好きで、一緒に遊ぼうと誘われるとどういう意味か訊ねなきゃいけなくて、寝るばかりに帰ってくる日がお互いにあっても絶対にキスをするなんて取り決めを

「やめて!」

あぁ、上司の言っていた海との対話とはこういうことか。
思い出そうとしていないのに引き出される記憶に声を上げれば、驚いたタルタリヤが起き上がってこちらを覗いてくる。それすらもそういう意図に思え立ち上がって距離を取れば、両手を上げた彼がベッドの端までずりずりと引いた。
頭の中を勝手に再生させるような気持ち悪さはなくなったけれど、記憶を掻き回されるような不快感はどうしようもない。
懐かしいのに辛くて、泣きたくないのに目頭が熱くて、息もしたくないのに胸が勝手に動く。あぁ、あの星にいた頃となにもわからない。逃げてきたのに変われない、目の前にいる彼のせいで変われない。

「俺が原因だね?」

『お客さん』だという自覚はあるのかないのか、あぁなるほどとなにか納得したタルタリヤがおもむろにナイフを取り出した。
ちょっとした整備用のものだ。切れ味は良くても長さがない。武器としては使えないななんて話していたのに、くすねていたのか。いや、それより、どうしてそんな使いどころがないナイフを喉元に当てているのか。

「アヤ―――」
「大丈夫、蛍には殺させないよ」

目を見つめて、口説くみたいに囁いたアヤックスは刃先を喉へ押し込んだ。
短い刃で的確に急所を裂いていく。
血は出ない。
そのまま元素力でも切れた人形みたいに倒れた彼は動かない。刺さったナイフごとぴくりとも動かない。
きっと触れたらまだあたたかいだろうに。
また死んでしまった。
彼が死んでしまった。今度は目の前で死んでしまった。呆気なく。戦わずに。それなのに満足そうに。五体が揃って、千切れてなくて、ちょっとの傷だけのきれいなままの体を残して。



















一緒に暮らして結婚ごっこなんて呼び方の生活をしている間、アヤックスはよく手合わせを強請ってきた。
家事の交代を強請られたり賭けたりしたこともあったし、どこへ出掛けるか決めるのにだけ拳を交わしたこともあった。なんとなく手合わせもしたしお互いが楽しいからだとか、新しい武器を振るってみたいからだとか、生活の一部みたいに戦っていたし武器も日常的に使っていた。怪我だってお互いにしていたし仕事でも負ったけれども、壺に、家に帰ればそんな些細なことは忘れた。
お互いが好きなことをしているだけだった。刃を合わせれば合わせるだけ分かりあえていくと思えていた。
肌を重ねていたら、急に刃を向けられなくなった。
家族みたいに愛おしくて、柔らかい背中も固い手足もたくさん触れて、触れられて、同じ手で殺し合うことが急に出来なくなった。
私だけが、駄目だった。タルタリヤの愛情と戦闘は一緒の感情だったのに、私はそうじゃなかった。
命に関わるところを狙えなくなった。
手足に、皮膚に刃が食い込むだけで手が動かなくなった。
アヤックスはすぐに気付いて、無理はしなくていいよ、とすぐに真剣を使った手合わせをやめた。その代わりに私達の家に帰らないことが増えて、帰ってきたら生傷が増えていって、それなのに家での態度は全く変わらなかった。
その時に気付いてしまった。私は降格したんだと。
恋人だったし愛してると言いあって嘘でもなかったけれど、命を預けるものとしてはみられなくなったんだろう。
きっと彼の期待に沿えなかった。愛し合うのは出来ていたのに、殺す人としてはいられなかった。
愛し合ってはいたけれど、彼は私の知らないところで死んでしまった。体だって、彼の実家へと送られて私は一目も会えなくて、墓に行けたことさえない。ただ、酷かったとだけ誰かに教えてもらった。
家にも帰れなくなって、何処へ行ったって辛くて、しばらくあちこちを旅してからひとりで星を出た。

