ハッピーエンドが分からなかった





男女の夫婦が別れる場合、男は女が出ていく直前になっても何にも分からんらしいな。突然悪霊がとり憑いて体を奪ったように、女の意志がまったく反映されてないんじゃないかなんてむしろ心配して俺みたいなのに頼るやつまでいる。そういうのを聞くと男の鈍さを痛感するね。どうしようもないくらい決意を固めて出て行った女の気持ちも汲まないで会って話をすればなんとかなるんだって縋って、本当に会って今までの不満ぜーんぶ言われて悪霊に言わされてるんだって言い訳しやがってまったくみっともない。
ふう、とそこまで捲し立てるように言って、ステアリングと腕の間に埋めた顔を見せることもなく師匠は脱力した。シートベルトを外して助手席から腰を浮かせ彼の肩に触れるけれども温かさは伝わってこなかった。僕の手が冷えて強ばっていたからだった。
男同志だったらどうなんだろな、俺もお前もそういう知り合いも居ねえしなぁ。ついに震えてしまった声が、同意の上ではないことを如実に表していて、それでもきっと僕達は別れなければならないのだろうと思ってしまった。
僕も、彼も、ここで生きていかなければいけないのだから。























おはようございます、と、ぞんざいな挨拶と雑な手つきに揺り起こされ、ゆるゆると意識を浮上させる。粘着く口内と重い体に辟易しながら身を起こし、布団から這い出て俺と同じく寝起きで朦朧としているモブの頭を一通り撫でてから立ち上がった。
顔を洗い気持ちもすっきりさせたところで居間に戻れば、昨日の味噌汁を温め直しながら船を漕ぐ背中がすぐに目に入る。冷蔵庫から年中現役の麦茶を取り出し、グラスなんて華奢なものじゃなくでかくて使い勝手のいいジョッキに景気よく注ぎテーブルの向かいと自分の手前に置く。ちょうどモブが狸色のトーストを真ん中に山のように置いて、味噌汁を念力で置いて席に着くところだ。今日はジャムを取り出す気力はなかったらしい。仕方ないなとこれみよがしに言ってやって、バターとイチゴジャムとハムを手に乗せてテーブルに付く。おお、と常にない感嘆の声を上げたモブはようやっと頭が回ってきたようだ。

「いただきます」
「いただきます」

しっかり手を合わせて同時に言い、同時に味噌汁に手を伸ばす。火を通しすぎて塩っ辛くなった味噌汁だが何となく落ち着くもので、ほうと息をついてからトーストを一枚引っ張り出した。若さあふれるモブとは違い、朝からバターは辛いもので俺はジャムだけだ。

「師匠、今日晴れるみたいですけどどうしますか」
「んー……いいや、夜に下着だけ干そう。でかいのは休みの日でいいだろ」
「僕のTシャツが……」
「あーもうお前筋トレは半裸でしちまえよ。走り込みもジャージだけですりゃいいしすぐ乾くだろ」

不満げにバターだらけの食パンにジャムを落としたモブは、一口齧りつく頃には諸々を忘れたようだ。もごもごと咀嚼する弟子を眺めながら食べ終わった食器をまとめシンクに置く。生ゴミをまとめて昨日集めておいたゴミ袋に突っ込み、玄関に置いてから服を着る。最後に身だしなみを玄関の鏡で確認し、モブに「どうだ」と訊ねつつ腕を広げてみせる。かっこいいです、とぞんざいにだがお褒めの言葉を貰って、革靴を履いてゴミ袋を持った。食事途中だったであろうモブが玄関まで来て背伸びする。

「行ってくる」
「いってらっしゃい、霊幻さん」

以前は考えられなかったほど滑らかに唇同士を合わせ、そんな様子を客観的に見て笑ってしまいながらドアを開ける。
さて今日も頑張るかと、適度に雲の浮かぶ空を眺めながらもう一度背筋を伸ばした。天気予報の通り今日は確かに晴れるらしい。



