月火水木金木犀

会ったこともないのに、たくさんの噂を聞いていた人だった。事実が隠れるくらいに聞いていた彼の印象とはかけ離れ、とても近くにいる彼は噂みたいに生ごみの匂いなんてしなくて。むしろ品のいい嗅いだこともない香水の匂いがしたし、外套からは上等な素材と古い紙の匂いがした。
がしゃがしゃと大袈裟なくらいに大きな音を立てて割れる植木鉢の雪崩が落ち着いたころに、抱きしめるように私をかばっていた彼が離れる。季節を問わずかっちりと着込んでいるという噂は本当だったようで、それだけに私の代わりに被った土埃で綺麗だった汚れてしまったという意罪悪感が沸く。礼を言おうと少し長身の彼を見上げながら口を開いて、それよりも先に彼が声を発するのが早かった。

「ああ、クリスティーヌ」





「いや誰だよ」
「私もそう思った」
「で、リツカはどうしたんだよ」
「お礼言って、警察に通報して、ついでに連絡先ゲットだぜ」
「うーん我が妹ながら不可解ぃー」

我が兄ながら失礼な反応だったため、目の前の弁当からそっと卵焼きを抜き取った。お返しとばかりに私の弁当箱から消えるエビグラタンのエビに、負けじとイチゴを奪う。そんな……と一気に絶望顔になる彼の手元に、そっと第三者の手からブドウが差し入れされた。この部屋の主、保険医のロマニだ。なんとなく申し訳ない気持ちになったので、そちらのコンビニ弁当にそっとプチトマトを差し入れる。スーパーの弁当にカットフルーツを合わせて買う彼の女子力に若干の嫉妬もあるのでハート形のピンが刺さっているやつだ。

「せんせー、おにいちゃんが年甲斐もなく妹をいびってきます」
「リツカちゃんも双子だから年甲斐ないよね、はい両成敗ー」
「理不尽に教員から弁当のデザートを盗まれたー教育委員会に訴えてやるー」
「そもそも教育委員会ってどこですか、先生」
「訴えられるの分かってるのに教えないからね!」

昼休みの混雑も収まった保健室の片隅はゆるゆると話しながら昼食を食べるのにとても向いている、との認識ばかりは似ていないと定評の兄と合っていたもので、進級してクラスが変わってからはこうして近況報告をするようにしていた。黙認してくれる甘い教師に、今日は休んでいるけれども私たちに懐いてくれている可愛い後輩、大体はその四人で食べるのが日課だ。そして親にはなんとなく聞かれたくない話だって出来てしまうのだ。
例えば、恋バナだとか。

「ねえロマン、この学校にクリスティーヌって子いるかな」
「うーん確かいないと思うけど……そもそも、最近は個人情報がね」
「とりあえず検索掛けてみたんだけどオペラとかしか引っかかんなかったんだよね。その人と私そんなに似てはなかったし」
「でも有名だよね、洋館のファントムさん。都市伝説かと思ってたけど」

もごもご食べながら話す兄に頷き、女の子である私はそんなことできないので大人しく口の中の塩味のきいたしょっぱいリンゴを咀嚼しながら都市伝説じみた噂を反芻する。洋館としか言いようのない立派な家に籠る通称ファントムさん、本名は誰も知らない。いつも顔を隠す時代錯誤な格好に仮面を被っていて歌うように話すけれども、誰も何を言っているのか分からない。確かにそれはクリスティーヌ的なもので実証済みだ。そもそもが滅多に洋館から出てこなくて、同居人が人間らしい細々したことを代行しているだとか実はロボットだとかマネキンだとか殺人鬼が顔を剥がして潜伏しているだとか大昔に怪我したとか不死身の怪物だとか途中からはただの化け物の紹介だ。当てにならなそうだけれどもそれくらいしか知らないのだ。

「だからクリスティーヌって誰だよー」
「脈絡皆無なままなんですけどこの妹どうしようロマン」
「それより、そろそろ怪我人とか病人来るかもしれないから健康優良児達は元気に外駆け回ろうねー」
「先生胸が痛いです。これが、恋……!」
「先生頭が痛いです」
「僕にはどうすることも出来ないから運動して脳の切り替えをお勧めするしかないかな」
「真面目かよ……」

その後しっかりと追い出され、ドクターに言われたとおりに食後に友人も交えての本気の鬼ごっこをしたけれども、ちょっとばかりスリルは多めで気分の切り替えには向いていたはずなのに思考の切り替えには失敗したようで午後からの授業内容なんていつも以上に頭に入らずにファントムさんのことばかりを考えてしまう。
口元と目が隠れきれずに狂気を滲ませていた、仮面を付けた顔。私なんかを庇ったばかりに乱れた体温を伝えてこないきっちりしたスーツ。ゆらゆら定まらない瞳。ふと合った視線と同時に、最愛の人が腕に飛び込んできたみたいにとろけた生身の顔の半分。恋人にでも呼びかけるような陶酔した声。
私を助けてくれたのは私のことを「クリスティーヌ」だなんて認識する前だったはずで、そこには善意か良心めいたものが少しばかりはあっての行為だと思うのだけれども何とかお礼を告げるころには私は彼の「クリスティーヌ」だった。何か知らないけれども。

