小説 | ナノ




「なまえさーん」
「うわ、」
「どーん」
 エスプレッソマシンの前で抽出量をどうすべきか迷っていたら、突然軽めの追突事故が起きた。押し出されると云うよりも、ぶつかるついでに引き寄せられると云う形で。お腹にまでがっしりと腕を回されている。右手の甲に令呪。「えへー」背中に受けた可愛らしい声と柔らかな胸から察するに、ぶつかってきたのは間違いなくリツカちゃんだ。
 リツカちゃんはわたしの右肩に顎を乗せて、ふふんと楽しそうに鼻を鳴らしている。髪が擦れてくすぐったい。
「危ないよ」
「なまえさんも魔力供給しましょう」
「わたしサーヴァントじゃないよ」
「いいのいいの」
 リツカちゃんは少しだけ伸びをして、背後からわたしの耳のあたりにその柔らかい頬を擦り付けた。「流行ってるの?」「流行ってるんです」頬擦りで魔力供給なんて本当に出来るんだろうか。わたしの身体に魔力が流れ込んでくる感覚は無い。
「元気出たーっ!」
 相当元気が出たらしいリツカちゃんは、また別の人に魔力を配りに行くのか、「また魔力供給しましょうね!」と謎の約束を取り付けつつ去っていった。去り際の手の振り方さえ女の子らしくて和んでしまう。ちゃんと魔力供給ができていたのかはわからないけれど、右頬にじんわりと残った熱が、なんだか少しだけ嬉しい。
「なまえ」
 手を振り終わったころ、背後から声をかけられた。振り向こうとして、固まる。
 肩を叩かれたと思ったら、視界の左端に白い毛先が現れた。そして、耳のあたりにふわりと柔らかな感触を受けて、何かに頬を、撫でられる。
 それがカルナさんの頬だということに気が付いたのは、うっすらと笑みを含んだ吐息が、わたしの左頬をゆるやかに撫ぜた頃だった。「な、なにを……」「盗み見るつもりでは無かったのだが……先刻の一部始終を見ていた」「こういう魔力供給の方法が流行ってるんですか?」「そう、だろうな」曖昧な答えがわたしの心臓を悪戯に高鳴らせる。本当に流行ってるんだ。
 頬肉なんかこれっぽっちも無いようなほっそりした顔付きをしているくせに、彼の頬は驚くほど柔らかかった。優しく優しく、頬で頬を撫でられている。リツカちゃんでさえ後ろからでは耳のあたりまでしか届かなかったのに、彼はきっちりと頬に頬を擦り寄せていた。
「魔力、足りてないんですか?」
「そのようだ」
「そんな他人事みたいに」
 すり、と頬が擦れる。
 女の子にされるのと男の人にされるのでは、感覚がまるで違う。リツカちゃんにされた頬擦りは、同性の親愛からなるものだと分かっているから何も考えずに受け入れられたけど――相手が異性となると、途端に気恥ずかしくなってしまう。同性と異性で対応を変えるのもなんだかおかしな気がするし、カルナさんがわたしに頬擦りをしてくれるというのは、例え魔力供給という名目でも、信頼してくれている、と解釈出来ないこともないと思うし。「くすぐったいです」「そうか」「そうかじゃなくて……」すぐに離れてくれると思っていたのに、なかなか離れてくれない。
 身動いでも離れる気配がないので、わたしは半端諦めて、待機させているエスプレッソマシンに手を伸ばす。濃いめに淹れよう。白いカップが二つ描いてある丸いボタンに指をかけると、「カルナ、貴様、貴様……!」嫌な予感がして、指の着地点をずらした。ボタンでもなんでもないところを指の腹で撫でる。
 ふと声をしたほうを見遣る。激昂を隠し切れないほど目を剥いたアルジュナさんが、こちらへとツカツカと歩いて来るのが見えて。その真っ黒の瞳が怖くて、後ずさってしまった。しかし背後にはカルナさんがいるので、カルナさんの胸の赤石に背中を押し付けてしまう形で衝突する。「すみませ、」謝ろうとした瞬間、肩を掴む力が強まった気がして、そこで言葉は途切れてしまった。
「アルジュナか。オレは今、魔力供給に忙しい。なまえもだ」
「……ふ、彼女の表情を見るに、貴様の行動に大層迷惑しているようだが」
「何、なまえ、そうなのか」
「いや、うーん……」迷惑ではない、けれども、離れて欲しいとは思っている。「動きにくいくらいですね……」
 わたしはアルジュナさんの、その一歩で床を踏み割りそうな力強い歩き方に怖気付いてしまっただけだ。今だって、眉を吊り上げているその表情には戦慄して冷や汗をかいてしまうほど。わたしがおかしな表情をしているのは、少なくともカルナさんだけのせいではない。
「オレは知っての通り、おまえと違い燃費が悪い。魔力は適度に補充しなければ」
「……成る程、魔力供給という体で。そうですか。宜しい、ではなまえさん。お手をどうぞ」
「はあ」
