あまった夜



思っても馬鹿らしくて言わなかったことが、隣から漏れた。

「このまま乗ってどっか行きたいねぇ」

馬鹿らしい上に現実的じゃなく感傷的すぎる言葉に、どうせ出来ないくせにとヤケ気味に「行ってみるか」と返してみる。
電車の中で、いつもの時間にいつもの路線だ。運悪く座れずに二人して突っ立ったまま、手摺に掴まってゆらゆらと、時折体をぶつけながら無気力に叔母の口から呟かれた言葉だった。
のだけれども、同意した途端にどこだか遠くを見ていた視線はこちらに戻り、目を輝かせて携帯を見る。座れたなら文庫本を取り出すつもりだったけれどもこちらは手持ち無沙汰だ。薄っぺらいそれをぺちぺちと操作する様はこんなにも間抜けに見えるのかと変に感心しながら待っていれば、なにやら言いたいことがまとまったらしい叔母が明確にこちらへと視線を向ける。

「よし、とりあえず終点まで行ってみよっか。チャージ結構あるしあと三十分くらいだし」
「叔母さん、平日の昼間だって忘れた?財布は、家の鍵は?」
「持ったし!……たぶん!いや分かってるし!」
「で、何血迷ってるんだ」
「や、ほら稀によく思うでしょ。このまま終点まで乗って学校のこと忘れたいとか会社に行きたくないとか会社爆発しろとか」
「最後のは叔母さん毎日言ってるだろ」
「やべ、口癖が出た。じゃなくていっそ一回くらい実行してしまいませんかって話なのですよ」
「へえ」
「と言うわけで道連れね」
「俺、学校あるけど」
「ずる休みしようずる休み。ほら保護者が電話するんだからだいじょぶだいじょぶ」

何も大丈夫ではないけれど、先程までの虚ろな表情が嘘のように生き生きとしている。心なしか立ち姿すらも少し正したようだ。そんな叔母の変化を見ていれば、まぁたまにはいいかと少しは考えてしまう。このまま学校に行きたくないとかだるいとかそういう感情も込みの消極的なものだけれども。
でもそれは、今の俺にとって全部必要ないものたちだ。

「俺は学校に行くから叔母さんひとりで行けばいいだろ」
「え、やだよ。ひとりとか寂しいし。ていうかふたりだから勇気が出たというかさぼる元気が出るというか」

一度は同意したんだから期待させた責任は取るべきだよねぇ、となんとも顔で俺に迫る叔母に呆れ、諦め、ある意味社会勉強とか適当な言い訳を自分の中で組み立ててみたりしながら、結局ひとつ頷いてみせた。普段はあまり発揮させない感の良さで了承を読み取った叔母は、つぎの駅で一度降りて休む連絡とおやつと弁当と、と指折りタスクを重ねてにやにや笑っている。俺たちの会話を聞くともなしに聞いていたであろう周りの乗客からの視線はぬるく、けれども好奇も混じっているように見える。彼らからすれば先程までは同士だったものが堂々休んで遊ぶ計画を立てているのだから当たり前か。そんなもの慣れてしまったので痛くも痒くもないが。
目の前で牛タン弁当だとかキャラものはずるいだとか悩み始めている叔母にできる限りくっつき、笑う。
馬鹿馬鹿しい。予定も立てていないし要領も悪いしどうしようもなく穴だらけの計画は、ひとりではけしてやろうとも思わない。

「電話で連絡するなら手伝うよ。どこか抓ってればそれらしい声でるだろ?」
「いいねそれ!よっしゃ任せ……あっ待って本気で痛そう。やっぱり演技力で勝負するから」
「遠慮するなよ。ひとりじゃ出来ないんだろ?」
「えっそんなニュアンスだったっけ。いや違うよね大丈夫ですー私の演技力信じていただければー」
「そこが不安だって言ってるんだろ」

そんなぁ、とすでに有効そうな情けない声の叔母にさらに笑う。駅のホームが滑るように目に入り、電車のスピードが緩まるのを少し楽しく感じた。ああ何ということだ、すっかり毒されてしまった。しかも少し、望む形で。









「うっそぉ……」
「叔母さんって日本の神に嫌われてんの」
「雨女とか……もうちょっとこう……え、そうなのかな……?」

しとしと、なんて生ぬるい降り方ではない、外出を諦める程度には降る雨を前に叔母と途方に暮れる。
平日の午前中だ。見知らぬ土地で地図を睨みながらうろつく俺達は少し目立つ。嘘をついてまで会社と学校を休んだことが負い目にもなっているのか、普段よりも人目が意識されているようだった。そもそも格好が旅行向けではないのだから悪目立ちするのは当たり前だ、その上観光には向かない言い逃れのできないほどの雨。ついているとかついていないだとかの次元ではない気がしてくるというものだ。
わざわざ遠くまで来て、雨のために観光も出来ないし帰りたくとも電車は止まった。駅弁ばかりは希望通りに買えて満足そうだったし実際美味かったけれども。
無計画の旅行では天気予報すら確認しないのも仕方ないのかもしれないが、それにしてもここまで徹底してやることがなくなってしまうとは。

「へへへへ……、電車止まったって。どうしよう美鶴」
「タクシーは」
「冷静ね!でも帰ったらなんかもったいないって言うかさぁ」
「ギャンブルが好きな大人はそう言うんだって聞いたんだけど」
「どこ情報なのそれ」