目が覚めれば夢の続きのように慣れない自室だ。
夢だと分かっていたけれど、目が覚めてから思い出させられたんだろうと分かって怒りが湧き上がる。前の世界のように海獣みたいなものがいればあんな広大な生き物でも攻撃できただろうに。爆弾を落としたなんて馬鹿みたいな調査記録を読んだかぎりは数ヶ月で凪いだとあったけれど、身のうちに暴れる巨獣があるなら多少はダメージを負わせられるかもしれない。
タルタリヤなんかは面白がって、あれを倒す方法を一緒に考えてくれそうだ。そんな連想をしたら少しは気が収まった。
起き上がって最初に、寝る前に隅へと避けていたタルタリヤの死体へ目を向ける。いやあれは死体とも言えないようなものだった。ただ形を人間に寄せた何かのようだった。残念ながら血以外のものは揃っていたようだったけれど。
目隠しに包んだ布と紐だけがべちゃりと落ちており、中身が無くなっているらしいことに罪悪感と安心を味わって、隣にまた温もりを感じて気楽に視線を落としてすぐさま後悔した。
ふわふわの赤毛、上下する肩、こどもみたいなあどけないやわらかい寝顔。うつ伏せで僅かにこちらに傾けられていた顔がふと曇り、眉を少し寄せてから冬の海がゆっくりと現れてこちらへ向けられ、とろりと瞼が歪む。

「おはよう、相棒」
「……おはようタルタリヤ」

そういえば初日は口も開かずに部屋を出たっけ。
ものすごく久しぶりの挨拶は、そうとは思わせずするりと唇から滑り落ちた。
ついでに毛布を一気に捲れば、タルタリヤは全裸だった。キャーだとか騒ぐので毛布を頭から被せてから遺体のあった場所からツナギを引っ張り出してベッドの上に投げる。それが毛布の膨らみの中に吸い込まれていくのを確認して、包んでいた布を畳んだ。元から作業で床を汚さないためのものらしいそれには無理に解いた跡も血痕も昨日のタルタリヤの痕跡も何もなかった。

「あー……今何時だい?」
「朝の六時くらい。外は関係なく暗いけど」
「ふうん。ふぁー……よく寝た気がする」
「…………」

自分で自分を刺した記憶はあるのか、言動からは図れなくて、訊くのも嫌で迷ってやめた。
記録を読んでも同僚に訊いても、この星についてはあまりに不確定なことが多すぎる。外の海はどうやら少し荒れていて、潮騒は遮断されていても微かな揺れを基地にもたらしていて気分が悪いし、それが昨晩のあれが原因であるかもしれないと思うと不快だ。
何を知りたいんだろう、あの海は。
ただ模範するものは生きていると言えるのだろうか。
ただ揺れているあれは生きているのだろうか。
お客さんを通して私を見て、何を知れるというのだろうか。
そもそもあれは本当ににんげんを知りたいなんて意思があるのだろうか、ただ真似てみて、何も考えず、虫でも蠢いているのをただただ意味なく観察していたとしたら、私は、私達がここで神経を削られながら働く意味は、

ぺちん、と頬をとても軽く挟むように叩かれて、全く痛くないそれにぱちぱち瞬きをしていれば寒々とした色の目が私を見つめる。

「よっし、朝食を食べに行こうか。ドレスコードはないだろうね?」
「……強いて言うなら働きやすい服、かな」
「それなら合格だ」

頬の感触を確かめてひと撫でしてから離された手は、急かすように私の指を握った。その手は私の記憶のままに少し冷たくてたこが多くて固い。
それでも生き物の温かさがある。意思を持って力加減をして私の腕を引いている。
海から産まれた偽物なだって、分かっていて、胸が潰れそうなほどに懐かしい。
体が彼はアヤックスだと分かってしまった。疑っていたつもりもなかったし否定していたつもりもなかったのにそう思ってしまった。
愛してると心を込めて言ってそれきりだった、愛してるなら最期まで選ばせてくれればよかった、私を残した、そんな貴方の手だった。

「……アヤックス、」
「どうかした、蛍」
「ごめんなさい、私、私はあなたを殺せなくて、」
「泣かないで、ほら、腹が膨らめば大体のことは落ち着くさ」
「妹扱いしないで、」
「ははは、久しぶりに聞いたな、蛍のその言葉」

