小説 | ナノ




 一雨来そうな空の色だった。太陽を隠した暗雲の腹がごろごろと唸っている。家の前の道を小走りで去って行く通行人の姿を見て、なまえはカーテンを閉めようとリビングの大窓に近付いた。
 ぽつりぽつり、小粒の雨が道路の深緋色に暗い色を乗せていく。間も無く、窓の形に切り取られた外の世界は透明な縦筋を見せ始めた。降り注ぐ雨粒が、景色を細かく裂いていく。
 なまえが不安そうな顔で外の様子を眺めていると、窓硝子に息子の姿が反射して映っているのが見えた。
 自分と似ても似つかない顔も、腰まで伸ばされてしまった青い髪も、気に入っているらしい紺色のパーカーも、どこも濡れた様子はなかった。明るい青のデニムの裾が、少し湿っているくらいだ。雨が降る前に帰宅した息子に声をかけようと、なまえはカーテンを閉めながら微笑み、振り返る。
「おかえりなさい」
 なまえは、自分のすぐ目の前に息子が立っていることに気がついて、びくりと肩を跳ねさせた。硝子越しにその姿を確認したときは、もっと自分と息子との間に距離があるものだと思っていたのだ。
「ただいま、母さん」息子の口から出た帰宅のあいさつは、不機嫌そうな声色に染まっていた。
 なまえは息子の心情を察しようと考えをめぐらせる。しかし、特別彼の機嫌を損ねるようなことをした覚えはなかったため、彼がなぜそれほど苦渋に満ちた顔をしているか理解できなかった。
 息子はなまえの肩を引き寄せながら、鼻を近付ける。
「男物の香水の匂いがしやがる。オレのじゃねぇな、母さんのでもねぇ。なあ、誰のだよ」
 なまえの息子はよく鼻が利いた。その犬のように鋭い嗅覚は、しばしなまえのことを恐怖の淵へと追いやった。恐らくそれは彼女から受け継いだものではないからだ。
 彼はなまえの実の息子であるというのに、驚くほど母親であるなまえに似ていなかった。本当に彼は自分の腹から生まれて来たのかと、毎夜の如く彼女の頭を悩ませるほどに。
 彼は、なまえの言うことには従順だった。子どもの頃から。周りの大人たちから神童と呼ばれたこともあった。多少、大人び過ぎているとも。寧ろ、赤ん坊の頃から出来過ぎているとも言われていた。まるで、この小さな身体に宿るのが初めてでは無いとでも云うように。
 なまえは怖くなって、彼が学校に行っている間、家に男を招き入れたことを正直に話した。半年前に復興地域の跡地で出逢った人で、最近とくに気になっている。向こうも自分に良くしてくれている。もしかしたら、この家庭の欠員を埋めてくれる最初の一人になるかもしれない。
 彼女の言葉を大人しく聞いていた彼だったが、この家庭に足りないものの呼称がなまえの口から飛び出した途端、瞳に忿怒の色を乗せて奥歯を噛み締めた。
 骨が折れるほどの力でその細い腕を掴み、近場のソファへと彼女の身体を放り投げる。背凭れに肩を打ち付けたなまえは、息子から初めて受ける暴力にひどく混乱し、おびえていた。
 彼はなまえの身体をめくり返して馬乗りになると、怒りを隠しきれない表情でなまえを見下ろした。
「あぁ、何、結婚でもするつもりかい。息子のオレに注ぐ愛情はもうひとっかけらも残って無いですってか。そーかい、そーかい。まぁいいさ。幸い、そいつの臭ぇニオイが家中に染み付いてやがる。追いかけて心臓穿って八つ裂きにして、テメェの目の前にそいつの首突き付けてやるよ」
 その粗暴な言葉に、なまえは今度こそ目を剥いた。垂らされた青い後髪が、なまえの左胸をゆるりと撫でる。
「あのときみてぇにめちゃくちゃにしてやろうか、なまえ」
 あのとき、というフレーズが、なまえの記憶の底でジッと身を潜めていた魔物を解き放った。
 十八年前と同じだ。なまえの心臓が跳ねる。当時の情景が、彼女の脳裏に鮮明に浮かび上がってくる。己の左胸から突き出た紅い槍、やぶかれた衣服、薄暗い煤けた天井、自分の身体をもてあそぶ男の顔。その男は、眼前で薄ら笑いを浮かべている実の息子の顔に酷似している。
「そいつとどこまでしたんだよ、なあ、キスは。オレを産んだこの身体も明け渡したのか。なあ、どうなんだ。今回はルーンなんざ使えねぇからな、手違いで殺しちまったら終いだ。あン時みてぇに暴れんなよ、母さんなまえ
 幼い身体で腹を痛めて産んだ子が、その子の父親でもあっただなんて、誰が想像出来るだろうか。産道を通って生まれた子どもが、膣道を通って母胎の元へ帰ろうとしている。
 深紅の双眸が、獲物に視線を刺し込んだ。「なまえ、」母親は死んだ。彼女は今一度、彼が求めた女になる。




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