 お手をどうぞ、なんて、物語の中に出て来る王子様みたいだ。しかし彼にそれを言われると、なんだか犬扱いされているような気分になる。とりあえず右手を差し出してみた。そっと掬われて、手の甲を親指で軽く撫でられる。本当に、「王子様みたいですね」「……ご存知でない?」「はい?」少しだけ、どきりとする。
「跪いて口付けでもしましょうか?」
 うっすらと浮かんだ不敵な笑みに、わたしの視線は瞬く間に彼のものになった。不機嫌そうな顔以外も出来るんだ、と失礼にも程がある感想が生まれてしまう。
 ジッとしていたカルナさんが、わたしの肩を少しだけ引いた。
「口付けとは、靴にか?」
「黙れ」アルジュナさんが眉を顰める。
「なまえ、オレにも手を」
 人の肩の上で喧嘩を売ろうとするカルナさんは、空いているわたしの左手を捕らえ、おもむろに掌を撫で始めた。
 はたから見れば訳の分からない光景だし、わたしは飲みたいエスプレッソを一滴も飲めていないし、二人の男性に前と後ろを阻まれて一歩も動けないし、大昔に読んだ少女漫画のような展開に、しどろもどろになっている。
「私はレイシフト先から帰還直後の身。魔力の補填を所望します」
「あ、なら、わたしの右耳辺りに、リツカちゃんの魔力残ってるかもしれません、」
 よ。と、右手をひっくり返し、アルジュナさんの手を掴んで引き寄せる。右耳にアルジュナさんの手を当てると、「な、」と二人して声を跳ね上げた。
 耳に触らせるなんて常識がないと思われただろうか。でも耳の掃除は耳殻までしっかりしているし、いや、相手はわたしの耳の事情なんか欠片も知らないのだ。例えそこに魔力が残っていたとしても、わざわざ人の耳に触れてまで欲しいものなのかどうかすら分からない。そもそもわたしにリツカちゃんの魔力は感知できない。本当に魔力供給なんてしていたのかすらわからないし。
「すみません、汚いですよね」
「いえ、」
  アルジュナさんは生返事をすると、指先をわたしの耳殻へと滑らせた。
 耳朶を指先で優しく挟まれて、耳の形を確かめるように、上へ上へとなぞられる。そわそわと皮膚が擦れる音が耳の傍で響いて、「う、ひっ」変な声が口から出てしまう。
「アルジュナ。部屋に戻ったほうが良い。酷い表情だ」
 カルナさんの驚くほど冷たい声色を聞いて、わたしはそろりと視線を上にやる。アルジュナさんは、うっそりと笑っていた。普段となんら変わらない顔のように見えて、ほんの少しだけ、口角を上げている。それもすぐに戻ってしまった。
「酷い表情とは。私は彼女の耳に触れただけだ」
「魔力供給など口実に過ぎない。なまえから手を離せ」
「えっ、嘘だったんですか!?」
「……む、」
 険悪なムードの中に混ざる衝撃の事実にびっくりして、声を荒げてしまった。「カルナさん!?」「……オレのは本物だ」彼が僅かに顔を逸らしたのをこめかみの辺りで感じる。「私も現在、耳に残ったリツカの魔力がなまえさんから流れ込んでくるのを感じます」そんな無茶な。双方の言い分は到底信用できるものではなく、わたしは言われるがままにこの二人のおもちゃになっていただけだったのだ。それが何よりも悔しかった。
「ひゃ、」
 両耳がこそばゆい。頭を左右どちらかに逃せばどちらかの刺激が強まり、本当に、八方塞がりになる。「も、もう終わり! 終わりです! 閉店!」このままでは恥ずかしいやらくすぐったいやらで、頭がおかしくなって死んでしまう。なんとかしてそこから抜け出すと、今度は二人の間で無言の睨み合いが始まってしまった。
 二人の向こうに見えるエスプレッソマシンがわたしの命令を待っている。通りかかったマシュさんに助け舟を出してもらえなかったら一体どうなっていたか、想像したくもない。
「頬擦りで魔力供給? 出来なくはないと思いますが、その、先輩となまえさんでは、残念ながら出来ないのではないかと……」その後、コーヒーブレイクを共にしたマシュさんの証言で、わたしは例の三人に完全に騙されていたことが明らかになった。
「御三方は、たぶん……魔力云々ではなくて。なまえさんから、なにか、特別なエネルギーを貰おうとしていたのだと思います。きっと、元気が出るおまじないのような……そんなことを、して欲しかったのだと思いますよ」そして彼女はくすりと笑って、「私も時折、先輩とやりますし」と続ける。
 わたしは濃いめに淹れたエスプレッソを急いで喉に流し込んだ。「お味のほうは?」マシュさんは黙り込むわたしを見て、ふふ、と楽しそうに笑った。




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