「おねえさん、俺、おねえさんのこと好きだよ」
それが秘められていた想いなのかを判断する術は持ち合わせてはいなかった。
好ましいと思っていることは確かだ。欲していることも。求めてやまないことも。
なまえ――と俺は呼んでいる、カルデア職員の三流魔術師――をきつく抱きしめて、そう告白する。既に屹立はそそり立ち、布越しに股ぐらを押し当てただけで臓器が疼いた。
腕を巻き込んで抱きしめてしまうのが、相手を拘束できる上に密着感が得られて良い。
え、とか、う、とか言いながら、なまえは動揺したような仕草を見せる。そう簡単には抜け出せないよう、狭い背中を胸の中に押しとどめた。無理に抜け出そうものなら、関節の一つや二つ外してやることも厭わない。
肩口に顎を引っ掛けて、更に絡みつく。親が子どもにするように。俺に親など居たか。俺が子どもであったことなど果たしてあったのだろうか。原本は残っているか。観測された手立てはあったか。
俺の腕に、なまえの指先が埋まりゆく。外殻を侵す甘い毒棘。チクリともしない。然し、柔らかく、その部分に熱を持つ。
「……なに、なんですか」
口だけは冷静を装っている。俺は少しだけ楽しくなって、ぬるい耳の裏に鼻先をすり寄せた。
なまえの、端末に触れるその指先が欲しかった。そんなものより俺の生肌に指を滑らせて欲しい。熱のこもった指の腹で、俺の胸を引っ掻いて欲しい。
このまま拾い上げて、どこか二人きりになれる場所に行きたい。胸の中は一時的な多幸感に包まれている。それでも、やはりどこまでも一時的なものだ。これを、永続的なものにしたい。
「おねえさんがだぁい好きな、アサシンさんだよ」
叶わぬ願望、馬鹿げた幻想、俺自身がそうなのだから、少しくらいは己の欲望に忠実であるべきだろう。仮初めの夢くらい願ってもいいだろう。目覚めるまでそこを現実とするならば。
「おねえさん、ねえ、なまえ」
唇で耳を擽る。良い匂いがする。女の匂い、なまえの匂い。腰の下辺りが熱くなる、甘い痺れを期待させる匂い。
「ひっ!?」
「おねーさん、俺の話聞いて」
「なに、なに!?」
「ふふん」
蠱惑的な笑い方とはこうやってするものだ。見本のような息の抜き方だろう、なまえの耳の先がほんのりと赤くなってきている。
両手を奪い取って、軽く指先同士を絡め合う。冷たい。温めてやらないと。そこばかりではない、芯のほうから。根のほうから。核のほうから。
「んー……エロいことしよぉ」
吐息を混ぜて、耳の穴に言葉を流し込んだ。「はぁ……っ!?」困惑するなまえの声は既に泣きそうで、足も震えていて、心臓は跳ね回っているようで。
可愛いな、このまま全部脱がしてめちゃくちゃにしてやりたい。奥まで突っ込んで内側引っ掻き回していろんな奴になまえの痴態を見せつけて、こいつは俺の女なんだって知らしめたい、せめて今だけは俺のものなのだと手垢をつけて、誰の手にも渡らぬように。
俺がそう思ったんだ。他の誰でもない、俺が。これは俺だけの感情だ。俺だけの。俺だけのものの筈だ、でなければこうは思わない筈だろう。
「やめてっ、なんなんですか!? 離して!」
「ヤダ」
「っ、触らないで!」
「むり」
そんなに尻押し付けられたら興奮するに決まってるだろ。肩口に歯を立てて、手のひらでまるい胸を包み込む。「馬鹿!? やめてって言ってるのに!」「じゃあ俺の部屋行こ、行かないならここでしよ」抵抗を続けるなまえは、俺の加虐心に火を付けるのが本当に上手い。
「……やっぱここでする」
「なんで!?」
「スリルがある方が燃えるだろう?」
手甲を解いて、素手を晒す。片手でなまえの両手首をまとめて、空になったもう片方の手で、柔らかな腹に手の平を這わせる。「おー、おねえさんのお腹ぁ……」ひひ、と耳元で笑うと、うう、と恥ずかしそうに唸る。息も乱れてしまっていて、相当興奮しているのがわかる。
「待って、待って! 本当に、っ……」
「……アサシンさん」
「え?」
「アサシンさんって呼んで」
「ア、アサシンさん」
「うん、俺はアサシンさん。俺は、アサシンさん、だよなぁ?」