休日は洗濯をするモブの物音で起きて、未だ柔軟剤を入れるタイミングが掴めない恋人のためにもそもそと起きる。溜まったものやらシーツやらをゴンゴン洗っては干して、干す場所が無くなれば乾燥機に片っ端から突っ込んだ。降水確率だけ確認して、二人折り重なるように転がり昼寝。自然と起き出した時間に余り物をかっ込み、身支度を整えて揃って車に乗り込む。下りたら手を繋ぐ。タイトルとパッケージからは何も読み取れないような映画を借りて、夕食は片付けが面倒だからと外で食べ、帰りに食料を買い込んで車に積んでアパートに二人で帰る。食材を適当に冷蔵庫にぶっ込んで、二人で一緒に風呂に入り一通りふざけてから怠けて万年床になっている布団に並んで入る。布団の中から見る映画は贅沢でよく眠れる。
平日になれば、モブの声に起こされてモブの温めた朝食を食べて出勤する。仕事が終わればモブの「おかえりなさい」に迎えられ、カレーか惣菜かレトルトの夕食を二人で囲む。各々食器を洗ったりだとか風呂を洗ったりだとか当番をこなして、ジャンケンで風呂に入る順番を毎回競う。

取り立てて目立つこともない毎日だ。
たまに外で手を繋いで、家の布団だとか風呂だとかで抱き合って。それが当たり前で何の問題もなくて、モブも当然のように俺の真横で突っ立っている。たまに俺の前でこちらを向いて、たまに俺の腕に肩を触れさせて。まるで絵に書いたような幸せの縮図のような。

「なぁ、モブ」
「なんですか霊幻さん」

俺の隣に並びながら手を繋ぐ、なんて一度に二つのことを同時にできないモブにしては器用なことをこなしながら、こちらを仰いで言葉の続きを待つ。そんなに見つめられたら大抵の人間は気まずくなるものだと何度言っても結局治らず、俺の方がモブの癖に慣れてしまってもうどれくらい経ったのだろうか。
楽しげに父親の足の甲に乗っかって一緒に歩く子ども、悪意もなさそうに談笑する女子高生達、幾人に追い越されても構わずゆっくりと歩く老夫婦、リードもなしに主人の顔を窺いながら側につく中型犬。
人とかでごった返す歩道を歩きながら、モブと繋いだ手を無駄に揺らす。

「お前な、今更だがこんな往来で手を繋いで堂々とするとかめっちゃ強気かよ」
「え、あ、すみません。人、いない方が良かったですか」

そうじゃない、と否定の言葉を吐く前に、混雑していたのが嘘のように人が捌けて犬すらもいなくなる。人がいなくなった事で目に入った陽光はオレンジというよりは真っピンクだ。目に痛い。

「人もいないですし、もう暗くなりますよ」
「まだ人が通るかもしれないだろ」
「そしたら離します」
「いや急に離したってものすごく不自然なポーズになるだけだろ、あれか、アルプス一万尺でもしてたみたいにすんのか」
「さすが師匠、それやりましょう。きっと誤魔化せますよ。師匠童顔だし」
「おうおう、最速を極めてもう新隆とは組めないとクラスの全員に言わしめた俺に付いてこれるのか……ってそうじゃねえよ。それ以前の問題だよ」

ほろ苦い思い出とともに「残像の新隆」というなんかあれな二つ名まで思い出しながら、違うんだよ、と首を振る。
申し訳程度に道をゆくこちらに全く関心を持たない物静かなカップルに越されながら、歩道の真ん中でモブの目を見返す。

「お前、何してるんだ」

こんな、疚しいことをしているだろう奴にしか訊かないような質問をする。
こちらが気まずくなるほどに目を合わせていたモブがゆらりと目をそらし、気まずげに視線を落とした。
急に暮れた夕空、俺達が手を繋いでいても見向きもしない世間、一度疑問に思えばすべてが全て疑わしくなってくる。

「お前、筋トレしてばっかだけど学校はどうした」
「ええ、と」
「相談所の仕事、クレーマーほぼいないしちょっとマッサージするだけで食っていけてる。確かにかなーり楽だが俺はこんなに楽な仕事を選んだつもりはない」
「師匠」
「俺は怒らないから、言え、モブ。な?」
「違うんです、師匠」

