そんな筈はない、とボクは息を飲んだ。肺に送り込まれた空気は喉の粘膜を急速に冷やし、一瞬ばかり体内が内側から凍りついてしまったような気さえした。ひゅう、と口内に細い冷気が送り込まれ、ボクは、唇すらまともに開けられないほどの極寒の雪山で、彼女の影を見たという事実に驚きを隠せずにいた。
唇の皮がお互いを掴んで離さない。無理やり口を開けばそこに鋭い痛みが走った。「なまえ、」吹雪にすべての音を遮断される。ボクの声に赤い血糊が宿っても、彼女の耳にそれが届かなければ意味がない。豪雪はボクを生かしたまま、すべての音を殺そうとする。
見知った人影は山奥へと進んでいく。ふらつくこともなく、二本の足で積もった雪を踏みしめて、振り返ることさえしない。彼女の背中が白に埋もれながら遠くなっていく。
「なまえ、」
強風と細やかな雪に瞼を殴られ、思わず目を瞑る。ばさばさと翻る服の裾さえもボクの呼び声を邪魔して、思わず目元に吹き付ける風を腕で遮ろうとしてしまった。今ここで彼女を見失ったら二度と会えない、そんなあり得ない事象に戦いて、視界に滲んでいく細い線を睨みつける。
あれはなまえだ。あの髪の色も、長さも、衣服の装飾も、肉体の輪郭も、歩行の癖さえも、なまえのものに他ならない。見間違いではない。あの小指の先ほどの大きさになった人影は、紛れもなくなまえその人だ。何故この天候の中、彼女が雪山の奥へ用があるのかなど見当もつかないが、ボクはなんとしてでもそれを止めなければならなかった。
「――なまえ、」
だって、彼女の向かう先には、アルベドの拠点がある。