それこそ何回も首を縦に振って、俺の言葉を肯定する。可愛い。口でして欲しいし、出たものも飲ませたい。全身俺の精液まみれにして、俺のものだって証拠を沢山付けてやれば、それは周知の事実になる。例えそれがどんなに短い期間であっても、その一瞬だけは、事実だ。本当のことだ。唯一、本物、というモノに限りなく近付ける。
口角が上がる。視界が細くなる。「手ぇ繋ごうよ」細い手首に指を這わせて、分かれた先を探してそこを滑らせた。いいね、近い、肌も熱も存在も、何もかもが、赦されていることを感じる。「折ったりしないからさ」手のひらを指先で愛撫したのは、軽い挨拶のつもりで。
ひゅ、と宙を裂く音がした。
「折ったら殺すッ!」
右耳を貫いたのは上空からの怒声だ。
空気の揺らめきを肌で感じる。上体を傾ける。右肩二寸上を、見慣れた足が掠めた。
随分と早い到着のようだ。
なんとも、空気の読めない男である。
“それ”は一度着地するともう一度飛び上がり、再び上空に浮いた。追撃のもう片方の足が飛んでくる筈なので、その攻撃を腕で払いながら即座になまえを掻き抱いた。床の上に雪崩れ込み、しかし地と接着しないように身体の下へと腕を滑り込ませる。ついでに上へと伸ばした足で男を蹴り飛ばし――当たらず。すかさず飛び退いたようだ。
俺が、俺がなまえを守ってやらないと。自分の陰に矮躯を隠して、闇の中に着地したそれに視線を送る。
ぎらぎらとした獣の目だ。歯の隙間から息を吹いている。構えこそ鋭く、しかしどこかゆるく、見覚えのある形である。
興奮している、俺とは別の感情によって。
俺だってそうする、だってこんなものを目の前で見せつけられたとしたら。
あまりにも面白くない。解ってしまう。
解るさ、俺だけは解る、俺がそうだから。
「なっ、なに、えっ?」
「――――あ、大丈夫かっ? 怪我ないか? 怖かったな、俺が守ってやるからな。じゃ、チューしよぉ」
「え、なんで?」
「魔力供給」
「いやちょっと……っ」
肌を近づけても、顔が近づくことはなく。二枚の手のひらが俺の行く手を阻んでいる。「おい! てめェ、離れやがれ!」怒号が聞こえる。「やァだ!」言葉で躱す。受けるべきはあれの声ではない。
あいつがこちらに手出しが出来ないのを、俺は知っている。何故なら俺もそうは出来ないだろうから。届かない距離を埋めるためには腕の中にしまい込むのが一番だ。ばくんとかぶりついて、柔肌に指を滑らせる。
「おねーさんはさっ、相撲が強い奴は好きかい?」
「えっ、スモウ?」
「そ。相撲! 俺、相撲得意なんだ。あの敬天柱を破ったこともある」
「誰」
「任原だよ」
「いやわかんないです、近い、離れてください」
「やだァ。俺が離れたら、おねえさんあいつに攫われちゃうかもしんないじゃん」
あいつ? と零すなまえが、ふと影のほうを見やると。じっとりとした闇の奥から、これまたじっとりと暗い顔の男が現れた。
それは俺と全く同じ顔をしていて、背丈も同じで、髪の形も同じく、瓜二つの、双子のようなかたちをしている。違うのは、表情だけ。
名を、燕青。かの梁山泊一の浪子燕青である。
「え、燕青? ……ふたり?」
「違うよぉ。俺は、アサシンさん、だろう。あいつは燕青」
俺の表情が険しくなる。俺の表情は変わらない。
俺の重心があやふやになる。俺の重心は常にここにある。
俺の瞼が大きく開かれる。俺は瞼をゆっくりと細める。
「俺は、おねえさんがだーいすきな、アサシンさんだよ」
こめかみに頬ずりをして、感情表現にいそしんだ。
空気が変わる、粘り気のあるものになる。殺意とはまた違う、これは。
俺が顔をなくして駆けてくる。ぱっとなまえを離す、然し遠くには放らない。拾われてしまうのを避けるためだ。
腰を低くして後ろ髪を靡かせ、腕をしならせる、俺のような男。
三度の突きを首を傾けて避け、懐に潜り込む。俺は直感でぐっと背をしならせるだろうから、俺の拳は振り上げても当たらない。
渦を巻く黒髪の束は、鳳凰の尾だったのかもしれない。はて、鳳凰、とは。俺の身体に刻まれているのは龍と牡丹と墨色の義である。
相撲とは禁じ手と隠し武器さえ使わなければ何をしてもいい競技だ。足技を腕で受け流そうとするも、ふと思いつきで脛を取っ掴む。「――!」息を飲む音は聞こえない、俺ならば息を飲むであろうから、そう予測しただけ。
