柔らかく華と逝け | ナノ


慶應二年九月


三条大橋にと「長州藩は朝敵である」旨を知らしめる制札が引き抜かれる事件が起き、新選組に制札警護の命が下った。


永倉さんといった組長らが夜に張り込み、様子を伺う日々が続く中、主もついにその日がやってきた。


「慧。」

「はい。」

「お前は今日は来るな。」

「……は?」

間抜けな声が洩れたが致し方ない。

「……理由をお聞きしても?」

「お前、ここ最近毎晩毎晩警護に出てるだろ?俺の時くらい休ませてやりたいんだよ。」

主は羽織りを翻し、行ってくるとだけ告げると出て行った。

ぽつんと部屋に残された私。

「……何、しようかな。」

夜だから寝るべきなのだろう。先程出て行った彼もそれを望んでいるはず。だがさあ、これからだ!と言われたときに寝るなんてできるだろうか。私は出来ない。


そのとき、ふと香ったのは甘い臭い。

「……、」

「……こんばんは、慧様。」

すぱん、と襖を開けた先には忍び足で歩くも全く忍べていない椿に、忍ぶ気なんかさらさらない真。

「……椿。」

「はい?」

「…香の臭いがきつい。鼻がもげそうだ。」

え、うそっ!と自分の服を臭い出す椿を真が呆れたように見つめ「だから言っただろう」と椿に告げる。

「えー、だって素敵な臭いじゃない!」

「物事には限度があるだろう。それにお前は鼻が弱い。お前には良い具合でも俺たちにはそうはいかない。」

椿はもう、と頬を膨らますと私のほうに来て腕を絡めた。

「ねえ慧様。ここに鬼が来るんですって?志乃に言われて心配で来ちゃった。」

椿から香の臭いがするがそれより志乃の発言に気がいった。

「鬼は心配いらない。その都度なんとかなっている。」

「うん、それも志乃が言ってた。」

「……志乃はなんでも知っているな。」

「うん。でも私たちも知ってることあるよ?」

真はいつの間にか縁側に腰掛け、こちらの話に耳を傾けている。

「知っているって、ここのことをか?」

「違う。」

椿の目が、すーっと細くなった。同時に腕に絡む彼女がこちらに体重をかける。周りの温度が下がったような錯覚に陥る。

「……椿?」

「ねえ、慧様。」

椿は私の上目遣いで見ながら言う。

「志乃はね、まだいいって言うけど……私はね。そろそろ知るべきだと思うの。」

つう、と嫌な汗が伝う。

「思い出しちゃう前に。」

は、と息のような疑問符が口から滑り落ちた。椿はやはり笑ったままこちらを見ていた。

「思い出す…?」

「うん。」

椿の手がするりと晒された私の腕を滑る。刀なんか握ったことがあるのかというくらいに椿の手は細く、小さい。その白い手が私の腕を撫でる度に何かが沸き上がる。

「ねえ、慧様…」

椿が何か続きを口にする前に、真が「おい」と声を上げた。

「口を慎め。」

「むっ…何よ真まで!だって慧様が可哀相よ、何も知らないなんて。」

慧はどくりとなる胸を押さえた。

「知らない、とは何をだ。」

真は慧を見た後に空を見た。

「…いずれ、わかる。」

いずれ、とはいつだ。知らないとは、何をだ。何を……。

「慧様!私だけは味方だよ?」

「…俺や志乃だって味方だ。ほら、帰るぞ餓鬼。」

椿は狐の姿に戻った真を見て、自分も狐になると慧の足に額を押し付けた後、去って行った。


「……何を、」


慧は手を握りしめる。今晩は眠れそうにない。



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