笑うアヤックスの背中に顔を押し付けるようにして、そのまま歩いて自室を出た。誰かに会ったらなんて思ったけれども別にいいかとすぐに思い直す。ここにいるひとは皆、お客さんのこと以外はどうでもいいと思っているだろうし。昨日一通り訊きまわったときの感覚では確実にそうだった。
相変わらず食事をしないアヤックスに見守られながら、たいして美味しくもない出来合いと野菜の汁を腹に入れて、それから上司にいくつか報告をしてからひとつ頼み事をして、それが明日以降に進めるしかないと分かってからはふたりで部屋に戻ってふたりで過ごした。
窓から見た海はひたすらにうねり、暴れ、基地へと波が叩きつけられてはひいていった。新しい玩具でも与えられた子どものような荒れ方だった。



剣が欲しい、と上司に訊いてみたら見たこともないほど怪訝な顔をして「何故」と訊き返されて、きっと私がこの星に来たのはこのためだからと説得すれば上司のお客さんの『彼女』が朗らかにお茶を運びながら「なら必要ね」と言ってくれたので、それらが得意そうな基地を維持する人員へと無事に連絡がついた。刃は潰して、形状も展示物にあるようなものしか作れないだろうと言われたけれども充分だと礼を言えば、またすごい顔をされた。研いで使うつもりだとはばれていないと思うけれど。

「君はもっと冷静な質だと思っていた」
「相棒はこう見えて売られた喧嘩は倍にして返す質だよ」
「若いわね、この人はもう……あぁ、ごめんなさい、ふふ」

初めて会ったときは怯えきっていた彼女は、まるで住宅地での茶会のようにくつろいで上司の隣に座っている。お茶は四人分出てきたけれど、私と上司しか口をつけなかった。
普通に会話できるし、お客さん同士でも他人のように振る舞っているし、本当にこの星の意思はわからない。わからないからこそ研究が続いているのだろうし私のような異物を送り込んでまで実験しているのだろうけれども、ここまでする意味や見返りなんてあるんだろうかと心配になる。
すべてが無駄になったあの感覚は本当に堪えるから。前の星での経験は、良くも悪くもちらついて離れない。海が離さないのかもしれないし、そういうものなのかもしれない。

「任期があるうちはここから出られない。逃げたければ死ぬしかない。だが同僚の補填はもう飽きた。分かっているな」

上司が窓の外を眺めながら言う。素っ気ない質のひとかと思えばそんな心配するような言葉が出てくるのが不思議で、まぁこんなに狭い基地で武器なんて言い始めたら怪しいのかとタルタリヤに目をやってから納得した。そういえばこの星では暴力よりも法律が強い。私が死んだり、なにか壊したりしたら大量の書類が上司にのしかかるだろう。それはなんとも気の毒だ。

そうして依頼した武器は給金から天引きされて作られ、資材の都合でひとりひとふりずつ、それも手のひらより少しはみ出るくらいのものになったけれども文句は言えない。基地に小さな穴でも空いたら私達の生活は立ち行かなくなるのだと何度も言い方を変えてまで教え込まれたのもあるし、充分戦えるものだと私もタルタリヤも判断したからだ。
運動場兼倉庫の機材を移動して危険がないようにするのに丸一日。そもそも武器が出来上がるのに三日間。その間は海に起こった些細な変化を記すのを手伝って、どうせ生前のように暴れたいのなら記録を細かく採ろうと日時の指定が細かくされて。
ようやく整った空間で、昔みたいに武器を構えて向かい合う。
合図はいらなかった。お互いの呼吸でわかったから。今も大丈夫だった、同時に踏み込めた。
狭いからすぐに打ち合ったナイフから火花が飛んで、カメラで監視している上司からの小言がスピーカーから流れる。中止の命令ではなかったからそのまま打ち合う。斬合う。殴って蹴って肌をぶつけて刃を食い込ませて離れて笑う。笑っていた。
アヤックスが楽しそうに笑っている。
家に居るときはただ穏やかな笑顔だった男が、楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに笑っている。声まで上げて笑いながら私の急所ばかり狙って踏み込んでくる。
あぁ、楽しそう、楽しいな。アヤックスが一番好きなことを知っていたのに出来なくて悔しかったな。
私が殺したかった。私の知らないところで誰かに殺されてほしくなかった。でも殺しちゃったら一緒にいられなくなっちゃうから。そんな些細な迷いで鈍った私を貴方は簡単に諦めちゃったから。
ぐずり、と刃が食い込む感触がする。
アヤックスの刃は私の首に押し付けられていて、私の刃は倒れたアヤックスの胸に刺さっていた。
血は出ない。人にしては脆すぎる。それでもアヤックスだ。
私はアヤックスを殺した。

