隣の空白 胸に満たされているもの。幸福感、とでも言うのだろうか。なかったものがストンと収まったような感覚。環とちゃんとした折り合いをつけたことでそれは訪れた。昨晩の話なのに、生活は以前よりも少し落ち着き穏やかなように思う。変わったことと言えば、一月に一度、慧が俺の為に狩りをしてきてくれると言ったこと。環から擬態の取り方を聞いているから山犬として山に入るのは簡単だが、大きさから人の目に触れると厄介だと慧に一度忠告されたことがある。 「慧。」 「なんですか?」 「すまないな。」 目の前に出された皿の上には、生肉を串で刺してあるものが置いてある。まだ、野生のものをそのまま食べるのに抵抗があった俺への配慮らしい。すんっと鼻を動かしてから串に手をかける。それを口の前に持ってくると躊躇いもなく噛む。ぐにゃりとした感触に一瞬眉を潜めるが、血を抜いてくれているお陰で不味いとは思わなかった。むしろ、美味しい…。 「慧、これ何の肉だ?」 「人肉です。」 「…、」 「嘘です。兎の肉です。」 最近思うのだが、慧の冗談は冗談に聞こえない。なぜだかは明白、顔に笑みの一つもないから。 ……そこでふと、思った。 兎が上手いんだから、もしかしたら人の肉も上手いかも知れない。そんな思いを胸に、慧を見れば「いけませんよ」と言われた。また、欲が目にでも出たのだろうか…?慧には、よく山犬としての考えが見抜かれるような気がする。 「……。」 「…なぜ、こっちを見るんだ?」 「いえ、ただ髪。せっかく伸ばしていたのになと思いまして…。」 「あぁ、…変か?」 「お似合いだと思います。」 「なら、問題ないだろ。」 髪は、自分で適当に切ったせいか不揃いで少しおかしい。もしかしたら、慧はそれを言いたかったのかも知れない。 食べかけの串を皿に置いて、寂しくなった後ろ髪に触れた。これを見せたら、皆はどういうだろうか。多分、近藤さんと総司、彼方は怒るんだろうなぁ。いや、悲しむのか。分からない、な。 「なぁ、」 食べていた串を、皿に置いて慧を見た。すると必然的にかち合う瞳。 「多分、いや絶対。俺の一生に一度の頼みだ。」 「……、」 慧は訝しげにこちらを見る。 「俺は、近いうちに羅刹になる。」 これは環が去ってすぐに決めたこと。少しでも衰弱していく体を奮い立たせる為の最後の手段。もうあとには引けない。 「もしも、俺が狂ったとき。そのときは、慧が俺を殺してくれ。」 慧の瞳は、静かに揺れていた。 * * * * * 夜の月。きらきらと輝く月明かりをこれほどまでに綺麗だと思ったのは久しぶりかもしれない。それもこれも、ありのままの自分を受け入れたからなのか。 「……、」 酒を煽る手が進まない。まだほんのりと口の中に鉄の味が残っているからだ。その余韻に、頭が上手く回らない。 「慧、そこにいるんだろ」 がさがさっと近くの草が揺れて、顔を出したのは狐。昼間と被るこの風景になぜか苦笑が零れた。 「あんたも飽きないな。」 狐の慧は隣に座ると、小さく丸くなった。普段は原田のところにいるはずのそれが、最近はよく抜け出して隣にくる。まるで、静かな夜の、寂しさを埋めてくれるように。これも彼女の優しさだろうか。粋なはからいだな。 「……、」 そっとその背中を撫でた。なめらかな毛が生え揃っていて、触り心地が良い。 「…あんたは、生きてくれよ。」 「……きゃん、」 小さくも高いその声に、静かに笑った。 0822 お粗末さまです。 芹でした。 - 55 -
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