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ポスト・グランジ






※虫が出ます
※虫が入ります
※虫が死にます



 辺獄が息を切らせた頃、己の愛猫が部屋の隅で丸くなっているのを見つけた。部屋は暗く、そして湿っていた。畳こそ乾いているものの、溢れた空気は淀んでいる。
 持っていた手燭をかざし、伏し転ぶそれに向かって光を当てる。すると、猫の半分を覆っていた黒い靄が滑り落ち、黒の輪郭の中身が露わになった。辺獄は歩を進めながら大味に手を払う。その表情は固く、襖に描かれた雲が凍るほどに冷たい。 手燭にともる明かりが揺れる。のぼる揺らめきは魂の青色をしていた。
 辺獄は猫の側に寄ると、ゆっくりと蹲み込んだ。
 ガツリ、と白い歯を強く噛み鳴らし、威嚇に似た音を立てる。すると、猫の陰に隠れていたそれが煙を模して霧散した。果たして正体は蜘蛛の群れだ。それも、とびきり小さな。
 胎児の格好を真似ている愛猫の口元に、静かにきみどり色の爪先が伸びた。百合の雄しべと逆の配色をしたそれが、小さな口の端にツンと触れて。
 ぷちり――指の腹で捕らえた、最後の蜘蛛の子を潰した。
 ぐちり――忌々しいと口にすることもなく、辺獄は奥歯を噛んで指の腹を擦り続ける。
 どくり――息を吸い込む音がしたのは、猫が目覚めたことを示している。
 辺獄は、これほどまでに静かに呼吸をしたいと思ったことはなかった。音一つないこの空間に、心臓の鼓動以外の音は大きすぎた。
 確かに繋いだ愛猫の息を、確かめている。

「お加減の程は」
「……、あ、あっ……、リ、ンボ、さま?」

 声を発した愛猫は、晴れることのない暗闇の中で光を探しはじめた。そっと開いた瞼の下には、焦点の合わない瞳が嵌め込まれている。
 そのようすに胸を撫で下ろすふりをして、辺獄は首を揺らした。
 チリン、と鈴が鳴る。ちりん、と鈴が鳴る。
 一つめは、辺獄の髪飾りから発されたもの。二つめは、愛猫の首飾りから発されたものだ。
 白い首元の鈴が柔らかな音で鳴いた。「リンボ、さま」ちりり、ちりり、何かに呼応する。
 冷たく、大きな手が、温かく、小さな顎を捕らえた。軋む骨、弾まぬ身体に、辺獄は目を見開く。

「口を開けなさい」

 冷徹に。厳格に。愛猫の頤を反らしながら唱える。それは呪詛に似ていた。もしくは、使い魔に命ずる譜の類だった。
 小さな顎が軋んだ頃、小さな口がぱくりと開いた。口腔では薄い唾液が縦糸を引かせている。蜘蛛糸にしては、すぐに切れる弱い糸だった。
 大きなまなこが、じっくりと、喉の奥までを覗く。視線は微かに揺れる口蓋垂を舐め、歯並びをなぞり、震える舌の上に到達した。粘膜、舌と歯茎の間、唾液腺の溝にも、なにもない。なにもいない。

「あ、あう、あ」

 蛇に睨まれたのは蛙ではなかった。辺獄は楽園を追放されたものではなかったし、多邇具久の化身などどこにもいなかった。
 ひとりの男と女が、互いに疑念を抱き、向き合っている。
 大きな瞳がひかる。噛み締めた犬歯が唇を剥いて現れる。彼の忿怒を誘ったのは赤い林檎ではなく恐れを帯びた女の眼であり、屋敷に蜘蛛の子を放った未だ見ぬ妖の姿である。
 時たまに――結界を破るものが現れるのは、この女の腹中に納められた具が、静かに呼吸をしているからだ。
 それを起こしたのも、取り出し損ねたのもまた、辺獄だった。

