傷だらけ宇宙 …そう、まだ隠居するには早すぎる。刹は手のひらを見つめてぎゅっと握り締めた。皆はもう寝てしまった頃合、羅刹になった自分はこれからのことを考える。昼の行動は難しくなった反面、夜の行動が楽になっている。この分だと、もう慧に食料の調達を頼まなくても済むかもしれない。 瞬きをした。 まだ馴れないこの姿には些か抵抗はある。人ではない姿、それでも自分だ。刹は歩く。夜は、黒い体を隠した。 静かな夜に砂を踏む音が響く。屯所から離れた場所は自分は一人だと言われているようで心細かった。そして、狩りは難しい。体が大きな分木々の間をすり抜ける動物を捕らえることが出来なかった。練習を始めて半刻、ようやく捕まえたのは野兎だった。 「っ、」 血生食い匂いが鼻を突く。いつもこんなことを慧がやっていたのだと思うと、なんとも手間をかけたと罪悪感にも似た感情が芽生えた。がぶりと噛み付けば、すぐに兎は息絶えて牙がその皮膚を裂いた。むしゃむしゃと音を立てて食べた。飲んだ。 「……立派だね。」 誰もいないはずの木々の中。人の声が響いた。 「風間が逃した山犬っていうのは貴方?」 「がっ」 鼻先を上げて相手を見た。鮮やかな着物に口元の紅、綺麗な顔をしているがその顔はある人物にそっくりだった。 「大丈夫、私は危害を加える気はありません。ただ見かけたから身に来た。それだけ。」 ゆっくりとした動作でそれは手を伸ばした。そっと鼻先に触れたその手の香りを嗅ぐ。化粧の匂いと、やはり知っている人物に近い匂いがした。嗚呼、頭が混乱しそうだ。 「貴方、綺麗ね。」 鼻先に止まっていた手が髪に触れる。その手はゆるやかに頭を滑った。 「私の名前は南雲薫っていうの。」 手が離れた。南雲薫と名乗った者の顔を見る。意味深な笑みを湛えていた。 「……千鶴によろしくね。」 南雲薫、以前遊郭に行ったときに原田がその名を口にしていた気がする。報告した方がいいのか、考えて、止めておくことにした。怪しい人物だが、とても言える様な気持ちにはなれなかった。 人に、戻ろう。 ふわりと揺れた髪。やはり首元が少し寒い。足元にある水面に映る自分は酷く醜くく、口元が真っ赤だ。洗い落として見た目は取れても、はたしてあの鼻の利く慧にばれずにすむのか。引っかくように顔を擦った。 *** 同じ刻限のことだった。刹によく似た癖のある黒髪に青い瞳が憂いに揺れていた。酒をあまり飲まないはずだった彼の隣には自棄酒をした痕跡。細められた瞳を閉じて、ふっと口元に笑みを作った。 「……日向ちゃん。そこにいるんやったら、出ておいで。」 部屋の影から顔を覗かせたのは慧。その表情は驚いた様だった。 「よくお分かりになりましたね。」 「伊達に双孤やってへんもん。」 彼方の言い方は子供のようだ。そう感じた慧は曖昧に笑い、彼方はまた酒を煽った。 「荒れていますね。やはり…刹のことですか?」 「…うん、僕ね。刹の為やったら命いらんのよ。それくらい大事で、愛しくて、守りたかった。」 「……瑠璃崎さん。」 「日向ちゃんやったら分かるよ。守らなあかん人いるから。」 彼方は、ぽつりぽつりと話す。酒の勢いだろうか。 「貴方は余程、刹のことが…」 「好きや。」 「なら、その気持ちのままで刹を見てあげてください。それだけで刹はまだ立てると思います。」 「そうかな?」 「ええ」 ちらりと見えた涙を、慧はただ見つめていた。 1120 慧さんと彼方君の関係はこんなのだったら良い。 芹 - 59 -
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