小説 | ナノ




 やはり鏡の前に立つのは苦手だ。ホラー映画なんかで登場人物が鏡の前に立つシーンがあったらもうそこに映り込むものはオバケか殺人鬼以外にあり得ないし、化粧をするときは基本的に一番醜悪な顔をしたわたしの顔面をありのままの状態で映し出すし、本当にろくでもない。なのに、無いなら無いで日常生活に支障が出てしまう。わたしにとって、鏡は恐怖と煩わしさの対象だった。
 別にオバケが苦手とかではない、けれど。人の魂の残滓が怨霊となって、この世に留まることもある、なんてことも、頭では理解しているつもり、なのだけれども。物理的に命を絶たれる可能性のある、質量を持った殺人鬼よりはマシかもしれない、しかし、双方がわたしに与える精神的苦痛は計り知れず。どちらがマシとかそういう話でもないのだ。
 いや、だってまさか。自室の洗面台に備え付けられている大きな鏡に、わたし以外にもう一人、それも見知らぬ男性が映り込んでいるとは、俄かには信じ難くて。
 まさか、まさか。息が詰まる。身体が固まる。白い癖毛の、長髪の男がひとり、わたしの背後に立っている。「……、」視界がぼやける。だれ。わからない。鏡越しに。顔が引きつる。熟れた月色の瞳と目が合う。合ってしまった。会ってしまった。
「……貴様は、何だ」
 彼はわたしに何かを問いかけている、知っている、知っている知っているきっとそうだ。あれだ、わたしが何か答えると死ぬやつに決まっているこんなものは! 都市伝説でよくあるタイプの! 一度会えば逃れられない交通事故レベルの怨念EX!
 何と答えれば逃げられる? そもそも自宅や自室に出てくるオバケの対処法なんて聞いたことがない! 枕元にバナナを置いて寝た経験はあっても鏡に映り込む男の撃退法なんてこれっぽっちも思い浮かばない! 頭の奥が熱い。腹の底がひくつく。心臓がばくばくと暴れ狂っている。褐色肌の男は顎を反らしてわたしを鏡越しに見下ろした。左肩に垂れ下がる赤い装飾の付いた三つ編みが揺れる。知らない知らない、どの怖い話にもこんな男は出てこない! 過去に無理やり見せられたどのホラー映画にも該当しない!
「耳が無いのか。それとも、恐怖で声も出ないだけか。結構。時間の無駄だ。死ね」
「あ、あう、う、待って、待って、こ、ろさないで、ころさないで……」
 絞り出した声が、きちんと声になっているかなんてわからなかったけれど、死ね、という言葉に、わたしの舌が勝手に反応した。続けて、ぽまーど、と小さく唱えたところで、その男が消えることは無かった。
 ただ、それに反応したのか。男はうっそりと笑った。微笑みなどではない、確かな嘲笑。
「あ、あああ……! やだ、いや、いやいやいや、もうやだ、やだああ……!」
 耐えられなくなって、咄嗟にその場にしゃがみこむ。相手はすぐ後ろにいるのに。でもこれ以上恐怖の対象を視界に入れておきたくない! もしかしたら見間違い、いや聞き間違いかもしれないし、そうだ! きっと夢か何かに違いない。「女。立て」聞こえない聞こえない、わたしは何も見ていない!
「立て」
 氷の冷笑が、わたしの脳天に突き刺さった。
 間もなく、髪を引っ張り上げられる。ぶちぶちと毛髪が千切れる音がして、喉が開いた。「やああ! いやああ! ごめんなさい! 立つ! 立ちます! やだ、やだやだ殺さないで!」物理的に触れられるオバケなんているものか! 触られた箇所が腐り落ちるとか呪い殺されるなんてことがあったらどうしよう。ああその前にオバケなどではなくて本物の殺人鬼かも。パニックに陥りながらも自分の意思で立つ旨を伝えると、わたしの髪に絡まっていた指が解かれた。洗面台のふちに手をついて身体を支える。
「貴様は何だ」
「わたし、わたしは、あの、なまえ、なまえです」
「……此処は」
「じんりけいぞくほしょうきかん……」
 やはり、後ろに、いる。わたし以外の誰かがいる気配がする。顔を伏せていてもわかる、寒気がする。背筋がぞわぞわと粟立つ。
 わたしは意を決して振り返った。せめて自分の目で見てやろう、何か対抗策が見つかるかもしれない! 焦点をすぐ近くに合わせる。背後には誰もいなかった。誰かが居た形跡もない。
 すとん、と心臓が元の位置に戻った気がした。
 なんだ、やっぱり夢だった。疲れてるのかな。くるりと首を捻って、また鏡の中を見る。
 居る。鏡の中の大半を占めて、男がひとり、立っている。「あう……」間抜けな声が出てしまう、苛立ちを宿した瞳と目が合う。
 鏡の中の男、なんて怪談によくありそうな話だ。言葉を交わしたら殺されてしまうとか、目が合ったら死ぬとか、そういう類の。絶対に数秒後にわたしの命はないと思っていたけど、なにやらわたしはまだ生きている。
