小説 | ナノ




「さわってみ」
「どこをですか」
「顔」
「どこが顔なんです?」
「んー? ……ここ」
 ベンタブラックくらいの黒に覆われたその人は、わたしの両手を掴んで自分の頬のあたりへと掌を擦り付けた。「へへー」何やら喜んでいる。悪戯好きな少年、という言葉がぴったりのようにも思えた。
 やっほー、という挨拶にもならない挨拶と共にわたしの部屋へずかずかと上がり込み、勝手にコーヒーを淹れて勝手に飲んで勝手にベッドの上を占領する。「おまえ、選ぶ本のセンスは良いよなぁ!」そんなことを言いながら、人の本棚からこれまた勝手に本を拝借して、わたしが一生懸命整えたシーツも枕も掛布団もめちゃくちゃにして、「なまえー、こっち来ーなさーい」と作業中のわたしを呼びつける。自分の部屋じゃないんだぞ、と説教するのにも飽きてしまって、放っておいたらこのざまだ。
 言うことを聞かないと今度は拗ねて片付けもせずにご帰宅されてしまうので、わたしは作業を一旦やめてベッドのほうへと足を運んだ。「うりゃ」ぐいと腕を引かれてベッドに転がり落ちて、もう今日は作業に戻れないことを悟った。あなたのマスターに関する大事な情報を頭に叩き込んでる最中なんですよ、と言う暇は無かった。彼が読み散らかした本の角に頭をぶつけたのだ。
「いて、」
「さわってみ」
 そして、唐突に。冒頭のようなことを言ってわたしを困惑させる。耳の上あたりがズキズキと痛み始めた。
 彼は全身真っ黒なので、正直言うとどこがどこの部位にあたるのか、いまいちわからなかった。後頭部だと思ったら顔だったこともあるし。背中だと思ったら胸だったこともあるし。
 しかし、このたびわたしが触れさせてもらっている場所は、彼が導いた通りの場所だったようで。柔らかな頬肉がわたしの触覚を癒してくれた。
 彼の目が細められる。目が、黒に飲み込まれていく。
 彼は笑うと、目が無くなってしまうのだ。
「このまま寝ちゃおうぜ。オレ、あんたと寝るの結構好きかもしれないんだよな」
「まだ覚えないといけないことがあって」
「いいじゃんいいじゃん。明日早起きすればいいんだし」
 良くない、と言ったところで、納得してもらえたことは今までに一度もない。しかしこうも毎度毎度、流されるままというのも腹の虫がおさまらない。なので、わたしはつい数日前に思いついた最終兵器で以て彼を迎撃することにした。
「アンリマユさんが、ウインクできたら。このまま寝ようかと思います」
「げぇッ、何言ってんの」
「出来ないんですか」
「そりゃあ、出来るさ。見てろよ、見てろよ」
 彼はわたしの両頬をつかんで、ばちりと瞼を押し上げた。目の位置は把握していたものの、突然出てきたぎょろついた目玉に軽く息を飲む。際にあるピンク色の粘膜まで、はっきりと見せつけられる。
 ゆるりと、片方の瞼が降ろされていく。そろり、そろり。アンリマユさんの片目が、無くなろうとしている。彼の真っ黒な瞳と虹彩と、真っ白な強膜が、少しずつ瞼という黒に飲まれていく。もう片方の目は開いたまま。「う、」小さな唸り声をあげながら、少しずつ、少しずつ。
 ああ、ああ、ごめんなさい。今更、彼にこんな仕打ちをしようだなんて。わたしは最低の人間だ。「やっぱり大丈夫です」遂に耐えきれなくなって、わたしはアンリマユさんの頬を持ち上げる形で、開いていた両目をぱたりとふさいだ。「ドSか」「ごめんなさい。このまま寝るので許してください。歯磨きしてきます」「それは戻ってきたらチューしてOKってこと?」「そうではないです」「唇噛み千切んぞ」彼が片目を瞑るのが苦手、という確証はどこにもない。それでも。生前に受けた痛苦を想起させるような、そんな人畜じみた行為を――わたしは彼にやらせようとしていたのだ。
 両の手首を掴まれて、「いないいないばあー」と手を払われる。そこに恨みや怨念が込められた表情はなくて、それがまた、くやしい。倍で返してくれていればどれほど救われただろう。わたしの考えていることなんか、きっとすべてわかっているくせに。
「ねーねー、オレ、ウインク出来るって。マジで。なまえさーん? おーい? 無視ですかー?」
「ウインクしなくていいです。ごめんなさい」
「何に謝られてんのかよくわかんねーけど……まー、いーかー。寝よ寝よ」
 おまえの匂い好きー、今夜食ってやろー。と何事もなかったような顔で、アンリマユさんは微笑んだ。彼は両の瞼を閉じることが出来ている。真っ暗闇の奥で、彼は確かに、笑ってくれていた。
「食べるのはナシで……」
「それなら、寝返り打った隙に頭からパクーっと」
「足からならいいですよ」
「いいねー、足から……足からぁ!?」




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