空を見上げた1 | ナノ
簡単に解けた糸

「…名前、」

彼女はぽつりと呟いた。

名は、その者の存在を示し確立させるものだ。

「……刹、」

ぽつり、名前を呼ぶと少し不思議な気がした。耳を澄ますと沢山の話声がした。夜だというのに皆元気だ。鋭い嗅覚で辺りを嗅ぐと色々な匂いがした。甘い、お菓子の香りに鉄の匂い。それから、お酒と人の匂い。

ふんふん、と何気なく自分を匂えばそこに獣らしい匂いを見つけるのは困難だった。人間の中で生活してきた自分にははっきり、もう自分にはわからないほどの匂いがこびりついているのだろう。自分の体臭とはわからないもので、自分の匂いを記憶するのは指南の技である。


ざわざわ、音が響く。草木が揺れる音。何かがこちらに来る音。ぎしり、地面が軋む。

「……。」

「……。」

微笑んだ。

「こんばんは、環さん。」

「ええ、こんばんは。」

彼女の足が一歩、

「止まりなさい。」

「……。」

「私、ここに貴方の匂いを残したくなくて。」

にこり、微笑んだ。

「それは失礼しました。」

二人の間には不思議とぴりぴりした雰囲気が流れる。

「怪我は、完治しました?」

「とっくに。」

彼女は手の包帯をはらりと解いてみせる。

「さすがだ。やはり、犬は体の作りが丈夫らしい。」

微笑むと環はまた包帯を巻きなおす。人間に対するカムフラージュである。

「あまり、刹に余計なことを吹き込まないでください。」

「…選ぶのは、彼女です。」

「選択権は与えましたよ、貴方の言う通り。」

「ええ、聞いていました。」

「…耳だけは、いいんですね。」

「腕もたちますよ。きっと貴方より。」

「…今、刹たちの会話は聞いていますか。」

「いいえ。」

「何故?」

「だってここは私たちの場所なんです。部外者の貴方が何かしないように見張るのも私の役目なんです。だから、貴方の話は私の達者な耳で聞かせてもらいますが…。」


彼女は、ここの人間ですから。


環は徹底してる女だと感心した。自分が関わることには耳を動かすのに対し、刹一人だとその耳を塞ぐ。


「…貴方、西条さんをどうしたいんです?」

「少し前に聞いた通りですよ。」

環からは、暗闇にいる慧の表情がなかなか見えなかった。ただ、赤い瞳が光るのに背筋を伸ばした。

「……では、私は湯浴みに行きます。」

そして次の瞬間には欠伸をしながら立ち去ろうとする慧に環は唖然とした。

「……何か?」

「私を警戒してるんでは?」

「勿論。でも、もう決めたんです。何もしないって。」

「……え、」

また、唖然とした。

「…私の問題じゃないし、西条さんもなんだか結局は一人で決めるような人だろうし。現に先程も一人納得して去って行きました。」

「……。」

「だから、何もしません。貴方には。でも、彼女とは…友人になりたいと強く思いました。」


叶うことは難しいでしょうが、と慧は呟き姿を消した。


残った環は胸を押さえた。そして改めて理解する。ここの現状と、当事者たちの気持ちを。

そして、自分がここに来たわけを。



0720

またまた環さん…!前に酷いことしちゃったんでね、はい。


雪子


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