「お、オバケですか?」
 わたしが恐る恐る口にした途端、彼は眉をぴくりとさせ、「いいや?」と答える。鏡の中にしか姿を現さないなんて、オバケ以外に何があるんだろう。でも、鏡の中だけに居てくれるならそんなに怯える必要はないのかもしれない。
 一瞬ほっとしたのも束の間、後ろ髪を掴まれる感触にぞっとしてしまう。そうだ、わたしは髪を掴まれたし、今も掴まれている。彼はその場にいないくせに、わたしに触れることができるのだ。
 冷静に、冷静になろう。オバケじゃなかったら、やはりサーヴァントなのだろうか。鏡の中を自由に行き来出来る能力を持っているサーヴァント、とか。ナーサリー・ライムさんみたいな、少し特殊なサーヴァントだとか。
 そうやってわたしが思索を巡らせている間にも、彼は不機嫌そうな顔でわたしの髪を梳いていた。女性の髪を欲しがる女の都市伝説を思い出して、耳の裏が痒くなる。
「か、髪、欲しいんですか、あげたら消えてくれますか……」
「本当に欲しければ貴様の首ごとはねている」
「ひぇ……」
 彼はわたしの髪を指に巻いて解く、という工程を繰り返している。欲しいと言うのなら本当にいくらでも差し出してしまいたい、この恐怖から解放されるのなら。得体の知れない人物と不可解な現象に、わたしの体温はどんどん上昇していく。
「……何がどうなっている」
 わたしが聞きたい。毎日使う洗面台にオバケが出るなんて信じられない。ダ・ヴィンチちゃんに言って、部屋を変えてもらうことも視野に入れないと、とてもではないが耐えらそうにない。
 髪が彼の指に絡まったのか、頭皮がぐいと引っ張られる。「痛い!」頭を振って、ばっと後ろを振り向いても、やっぱりそこには誰もいない。鏡に向き直る。居る。
「動くな」
 後ろには誰も居ない筈なのに、誰も居なかった筈なのに。わたしの鼓膜は、鏡の中だけに現れた彼の声音を絡め取った。左耳のあたりがぞわりとする。彼の長い髪が首筋に滑り込んで来てこそばゆい。ふと、背後からわたしを包み込むように、褐色の腕が伸びてきた。
 暗い色の掌が二枚、わたしのくちもとに近づいて来る。ピタリ。冷たい指の腹がわたしの唇を軽く押し込んだ。
 右手の中指は下唇へ。左手の中指は上唇へ。ゆっくりと左右になぞられ、わたしは未知の恐怖に声を上げることも出来ないまま、ふと呼吸を止めた。彼の手の甲に刻まれた複雑な紋様に、視線を奪われてしまう。
 そして、彼はわたしの左耳の近くでこう囁いた。
「この鏡の前で生じるあらゆる現象に関して、一切の口外を禁じる。意図せずとも、貴様が他言するようなことがあれば――」
 どろり。わたしのくちびるをなぞる指の先から、宙に滲む漆黒の靄が溢れ出る。
「この口は、瞬く間に裂けるだろう」
 唇の端から頬を通り、耳の手前までを指の腹でするりとなぞられる。まるで、ここからここまで、と云ったあたり・・・を付けるように。
 通過した指先はわたしの横髪を優しく払った。顔に引かれた黒い靄の線は、宙に溶けるどころかわたしの肌に染み込んでいくようにして消えていった。
 他言すれば、口を裂くと。わたしはそう言われたのだ。耳まで裂かれた口と云えば、整形手術に失敗した女の霊――口裂け女の逸話が一番有名だ。
「口を裂かれたければ好きにしろ。貴様が言葉を発する前に、これが、作動するだろうが」
 クク、と喉で笑いながら、彼はわたしの口にその冷たい指を突っ込む。「ぶぇ」右頬を内側から引っ張り上げられる。口内の粘膜に、頬側から引かれたラインに沿って、ぼんやりと青白い光を灯した謎の文字列が浮かび上がっているのが見えた。
 わたしは遂に、口裂け女を生み出した整形外科医の正体を突き止めてしまった。「あぅ、う」まさか剃刀も使わずにこんな……想像して気分が悪くなる。このままではわたしが口裂け女の幽霊になってしまう。
えっはいに絶対にあれりおいいあへんあら誰にも言いませんから……」
 泣きそうになりながら、決して他言しないことを誓う。知らない人に口内に指を突っ込まれて、間抜けな顔で命乞いをするなんて人生で初めてだ。なんだか恐ろしい呪いじみたものまでかけられてしまったようだし、鳥肌が止まらない。全身がこそばゆい、身体が内側から凍りついていく。
 口から指を抜かれた後も、片頬に氷を含んでいたような感覚が消えることはなかった。背中に冷気を受けているような気もする。やっぱり彼は幽霊か何かに違いない。
 押さえた両頬は冷たい。わたしは彼に後髪を弄られながら、どうやってこの現場を切り抜けようか、そればかりを考えていた。




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