「気になるっていうだけで関わるのはお勧めできないからね、君たちはただの学生で、その人は大人で、いろんな手段をもって犯罪に巻き込もうとしてくるかもしれない。そのことを頭に入れておくように」

ドクターからの終始まっとうな意見を腹に据え、けれども自分ではどうすることも出来ずに彼の噂を探る。
夜にならないと会えない、これは今朝会ったのがイレギュラーなのかそんな噂は嘘なのか、それと彼は若い女性以外もクリスティーヌと呼ぶだとか。これは要検討の噂だ。兄あたりを利用して確認したい。
今朝貰った連絡先に送ったメッセージは返答も反応もない。さてこの現状でもう一度会うには、しかも安全に兄もドクターも納得の状況はどういうものだろうかとうんうん考えて、ついでに鬼ごっこリベンジもはさみ脳に血を巡らせながら考えたけれどもどうにもいい案は浮かばなかった。ゆっくりお風呂でも考えてとにかくは寝るかという深夜の諦めの境地で、「お休み、クリスティーヌ」の一言だけが届いていたのを見つけてしまってからはただただ諦められないという自分の感情に気付くという成果は上がった、その代わりにもちろん眠れなくなった。



同じ場所で再会できる保証はないし、夜云々の噂を信じるのなら時間だってそうそう被らないはずだ。電話がだめならメールを待つこのご時世、返信が来なければ適当なスタンプを送り付けてアピールするくらいしか思いつかない。こちらの文面にもスタンプにも関係なく「おはようクリスティーヌ」と「おやすみクリスティーヌ」だけは欠かさず来るものだから完全無視ではなくて、だからこそちょっと望みがあるんじゃないかなんて思ってしまう。望みってなんだよ不純異性交流かよなんて兄に言われてしまって、そうかもと適当に相槌を打ったら翌日エミヤ先輩が特攻してきたりともかくは忙しくて。
迷惑かもしれない、そう思ってスタンプの量も減らして真面目に悩んでいれば、おはようとお休みのみだった彼からお休みの後にポロンと、初期設定のスタンプが送られてきて、ああ無理だなとしっかり理解した。
私はこの人が気になって仕方がない。直接お礼を言いたいのですが、と、返信を望む文面を初めて出した。

出会った場所の近くの喫茶店なんてちょっとときめく場所を指定され、画面ではともかく目を合わせての会話、と言ってもただ単にエミヤ先輩のおすすめ焼き菓子を手渡しただけだけれども、ともかく確かに意思の疎通が図れた。会話らしい会話は出来なかったけどお菓子を手渡して、ありがとうとちゃんと伝えられて彼は私を視界に収めて笑っていた。私の呼び方はクリスティーヌでしかなかったけれどなんかもう個人名じゃなくてあなたとか彼女とか三人称じみたものなんだろうと都合よく解釈してしまえば気にならない。洋菓子も好きだし血が主食だったり人間だったりしないしストレートティー派だし、音楽の話になれば止まらないからいろいろ訊いていればどうやらそっちで生計を立てていることもなんとなく知れたし、全く会話ができないわけでもないし何も怖くないじゃないか、と思う。視線は合う時と合わないときがあって、本当に私と話しているだろうかと不安になったりもして、でも視線が合わないからと言って困ることもないと気づけばなんてことはなく開き直ってからはむしろ少しずつ合うようになった。たぶん新種のツンデレ的なものだろう。
また会ってもいいですか、メールを送ってもいいですか、一緒に行ってみたいところがあるんですがいいですか。どれも難解ながらちゃんと返答がもらえて、仮面の下からころころと変わる顔色が言葉だけからは窺えない彼の心の内を教えてくれる。歌うみたいな話し方は分かりづらくとも伝えたいことはなんとなくわかる。もしかしてやたらと広い交友関係で築いた対人スキルが役に立っているのかもしれないけれどもともかく会話も成り立っている。変人という噂はどうしようもないほどに事実だったけれど、それをいったら交友関係がすでに立派に変人だらけだ。そんな奴らと仲がいいのはあんたも変人だからよと冷静な評価をくれた友人のことは置いておくとして。

「というわけで、今日も遊ぶ約束してるんだよねー」
「妹よ……なぜそんなに無謀なんだ……」
「藤丸くんお兄ちゃんでしょう、ついて行ってあげなさい」
「先輩、私なら妹が心配でついてくる兄弟という世間的によく思われない点を突破し、なおかつ自然に監視できますが」
「マシュにそんな危険なことさせらんねえよなー強いのは知ってるけどー!」
「いやデートに来ないでよ言わせんなよ恥ずかしいな」
「それ以前の問題があるんだよなあ」