「喉を広げなさい、大きく、舌を下げなさい」
「あ、ぐ、う」

 その気迫によって愛猫の喉が開かれた頃、辺獄の視界が一瞬、細められた。きみどりの唇を割って現れた舌先は新鮮な肉色をしていて、透明な唾液を光らせていた。
 一連の流れを照らすのは蝋燭の灯のみで、暗がりの中、よりいっそう濃い影が連なる。
 閉ざされていた唇が、薄い唇によって割り開かれる。間髪入れずに捻じ込まれた厚い舌は、およそ常人のものとは思えないほどに長く、狭い口腔のなかへと滑り込んでいった。伸びる舌先は喉奥を求め、さらにその身を伸ばしていく。女の声が口腔で響いた。「ん、っぐ、ん……!」唾液のぬめる口内が、肉厚な舌によって侵されていく。
 口内部の粘膜部分には目もくれず、辺獄の舌先は暗い喉奥へと一直線に向かっていった。ずるりと音を立てて、肉が押し込まれていく。
 己の意思に関係なく、女は舌を呑まされている。それは膜を張った水が自らを胃の中へと落とし込むことと同じだった。
 舌先が食道を通過するより先に、女の身体が反応した。肉を、吐き戻そうとしているのだ。咀嚼もされていない新鮮な生の肉を、どうにかして体外へと排そうとしている。

「ンふ、っ」

 赤くなりつつある小さな左耳を見て、辺獄は喜を含んで笑った。手の中にあるものが苦しんでいるさまが、なにより愉快なようだった。
 そうして、ぬるい鼻息が若い肌を舐めた頃、開かれた喉奥より舌が引き抜かれた。このふたつが肌を重ね終えたあとの音より、ずっと静かで、愛らしい音だった。
 何かを捕らえた舌先は、口蓋垂の下、舌の上、歯並びの中央、そして唇の間を通り、外へと出た。肉厚の根元は動かないままで、頭だけを動かして。
 辺獄が女の身体を押し退けながら、舌を引きずり出す。
 薄桃色に染まる舌の上に居たのは、一匹の蜘蛛だ。姿こそ、先程散った小粒共のそれと似ている。
 蜘蛛を目に止めた辺獄は、目の前で硬く目を瞑り行動の許可を待っている愛猫を見て、少しだけ目を細める。これをこの女の視界に入れたらどれほど愉快なことだろう。そんな叶わぬ期待が睫毛の震えに込められていた。
 肉先の上で蜘蛛が動いた。ピョイと小さな身体が跳ねて、畳の上に落ちる。そしてくるりとひっくり返ると、八本の足先は炎を上げて燃え上がった。
 光源が増えたかと思えば、己を燃やす糧をなくした明かりは黒になり、その場に残す炭も芥も消え去って、無かったことになった。

「フン、なんと、なんと、図々しい、」

 粘液に濡れた舌を体内に戻しながら、辺獄は顔をしかめた。ちゅるりと啜った汁の音が女の肩を跳ねさせる。
 開いたままの口を見ながら、胸を躍らせている。

「く、ッふ! ええ、ええ。まだ、おまえの内側に。潜んでいるやもしれませぬ。祓い、清めましょう、巣食われては困りますゆえ」

 鈴が鳴る。震えが、音になる。
 辺獄はちらりと暗闇の奥に目を流し、また視線を戻した。手燭を手に取り、瞼を下ろす。今目の前の者が見ている色と、同じ色を見ていた。

「はてさて、ここでするのも忍びない……寝室への道程は、憶えておいでですか」
「ごめんなさい、」
「それがなんの答えになりましょう」
「……まだ、憶えて、おりません、」
「結構」

 きみどりいろの唇が切れ味の良い弧を描いた。伸びた爪先が愛猫の腕を撫でる。そしてそのまま細い手首をつかんで、自身が立ち上がると同時に愛猫を持ち上げた。小さな片腕は軋み、肩の骨は悲鳴をあげる。
 二本の脚を細やかに震わせながら、暗闇の中、二本の足先が畳を突いた。

「ここで眠りこけているほどですから、おおよそ、ええ、疲れていたのでしょうね。ふふ、おまえが寝ている間に何があったのかは、後の話にとっておくとして」
「リンボさま」
「何か」
「ここは、なんの部屋ですか?」

 辺獄が目を剥く。
 細い喉を通る空気が冷たくなる。女の肝は冷やされることなく普段通りに動いていた。辺獄の表情を知ることのない猫は、冷やすための肝すら持ってはいなかった。
 辺獄は周囲の様子を眺めると、ゆっくりと時間をかけて、そして微笑んだ。

「不要なものを置く、物置になりますが」

 何か、と付け加え、その場で振り返る。その足元には毛髪の落ちきっていない頭蓋骨が転がっていた。黒で埋められた影の向こうと言えば、痛んだ畳と少数の遺体の一部が散乱しているだけだった。
 まだ肉の残る三つの頭蓋骨が、過ぎ去る猫背を見つめている。襖の閉じる音がしたあと、そこの世界は無くなった。

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