向かい合っているのに、肩に手を置いてその震えさえ分かるような近さにいるのに、俯いた弟子兼恋人はうつ向いていて表情が見えない。もとより感情表現のへたくそなモブのことだ。声だけでは気持ちを伝えられないし顔だけでも読みづらい。こうして肩を掴んでいたって、泣いていて震えているのか絶望しているのか怒ってなのかも分からない。どれであっても正直嫌だが、流されるような今の状況のままでいるのはそれ以上に嫌だった。

都合が良すぎる。道端で野郎同士が頭突き合わせて話し込んでいるというのに、訝しむような視線をまったく感じない。二人で住んでいるのだって、何時からかも記憶にない。そんなプロポーズ紛いの分岐点を忘れるはずがないのに。それだけ大きな事柄が、当たり前のように過ぎるここは。

「ここはどこだ」

モブの向こうに見える風景も、俺の後ろに続く風景も見慣れたものだ。通り過ぎる顔だって犬だってなんとなく見覚えのあるものばかりで、だからこそ違和感が付きまとっている。
女子高生が野郎二人の修羅場なんて面白いものを盗撮しない訳がないし、夕日はこんなに長くここを照らさない。ビルが遮るのですぐに暗くなるはずの通りだ。そもそもこの道はこんなに長くない、ゆったり歩いても十分かそこいらの道であるはずなのに手を繋いでどれだけ歩いているのだろう。このままずっと歩いてられたら、なんてしょうもない願い事をした事がないとは言わないが、実際にそんな現象を目の当たりにすると正直恐ろしいばかりだ。いや多少は嬉しいけれどもそうじゃない。
ぴったりと体に沿うようにしていたモブの手が上がって俺の腕に乗る。熱いくらいの手が溺れているかのようにしがみついて、息でも苦しいようにモブが顔をあげる。あんまりに苦しそうな顔なものだから、叱るように目を合わせるのはやめて抱き込んだ。馴染んだ安いシャンプーの匂いとか、鍛えているはずなのに細っこいままの体とか、半分泣いているせいで熱くなった体温だとかそんなゆらぎようのないくらい現実的な感覚があるのに、夕焼けはバカみたいに赤いし沈まない。女子高生もおばちゃんも、おっさんだってこちらのことなんて構わずに談笑しながら道を歩いている。平和すぎた。

「ここ、は」
「俺の脳みそか?それとももっと壮大なやつか。それじゃねえ方が助かるが」
「壮大ですか……?」
「町一個乗っ取ったりな。映画だとよくあるパターンだが流石にそこまでは……いやなんだその顔。どんな感情の表現なの」
「いえ、流石師匠は考える規模が違うなぁって」
「あー、町はなしな。じゃあやっぱり」
「はい、ここは霊幻さんの中です」

目の端を見覚えがありすぎる小学生が走り去っていく。俺だ。まだそんなに大人を疑っていなかったあたりの。
子どもらしくキンキンとした笑い声を立てながら走る背中を見送り、こんな風に笑うところなんてついぞ見れなかった子どもを抱きしめる手を強めた。

「洗脳とかじゃないです、師匠の記憶とかを借りて作った夢を利用してるっていうかなんというか」
「じゃあ俺の記憶とかモブに筒抜けなのか?」
「いえ、抵抗を感じたところは触らないようにしてます。足りない時は僕の記憶でも作ってますね」
「なら今すぐ弟出せるか?」

モブが答える前に道の向こうから律が現れ、見慣れた頓着しない様子で去っていく。時刻的にも下校途中なのだろう、大きなスポーツバッグは重そうだ。
疑いようもないタイミングで、影山弟が現れて曲がり角で消えていった。手を振ったのにと残念そうにしているモブに、それでも今の状況を否定してもらいたくて、それか受け入れるための時間稼ぎのようにたこ焼き出せるかと話しかけた。はい、と手渡されたたこ焼きは熱く、そのくせ口に入れる頃には適度に冷めていていつもより美味しく感じる。エクボは、芹沢は、ツボミちゃんだとかは、路面電車は、スマホ、ピンクのゾウ、ゲームボーイ。そんなアホのような要望にも応えて様々なものが道を通り過ぎて行ったり手元に残った。スマホだとかは細部がもやもやと曖昧だったりするが。
証拠が山のように揃い、心も落ち着いた頃合いにようやく現状を認める努力をする。
ここは現実ではないのだ。あまりに幸せだから。