今日は四人でお昼だ、という喜びとうっかりマシュという後輩が加わってくれていることで口が軽いわ言いたかったことではあるわさらさらと経緯を話してしまった。当然好意的な反応はもらえず、先輩が選んだ方なら、いやでもと可愛い後輩はスプーンを握ったまま悩みだしてしまった。あーんと言いながら唐揚げを差し出したらもぐもぐと食べたので、ちょっとおもしろい。

「デ、デートをするってことはあちらの方にもそういう、こう、リツカちゃんの好意は伝わっているのかな?」
「噛んだ」
「噛んだね」
「噛みましたねドクター」
「寄ってたかって先生を虐めないでよ今どきの子怖い!それでどうなのかな!」
「私はクリスティーヌになりたいのかってことでしょうかドクター」
「うん?」
「ええと、先輩?」
「ハンバーグおいしい」
「藤丸先輩ー?」

時折、クリスティーヌと呼ばれないことがある。故意なのか呼び間違えか、もしかしたら音楽関係の仕事らしいから語感の問題かもしれない。私の目を見ているのは変わりないから、私は勝手に好意的に解釈している。でもたぶん私はクリスティーヌにはなれないなあとため息をついて、それに「ため息だ!」「思わしげだ!」「恋ですね!」などと謎の推察をされた。そうだよ恋だよ何か悪いか。自覚したのは今だけど。

「それで、遊びに行くとは具体的に何をなさる予定なんでしょうか」
「私のためのボイストレーニング」
「トレーニング?ってことは個室かな、だだだだ駄目だよ不純だ!」
「それはロマンの思考回路が不純じゃない?」
「いやいやいや!だって何かあってからじゃ遅いんだよ!」
「お屋敷のめっちゃガラス張りの部屋でです。なんか上半身に入れ墨すっごいお兄さんとかめっちゃ睨んで唸ってくるわんことか怪しいバーテンのナイスミドルさんとかも冷やかしにくるよー」
「馴染んでんじゃん」
「いやもっと不安になったよね?」
「サングラスを装備すれば馴染めるでしょうか……」





流れるようにシンプルで、綺麗だけれどどこかささくれ立つピアノを聴きながら、手につかなくなった 勉強道具を脇に寄せて日記帳を取り出す。観た映画だとか教えてもらった曲の感想だとかばかりのそれは日記というよりはメモのようなもので、一日ごとに書き込めている文章の長さもばらばらだ。一行で終わっている日も珍しくない。
ぱらぱらめくって一番後ろに行くまではまあある程度のページがあって、いつもなら新しいノートを買う頃だけれどと少し悩む。
彼が作ったのだと、あの屋敷の住人が教えてくれた曲を鼻歌でなぞらえるくらいには日常的に聴いていて、スピーカーからよりも生で浴びるように聴くのがいいなあと考えてペンをとる。

私はたぶん、彼のもとに行く。
恋かなあ、と揺れていた判断は何とも複雑な気持ちになるけれども兄に決定打を与えられ、その後約束通りに訪れた屋敷ではレッスンなんて言っていたのにただただ私が歌ったり喋ったりしただけだった。彼が何でもないように微笑みながら鍵盤に触れ続けていたけれどもさりげなくすごいことだったんじゃないだろうか? 私はといえばクリスティーヌがおだてられるままに歌ってしゃべって、持って行ったお菓子を刺青すごいお兄さんの淹れてくれたお茶でいただいて満足している。クリスティーヌでもいい。彼が笑って話してくれるから。
彼のそばにずっといれば私はずっとクリスティーヌでいられる。本物のクリスティーヌが現れないうちは、私以上のクリスティーヌが現れなければ。
こんなにひどいことばかり考えてしまうのはなんだか恥ずかしいけれど、口に出さないでこうして紙になら許される気がするから書いてしまう。皆で楽しく騒いでいられれば足りてたのに、今じゃ足りない。もっと、もっとそばにいたい。リツカって呼んでくれなくていい。
私がこのノートを残していなくなったなら、私は幸せに暮らしているんだと思います。

ペンを置いて、ノートを閉じて、足元に置いていたボストンバックを覗き込む。修学旅行なんかよりもパンパンに膨らんだそれを眺めて満足した。





「つまり、プロポーズっぽいことを言われて浮かれてこんな日記を書いたと」
「はい」
「それも特殊実習で合宿に入る前日に」
「はい」
「もう、もう食われたか殺されたか標本にでもされたと思ったんだからな!母さんは分かってたのに言わないし!」
「ごめんなさいね、藤ちゃんがあんまり慌てるからつい……」
「わかる」
「リツカ?」
「さーせん」
「ところで藤ちゃん、急に合宿の希望変えたけどどうだったの?目当ての先生と泊まれた?」
「ヴァっ」
「何それ詳しく」
「大学教授のだれだれさんが急病で代わりにいらした方なんでしょ?えーと確か、レオナルなんとかさん?」
「はい特定洗いざらい吐いてもらおうか」
「あーっお母さま困ります、困りますお母さま、あーっ」


19.07.23


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