ぐだぐだと、雨をしのぐためだけに滞在している駅のベンチで相談する。選択肢がろくにないことをお互いに知っていての会話なのでとても中身がない。
定期的に通知の鳴る携帯は主に地図を確認するために使われ、近場の観光スポットで二人が楽しめそうなところを探す。帰る気はさらさらないのだろう。

「もう泊まろうか。電車ないし仕方ないよねーこのお店可愛くない?」
「ここからどれくらいかかるんだよ」
「……そ、そこそこ」
「一泊しないと行けないくらいの距離なんだな?」
「あ、はいそうです。近隣に映画のモデルになった図書館ありますがいかがでしょうか」
「観たい映画あるんだけど」
「やっぱり日帰りじゃ足りなくない?」
「最初からそのつもりだったんだろ」
「そうじゃなくもなくもないというか」
「どっちだよ」
「そんなつもりじゃなかったんです、ほんとに、でも楽しくなってきちゃったよね。ねー?」
「同意を促すな」

雨は止みそうもない、それどころかますます酷くなっていく。移動することすらもままならないほど降るのならこのまま宿に、旅行らしいことができそうなほどましになるのなら叔母が行きたがっている専門店に向かうことをなんとなく話し合って決めてまたベンチから外を眺める。いつまで待つのかも曖昧で、宿だってどこにするか当てもない。なんせ何も考えずに行き着いた知らない街なもので。けれどそれに触れることもなく、やまないねぇ、やまないなぁと無為な会話を続けた。ただただ電車に乗り続けるよりもさらに無意味な時間だ。
ただただ何もないのに感情が揺れやまず、隣を見やれば叔母は見たこともない顔をしていた。
指の背でその顔に触れてみて、やわいそれが笑みを乗せて「なぁに」と弧を描くのを指で追う。

「え、なに、恥ずかしいこれ」
「ここまでくれば知り合い誰もいないよな」
「SNSは舐められんよ、いやほんと」

状況に浮かれている叔母は拒否しながら手を退かさず、頬を噛むように笑う。周りに人影はなく、見渡す限りは知り合いもおらず、この雨の中では余所に意識を向ける酔狂はそれほどまで見当たらない。少なくとも今は。目の前に居ないのなら、気にする必要もないだろう。

「……何もしなくてもいい」
「いやいや、せっかく来たのに」
「誰もいないならここまで来た意味もあるだろ」
「そこまで言うなら仕方ないなぁ」
「そんなに言ってない」
「えー?」

否定も肯定もしないまま、地図を見て、雨を見て、俺を見て、気怠そうに笑う。頬から離した指を彼女の髪に滑らせて様子を見るも、拒否も許容もなく、ただ笑んでいる。まるで逢瀬のようで、ここまで来た価値はこの指先に絡むものであると確信して、ただただそこで過ごした。









「結局雨でなんも出来ないとか……むしろレアでは……?」
「こじつけても徒労なものは徒労だからな」
「スマホも見ずにまる一日過ごしたとか……それってもうリフレッシュでは……?おそらきれい」
「帰りは晴れたなー……」

がたたん、がたたんとやたらと揺れているように感じる電車に揺られ、ふたりでよく眠れたためにうたた寝もできずくだらない話をする。
泊まっただけだ。急な雨に宿を求めるニーズが高まり、同じ部屋で寝ることになってもなにもなく。なにもないことを楽しむように深く話をした、それだけだった。それだけが今までしてこなかったことで、充実感は確かにあるのだけれど、駅弁を抱えて不満げにしている叔母はそうでもないらしい。

「一回家に帰らないとあれだよね、荷物そのまんまじゃ美鶴は困るでしょ」
「叔母さんは一日穿いた下着をそのまま持ち歩いても平気なんだな、そんなやつだなんて知らなかった」
「いやいやそんなこと……あれ、別によくない?ちゃんと密閉してるよ?」
「うわ……」
「あっその顔は傷付く待ってやめてほらデザートあげる」

始発電車は普段の込み方が馬鹿らしくなるほど空いていて、揺れる騒音に紛れさせるような会話は自然と身を寄せ合うようになる。空いていても混んでいても距離は変わらず、沈黙は増えたが心地良い。がたたんと、揺れるたびに触れる肩にも構わず遠くを眺める。憎らしいほどの快晴だ。天気予報ではまる一日もつだとかなんとか。

「あー、遅刻確定だしまた連絡しとかないと……あーあ、反対方向に、また行けることまで行っちゃおうか」

それならいっそ、誰も何も知らない、なにもわからない場所に二人で行ってしまって、全部捨てて全部消してしまおうか。ワイドショーを見るような視線も、哀れむ視線も、咎める視線も監視する声もないところを探そうか。
そんな感情を噛み潰し、吐息に少しだけは本音を練り込んで「ばぁか」と嘲笑う。非道いと笑われておわる。
少し沈黙があって、ひそめた声で彼女が「じゃあちょっと特別なことをしようよ」と耳打ちしてきた。

「ケーキでも食べてから行こ」
「ハンバーガー」
「うっ……間食じゃねぇ……仕方ないなー」
「付き合ってやるのは俺だけど」
「ぐえぇ……」

知らず下がっていた目線が上がる。盗み見た彼女の顔は明るい。
何もなかった夜を忘れないように、そっとまぶたで覆い隠す。肩を叩かれ目を開ければ、見慣れた叔母が寝ないでよと笑う。仕方ないので諦めて、なんにもならない会話をして呆れてみせた。
あんな夜でも、終わるのはやたらと惜しい。



20.07.07


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