「何がどうなってこんなことになったんだ?」
「師匠が死にかけて意識不明の重体になったので、中から治そうかと思って」
「うん?」

想像以上の内容にくっつけていた体を離して改めて見つめ合う。ついでに自分の体にぺったぺったと手を当てて、違和感を探すもどうにもいつもと変わったところなんて見つからない。痛くもないし血がついたりとかもないし、服も見慣れた三着目から半額のお得用スラックスであり破れてたりなどの異常はなさそうだ。

「霊幻さんが事故の記憶が抜けてるようなので、ちょっと太ったって気にしてたあたりのままの体を再現したので安心してください」
「そこは細マッチョとかにしとけよ。リアリティを追い求めるのもいいがな、夢の中でくらい夢見たって罰当たんねぇしいいじゃねぇか」
「すみません……変えましょうか?」
「お前もチビのままだし、まあ、いいよ」

そうですか、ととりあえずは納得した様子の恋人の頭をぽんぽん撫でて、馴染みのある姿であることになんとなく安堵した。ゴリマッチョとの同居も有り得たのだ、この世界では。

事故、とモブは言った。重体になるほどの事故を起こしたのだか巻き込まれたのだか、ともかくは現実の俺は怪我で死にかけていると。
まじまじと無事な手を眺めてから、その手をモブに差し出して当然のように繋がれたことを確認してから歩き出す。

「で、俺の体は治せたのか」
「肋骨と腸と脇腹と腕と頭の怪我と太ももの骨折と手の小指の骨折以外は治せましたよ」
「ぼろぼろじゃねえか」
「でも、生きてますよ」

ぶらぶらと繋いだ手を揺らして自宅を目指す。車で出掛けたはずだが風景はもう見慣れたジョギングコースと一緒だ。歩いて帰るのにもちょうどいい距離だろう。
二人で住むのに慣れた、狭っ苦しいアパートが遠目に見えてくる。駅から近いがスーパーだとかは遠くて住むのに不便な、通勤にはちょうどいい単身向きの俺の城だ。洗濯物は乾いただろうか。いや乾いただろう、なんせ都合よく進む世界なのだから。

「なあモブ、俺はもう大丈夫だ、たぶん。死ななきゃ何とかなるもんだ。さっさと起きて保険の手続きだとかしないと俺の胃がやられる」
「胃ですか、せっかく無事なのに……」
「だからだほら。ここじゃ一緒に遠出もできねえだろ」
「一緒に暮らすだけじゃダメなんですか」
「ゲームみたいになんでも上手くいったって、後から辛くなるだけだぞ」

お互い強ばる手をこれ以上ないくらいに握りしめる。手を繋ぐのは細胞同士で繋がるくらいに近しい接触だと読んだのは何だったろうか、ニュースを流し読みしていての発見だったろうか。
なら今くらいくっついてしまえ、と願いながら、言葉くらい優しく聴こえるようにと祈りながら声を出す。

「この先も上手く行かないことは沢山あるぞ。バイキングの采配も就活もカレーライスの割合も勉強もしかりだ。ここで全部が上手くいったってな、それがいくら心地良くたってお前のためにはならない」
「……でも、帰ったら師匠がまた泣くかもしれない」
「俺泣いた記憶ないぞ。ないもんはノーカンだノーカン。ともかく俺はお前と現実で暮らしたいんだが」

