小説 | ナノ




 静謐。呼べば彼女は静かに顔を上げた。暗闇に溶ける紫と褐色は恐ろしく綺麗だった。静寂と暗澹に濡れた部屋の隅で、そのしなやかな身体を小さく折り畳んで座っている。静謐。もう一度名を呼んでみる。「はい、マスター」あまりにも小さな返事ではあったが、オレの耳はしっかりと彼女の声を掬い取ってくれた。
 大丈夫だ、彼女はしっかりそこに居る。
「入るよ」
 光に塗れた廊下から、闇に染まった彼女の部屋へ、やおら足を踏み入れる。扉がスライドする。部屋の中が真っ暗になる。電気のスイッチを探そうとはしなかった。今の彼女を照らしたが最後、壁に染み付いた影を残して消えてしまうような気がして。あり得ないことだとは分かっていても、やはり電気を付けるのを躊躇ってしまった。
 オレは暗闇の奥の奥に向かって、「何かあったの」と問いかけた。彼女を刺激しないように、出来得る限り穏やかな声色で。
 沈黙が続く。聞こえていなかったかな、と少し声を張って訊き直そうと息を吸ったとき、静謐の影が少し動いた気がした。
――はい。
 影からの返答は簡素なものだった。肌が冷える感覚がする。ああ、彼女は。
「静謐」
 名を呼ぶ。
 ふたたび返ってきたのは、ここに来て溢れ出た嗚咽。
「マスター、わたし、わたしは……」
 なまえさんを、ころしてしまったのでしょうか。
 弱々しい声が、オレになまえさんの生死を問う。水が、彼女の肌を叩く音がした。
 何かあったの、なんて白々しい言い方だったかもしれない。確かに数時間前、その“何か”は起こってしまったのだ。
「……大丈夫だよ、殺してなんかない。なまえさんは今、医療班の人たちに解毒してもらってるところ」
「マスター、わたし、うれしくて。彼女が、なまえさんが。喜んでくださった、褒めてくださった、賞賛を、こんなわたしに。それが、うれしくて。うれしくて。こんなわたしが。毒のわたしが。毒そのものであるわたしが、人並みにあれる筈は無いのに、慣れてしまっていて、それで、慢心していて、あなた以外のひとに、喜んで、喜ばれて、喜ぶことをゆるされたのだと勘違いをして、ああ、彼女を、殺したかったのでは、ないのです。わたしは、ただ、なまえさんと……」
「うん、知ってるよ」
 彼女の唇からぽつぽつと零される言の葉には、人が持つべく感情全てを粉になるまで混ぜたものが擦り付けられていて。彼女の内側で渦巻くすべてが混交して、静謐の毒を強めている。静謐で死ぬことのないオレにしか、今、彼女に慰みの言葉をかけてやることは出来ないのだ。
「なまえさんも、分かってるって、言ってたよ」
 空気中に漂う瘴気が、よりいっそう濃くなったのを肌で感じる。甘い毒の叫声が、オレの鼓膜を串刺しにした。




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