小説 | ナノ




「……誰だ」
 彼はきょうも、何も憶えていない。
「わたしです、なまえです」
「……聞き憶えが無いな」
「昨日、あすの昼にここに来てくれと、エミヤさんが仰ったんですよ」
「憶えが無い、と言っている」
 彼は自嘲気味に笑ったけれど、その眼孔には疑惑の念を宿した瞳が強膜に包まれながら嵌め込まれている。わたしは少しだけ泣きそうになるのを堪えて笑った。彼はわたしを見てくれたのだ。
 彼の佇む大窓の近くに寄ると、褐色の手がピクリと跳ねた。「なにもしませんから」頭の横で両の掌を彼に見せ、武器も何も持っていないことを伝える。降参と服従を示すと云うよりも、彼に歩み寄るためにはこれが一番手っ取り早いと知っての行動だった。薄ら笑いを浮かべながら、気の立っているけものの傍に寄る。
「暇だな」煽られてしまう。
「休息時間です」
「その貴重な休息の時間をここで無駄にするつもりか?」
「無駄じゃないですよ」
 彼の隣に立つものの、距離は随分と遠い。ちょうど、人ふたりぶんくらいの距離だった。わたしは窓に手をついて、「つめた、」とすぐに手を引っ込める。
「要件を言え」
「特にないです。エミヤさんがいたので、近寄ってみました」
「フン、馴れ合うのが得意な女はさぞ生きるのが上手いのだろうな」
「ありがとうございます。エミヤさんは、ここで何してたんですか?」
「……さあな」
 その横顔は嘘を吐いているようには見えなかった。実際、そうなのだ。
 彼の視線は常に白銀の世界に向いている。その淡黄色のひとみがわたしに向くことはほぼ無い。ただ、決まって三回。一日に三回だけ、彼はわたしのほうを見てくれる。
「わたし、最近自分で紅茶を淹れるようになったんです。少しだけ日々の生活が豊かになったように思えます」
「めでたい頭だ」
「たまにスープマグでインスタントのコーンスープを飲むんですけど、味に飽きてきてしまって。それで、自室のキッチンでコーンスープをつくったら、意外に美味しくて」
「そういった無駄な消費で、いざと云うときの食糧の備蓄が無くなる可能性までは考えないのか」
 嫌味の強い相槌を打たれながら、わたしは自分の話をする。大体食べ物の話が多くて、それに対するエミヤさんの発言は殆どが辛辣なもので。それでも、次第に彼の発言の節々に生えていた棘は取れてゆき、声色はどんどんまるくなっていった。「あんたは、」ふいにこちらに視線を送られるその一瞬が、いちばん、どきりとする。
 名残惜しくも休息時間が終わりを迎えようとしていることを伝えると、彼は誰にも気付かれない程度に眉根を下げて、わたしのほうに首をひねる。
「あすの昼、ここへ来るといい。あんたの生活習慣の改善点をまとめてきてやる」
「はい、楽しみにしています」
「全く、マスターよりも手がかかる」
 そうして、彼と別れる。穏やかな声で微笑む彼に、数分前の怪訝そうな表情は欠片たりとも無かった。
 わたしは毎日、同じ時間に、同じ場所へと訪れる。すると決まって、そこに彼が立っている。誰かを待っているようすでもなく、また、何かをしている訳でもない。はめ殺しの大窓の前で腕を組み、ただ、豪雪に殴られている外の世界を眺めている。
「……誰だ」
 彼はきょうも、何も憶えていない。
 何も憶えていないまま、そこに立っている。光にかざした蜂蜜色の瞳を、薄ら笑いを浮かべたわたしに少しだけ向けてくれる。もう、瞳を向けてもらった数も忘れてしまった。明日もきっと、彼の頭の中にわたしはいない。わたしはまた、もうすぐ無くなる。




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