腕がつん、と張られて、モブが立ち止まったことが伝わったけれども照れくさくてどうにも振り返れなかった。
同棲にしては落ち着き過ぎていて、けれども確かに恋人同士としての暮らしはここだけで失うにはあまりに幸せ過ぎたのだ。現実でするなら世間体とか、生活費の配分だとかお互いの生活だとか、どうしようもない問題が沢山あるだろう。こうして都合よく暮らしてきた記憶が余計に暮らしにくく思わせるかもしれないし愛想だって尽かされるかもしれない、それでも、ちゃんと二人の生活をしてみたいと思ってしまった。思わされたのかなんなのかもあやふやだが確かに俺がそう思ったのだ。
体だけではなく手の末端まで熱いように感じながら、繋がってはいるけれどもくっつくことのない手をまた握り直す。モブの手も熱い。ようやく決心をして振り返れば、泣いている恋人が繋いでいる手を見つめている。笑うのも静かなら、こういうとき泣くのも静かな恋人だ。

「いいですね」
「俺のアパートは狭いから引っ越すぞ。せめて2LKでベッドでかいの置ける、あと浴槽一回り大きめのとこだな」
「一緒に入ったらどっちかのお尻浮きますからね、今のお風呂」
「トイレ掃除は楽なんだがなぁ。シャワー使えるから。洗濯機も買い換えねえと二人分の溜め洗いはしんどい」
「そうですね」
「他人事じゃねえぞ。一緒に選ぶんだから」

俯いたままの額をぽこりと殴ってから、ひたすら前を向いて歩き出す。引っ張る腕は重いけれども、強く握られていて離れる気配はなく確実に前へと進んだ。アパートも着実に近づいてきていてピンクの夕日も沈んでいて一言で表せないグラデーションを見せている。

「帰るぞモブ」
「……ばい゛」
「いやどんな声だよ」

がん、がんと大袈裟な音しか立てない外付け階段を上り、繋いでいない手でポケットに手を突っ込み鍵を探る。

「開いてますよ」
「お、そうか。んじゃま、このまま行くか」
「霊幻さん」
「どうした?」
「大好きですよ」

愛してる、なんて信用ならない言葉ではなく等身大の言葉を使ったところがまた愛おしくて、玄関を開ける前に振り向いてモブを抱きしめる。マッチョでも少年然としているでもない体を抱きしめて、俺もだよ茂夫、と伝えてから扉を開く。
吸い込まれるように意識が黒くなり、いつの間にか眠ったような倦怠感が迫る。










「おはよう、モブ」

起き抜けに隣に居るのはいつもモブだ。染み付いた習慣で意識が浮上するのと同じくらいの早さで発した言葉は不明瞭で、それでもそばの人物には聞こえたらしい。
がたん、とすぐ近くで椅子でも倒したような音が聞こえて、瞼を開けていなかったことにようやく思い至ってこじ開ける。この有様ではおはようどころかゾンビの如く不明瞭な呻き声しか出せなかったかもしれないなと思いつつ、椅子を倒した人物らしきあたりに目玉を動かした。どうにも首は動かせそうにない。更には焦点を合わせる機能すら退化しているようで、黒い服の小さめな体格の人物ということしか分からない。
どうにか視線を上げて人物を見る。椅子を蹴飛ばしたところからもその人物が慌てていることは伝わって、霊幻さん、という場をわきまえた小さな呟きがすぐ近くから下りてくる。その声が馴染んだものではなくて、落胆した。
ああ、そうか。この手は誰も握ってくれないのか。

「兄は、どこですか」

泣いて詰め寄る弟に返せる言葉もなく、空いた手を握りしめた。
泣いたり嘆いたりする資格は、俺には―――

「ここだよ、律」
「兄さん、さっきまでICUに居たのにいつの間にか居なくなってるから心配したよ」
「ごめんね。師匠、ひとりで起きたら混乱するかなって……でも律が付いててくれたんだね」
「……兄さんが来るとしたらここだと思って」

ひょこりとドアから顔を出した入院着のモブが、実に日常的に俺を挟んだまま律と会話をしている。ついでに言うと握りしめていた俺の手をほぐすように繋ぎながら。
いやいやどういう状況だよとちょっと潤んでいた目をパチパチ瞬かせて誤魔化しつつ、どうしてこうなったんだっけと今更ながら頭を巡らす。なんせ会話からおいてけぼりなもので。