「蛍」

とても幸せそうな、満たされた笑顔の彼に名前を呼ばれて、肘を付いて顔を近付けた。その瞳に映る私も呆れるほどに満たされた顔をしていて余計に笑える。
頬に走った怪我を撫でてあげる。その瞳から何かが抜けていく。
唇を震わせただけで、言葉もなく、呆気なく彼は死んだ。
あぁ、こういうときは呼び返せばよかったのかと終わってしまってから気付く。
次はそうしよう。
最期の息を唇で受け止めよう。最期に見るのは私の笑顔でいてもらおう。ああ、愛してるって言ったっけ。言ってもらったっけ。分からないから、次こそはそうしよう。
スピーカーの向こうから上司の満足そうな声が聞こえる。ただの波の中に、変化が現れたのだろう。それが言葉なのか意思なのか返答なのかただの時化なのか知らないけれど。








「おはよう、相棒」
「おはようアヤックス」

このやりとりは何回目だろう。少なくとも海が飽きるほどには殺し合ったし、愛し合ったし、ついでに開発部に顔を出して投下する爆発物の威力も異世界の知識で底上げに成功した。
それでもあの海からしたならそれらも見慣れた刺激になったようで、ここ数週間はただの海の満潮くらいしか変化はない。私達の関係はといえば、まあ変化はあった。とても生暖かな変化だ。

「んー……今度はどうする?潰れるまで抱き合う?」
「最低」
「なら武器なしで一日やり合ってみる?」
「最悪」
「じゃあここの誰かをやってみようか?」
「それは新しいね、でもだめ」

停滞期というやつだろうか。年単位で狭い基地内でくっついて生活していれば、否応に得られる刺激は限られて、なんかもういろいろとゆるくなっていっている自覚はある。
仕事のやりがいはそこそこ、殺し合いはまあまあ、肌を重ねるのは上司のお客さんやらと話していて試したことは……まぁ色々あった。海に黙秘権など通用しないのだから恐ろしい。ちょっと波が人型になったり子どもに見せられない形になったりしたのも公式記録として書き残されたのはタルタリヤに馬鹿ほど笑われた。
ともかくはあらゆるものかマンネリ化しており、よくもまあこんなにも変化のない研究を続けられるものだとそこばかりは新鮮な気持ちで人間の思考力を見直した。だからといって生活に変化はないし、ゆるやかに感覚は鈍っていくけれども。
昨日は差し違えそうになったので私は包帯をあちこちに巻いて、彼は無傷の素っ裸のまま毛布にくるまってピロートークの如く緩やかな会話だ。寝起きの上に空腹で頭も回らない。
それでもこの時間は好きで、彼のむき出しの腕に頭を乗せ直して呼吸を深くする。空調は安定しているのに、どこか寒々しい匂いはますます冬のよう。包帯をなぞるタルタリヤは物騒な提案を遠慮しつつまた適当なことを言う。

「一日寝るの?」
「んー……ちょっとだけ」
「ふふ、俺が居ない間はどう寝てたんだい」
「どうとでもなるよ」

ここさえ離れればどうしょうもなく離れてしまうのは貴方だろうに、未練をくすぐるような言葉ばかり選ばれる。ちゅ、ちゅと髪や額、指先に落とされる唇の音に改めて、彼を殺すのは私であろうと心を決めた。
もう後悔したくないのなら、彼を最期に殺すのは私であるために、海だろうが星だろうが神だろうが私が殺そう、と半分眠りかけた頭で決意する。誰かの迷惑とか何かの名誉とか全部知らん顔して殺してしまおう。

「どうとでもなるから、大丈夫、ちゃんとアヤックスを殺すよ。手伝ってね」
「はは、楽しみだ」
「それですっかり忘れて、また恋する」
「それは嫌だ」

叶わない願い事を言ってみれば叶わない我儘が返ってくるものだから笑って、満足して、気合を入れて起き上がる。
彼を殺すために。
冬を抱えたまま、また何処かの星に行くために。
今だけは小指を繋げて肩を触れさせて歩くけれど。



23.11.10


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