ゴミ箱 | ナノ


 きみの瞳が見たい。きみの眼差しの先にありたい。きみの視線を受けるものは俺だけであってほしい。鍾離の中にその三つが沸き立った瞬間、彼の体内で紫の色が渦巻いた。烏滸がましい感情であると知って尚、激昂の前触れが彼の胸に火をつけた。心の水面は沸騰の泡に揺れ、激しくうねりを上げる。舞った飛沫は糸を引いて、黒く淀んでやがて泥のようになった。
 彼は瞼を剥いて目の前の光景を眺めていた。小さな講談場の一角の、海側にある二人掛けの席に視線を釘付けにされている。あと五歩も階段を登れば講談場の床に足をつけることができるというのに、鍾離の足はそこで止まったままだった。
 たまたまその席が空いていたから双方がよく使うようになっただけの、何の変哲も制約もない席である。講談場に訪れる人々も、あそこの席はあの二人がよく使うからと、暗黙の了解のもとに空けられるようになった、ただそれだけの場所だ。特別席ではなく、名前が書かれているわけでも、誰のものでもない、二人がよく使うだけの二席が、両方埋まっている。
 片方の椅子には、鍾離の興味を引いてやまないなまえが座っていた。そして彼女の隣に座るのは、含みのある笑みの絶えない痩せ細った男だ。二人はお互いに声を跳ね上げて笑い、歓談の最中にあるようだった。
 彼女があの席に座っている、ならばその隣には己が居るはず。鍾離はそう思った。しかし、彼は遠くからその様子を眺めていて、なまえとは一日の始まりから一言も会話を交わしていない。そして彼女の視線の先には、己以外のものがいる。
 彼女の隣の席には俺が在るべきだ。そして、俺の隣の席にはきみが在るべきだ。それは向かいの席であろうとも同じことであり、例外はあり得ない。鍾離は昂りそうになった想いを鎮めるため、その場でゆっくりと瞬きをした。世界が一度暗くなって、また明るくなる。耳に刺さったなまえの声に、世界が輪郭をあらわにする。

「――あの玉札が、本当に実在するんですか?」

 彼は椅子の取り合いに興味はない。それは二千年前に終結した魔神戦争の頃から変わっていないことだ。此度の彼も、視線の先にある椅子自体に興味はない。ただ、彼はあそこに座ることで、初めて彼女の視線と意識を同時に受けることができる。彼女の手元に何もなければ、より効果的にそれは達成される。彼は己の太陽に身を灼かれるための場所を求めている。

「あ、鍾離さん」

 ふと、鍾離の存在に気づいたなまえが声を上げた。「鍾離さん、何してるんですか。早く!」急かすように軽く手招きをするなまえを見て、鍾離の泥ついた胸の内が少しだけ滑らかなものになった。言われるままに階段を登り、彼女のそばへ寄ると、ぎいっと木と木が擦れる音がした。

「鍾離さん! ほら、ここ座って!」

 なまえが、左手に掴んだ椅子の背を引いたのだ。まるで初めから彼の場所をとっていたとでも言うように、そこには三つ目の椅子が用意されていた。
 彼女は隣にいる男に手短に鍾離を紹介すると、「ではその玉札の話、聞かせてください」と真剣な表情で捲し立てた。
 鍾離は、なまえが掴んだままの椅子に視線を奪われていた。使い古された、それこそ今まで誰が使ったかもわからない年季の入った椅子である。何の変哲もない、どこにでもある量産品のそれを見て、鍾離は焼かれた夕方色の瞳をぼんやりと輝かせていた。「鍾離さん、ここです! ほら!」なまえが空席の上を軽く叩く。ああ、と静かに返事をした鍾離は、目の前の男を如何にして退けようか、そればかりを考えていた。







 美しい、と鍾離は目を細めた。感嘆の溜息をこぼし、揺れる瞳にじんわりと広がる熱を灯している。白い肌に咲いた赤い痕をじっと見つめて、彼は緩やかに口角を上げた。彼女の鎖骨の上にひとつ、唇で強く吸ったことによる軽い内出血を起こした痕が残っている。
 彼は、自分のからだにもそれが欲しいと思った。彼女のやわらかく瑞々しいあの唇で、己の肌にも同じことをして欲しいと考えた。けれど、彼が繕った人のからだに肌の色はあまりにも少ない。それに、彼女は意識を失っているものだから、鍾離の願望は見果てぬ夢に終わってしまった。「……、」彼が白い肌についた赤い痕の上を軽く指先でなぞってみせると、ぽつりと落ちていた赤色は消えてなくなっていた。はだけさせた衣服の位置を名残惜しそうに戻し、ぐったりと脱力した女の身体を抱きしめる。

「……きみ、」

 それを女の名だと思い込んでいるのか、名を呼ぶことに未だに慣れないのか、彼は事あるごとにそれを口にした。起床を促す呼びかけではないとするならば、彼はただ意味のない音を発していることになる。

「きみ、」

 鍾離は口から溢れる意味のない言葉を何度も唇に乗せた。頬には薄い朱が乗っていて、恍惚とした表情のままにそれは繰り返されている。少しだけ湿度の高い密室で、呼吸と衣摺れの音だけがよく通っていた。

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