あれだ、常識だ社会だ世間がと日頃言っていたにも関わらず、しょうもないとしか言いようがないきっかけで年の差やら淫行罪やら道徳やらをすっ飛ばして付き合うことになって、けれども情けなくも俺から音をあげて別れ話を持ちかけて。そう、山だった。山なら仕事だと世間にも誤魔化せるし実際怪しいと噂のカーブの下見も兼ねていて、更には俺がうっかりカーブから落ちて消えたって違和感がないものだから別れ話をするにはうってつけだったのだ。崖に沿ったそのカーブはやはり分かりやすく霊が溜まっていて、案の定俺達を乗せた車を下へと引き摺りこもうとしてくださった。当然除霊と脱出を試みるモブの手を取って、ついそれを止めて、うん、あれだ。それからの記憶といえばあの同棲生活だ。

俺はどうなっても、モブなら生き残るくらいわけないとは思っていたのだ。俺なんて面倒臭い重荷を下ろしてしまえば若いモブになら色んな選択肢があって、可能性があって、それらは超能力だの詐欺だのとは関係なく彼の上に降りかかるべき幸せなのだ。
だったのだ、なのに、俺はといえば夢では幸せに暮らしてましたとさ、ときた。どこをどう取っても未練たらったらではないか。綺麗事だとかをつらつら並べたてていた頭で年下の恋人に縋って別れるなんて現実も見れてない状態だったのをなんかこう克明に知られてしまうとか何かもう恥ずかしくて穴に入りたい、せめてお布団に入りたいが片手はギプスで固定されているしまだ自由な手はモブが握っている。お布団恋しい。

「兄さん怪我は……治ってるね」
「うん。ご心配をおかけして申し訳ない」
「僕にじゃなくて母さんたちに言ってあげなよ」

そんな仲睦まじい日常会話を交わしながらも弟くんとモブの視線は俺の手に集中している。勿論ギプスで臭くなっているであろう動かず面白みのない方ではなく、モブが握っている方である。謝るべきか悲しむべきか怒るべきかも分からず、ともかく口を開こうとすれば手を強く握られることで止められる。寝たふりもナースコールに頼ることもできずにいるうち、兄弟の会話がとても自然にふと途切れた。

「僕は、師匠と暮らしたい」
「モブ、」
「ちょっと変に見えるかもしれないし。大変かもしれないけど、そんなの、け、結婚とかしたら当たり前のことだと思うし」

どもるのと同時に握る力が弱まるのを感じて、こちらから出来るだけ強く握った。久方ぶりであろうそんな仕草に大袈裟なくらい震えるが、折れているらしい小指が傷んだがそんなこと些細な程に心が揺さぶられていた。そういうのはいつの間にかとかじゃなくて、お前みたいなやつからじゃなくて、俺から言い出すべきだっつうのに。
モブを見る俺と、弟を直視し続けるモブと、俺の手と兄を交互に直視する律。
何秒も経ったのか、一瞬だったのかも分からない間を置いて、はあと分かりやすいため息を付いた律がベッドに乗り上げる。ギプスに触れるように手を伸ばし、ナースコールを押して「まずは検査ですよ」と看護師のようなことを言った。

「僕は、最初から反対も賛成もしてませんから」
「……うん、ありがとうな、律。あと腕痛いんだが」
「生きてる証拠です。貴方の母親にもよろしく言われるし、兄さんも心配なのに僕は貴方のことまで見なくちゃならないし」
「ありがとう律」
「兄さんも。検査を受けて、ちゃんと治すこと」

それだけを告げた律がモブに病室に戻るようにと促して、ほんの少し、笑う。返すように笑うモブの笑顔に、温まった握りっぱなしの指に、どうにも涙腺が緩んでしまってその上手が空いていないために拭えなくて涙を垂れ流した。駆けつけた医師と看護師にはどうにも生暖かい視線を頂いてしまった。が、あんなに恐れていた白じらとした視線ではなくて、何だかもう、余計に泣けた。



16.12.10


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