ぐるりと自身を振り回し、「そぉらッ!」精密機械の密集するところへ高く放り投げる。良い加減な受け身は出来まい、何故ならあそこはなまえにとって大切な、大切な。
然しこの程度でくたばる男ではないことを俺は知っている。素早く身を捩らせて宙の空気を全身で絡めとった。長い髪の尾を垂らしながら、音を最大限に殺して機材の上へと着地する。
ぐっと喉を反らし、牙をむいた獣がこちらを睨みつけた。「てめえ……!」怒気を孕んだ唸り声を聞く。てめえ。それしか言えなくなっているとは、随分とおかんむりのようだ。なんとも心が躍るが、俺が踏み出す前になまえが一歩前に出た。
「の、乗らないで! そんなとこ! 乗ったら壊れちゃう!」
「いやそいつが俺をこっちにぶん投げて!」
「わああそこ踏まないで!」
大声で叫びあう。楽しそうに。仲睦まじそうに。
「ゆっくり降りて! ゆっくり! 急に飛び上がったりしないで!」
「わぁってるって! ほらこうやって」
「ぶら下がるのもだめです!」
「はぁ!? ンなの一生降りらんねーだろ!」
空気が、冷えていく。
俺には一度も出したことのない声を上げる。焦燥感に満ちた横顔は誰かに向けられたもので、俺に向けられたものではない。横顔とは俺以外の人物に気が向いている証拠のひとつ。
ああ、これは。
つまらない。つまらない。
「ズルいズルいッ、俺ともお喋りして!」
「ぎゃっ!」
ぶつかるような突然の俺の抱擁に、なまえは悲鳴を上げた。遠くからは馬鹿の一つ覚えかと思うほどに大きな俺の怒号が立ち、俺は腕の中の矮躯を必死に抱きとめる。「ねえ、あんなの放っておいて、どっか行こうよお。エロいことはいいからさ、なんか食べながら、二人で話そ。二人で」「痛い痛い! 待って、いたい、いててて」「俺以外と喋るなよぉ〜、俺ならここにいるんだし」「自分で何言ってるか理解してます!?」俺に対して怒っている。俺に意識を向けてくれた。あれではなくて、俺に、俺自身に。
俺にとってそれは、マスターに対して行われる存在証明と同じくらい、大切なことなのだ。
「あいつ殺したら俺とデートしてくれる?」
「は!?」
「好きなものなんでも買ってあげるし、いっぱいサービスするよ。俺のこと、一晩独り占めにしてもいいよ。どこ触ってもいいよ、俺に何してもいいよ」
「いやちょっと待っ……」
空気のうねりを感じる。いいや、殺気か。肌を刺すは一筋の視線、それと、熱く尖った感情の槍である。
槍は遂に飛んできた。使い手はおらず、己の意思で対象である俺に向かって走り出す。
俺の脇腹を貫くことばかり考えて、それなのに、自分の内側のことを何も知らないままに、誰かからの印象を塗り替えられることを恐れている。
だって俺は燕青であり、この女にとってのアサシンさんなのだ。つまり、俺はこの女に自分ですら認められぬ感情を抱いているということになる。
それを認めようとしないのが、あの黒く長い槍纓をなびかせながら一直線に飛んでくる華の槍である。
なまえを持ち上げてひょいと槍を避け、俺は走り出した。横抱きのほうが印象は良い、すぐさま持ち直し、腕の中の悲鳴を聞きながら目を剥く男に義を向ける。
「てめえ!」
俺はおまえだろうに。
叫ばれた二人称は自身に対するものなのか、今は限定すべきではない。重要なのは誰が誰として見られているかであり、「――!」そして時には“そう”見られないことも必要なのだ。
ぐんと後髪を引かれ、少しだけ迷ったが、俺はそれを即座に
後方で喫驚の声を上げた自分に向けて、「バーカ!」と罵声を吐いた。髪を切り離し軽くなった身体でどんどんと距離を広げていって、遂には追ってくる姿も見えなくなった。
よく見知った廊下で、初めて呼吸をする空間で、俺は自己証明の鍵を抱きかかえている。
「危なかったなぁ、あのニセモノは気にすんなよ。見つけたら俺がとっちめてやるからな」
床へと降ろして身なりを整えさせて、乱れた細い髪に指を這わせる。するとなまえの視線が、俺の目ではなく、少しずれた場所をなぞった。
「……あ、アサシンさん?」
未だに現状を把握できていないのか、目を丸くして俺を呼ぶ。そういえば俺は今、普段と別の風貌であるなと、人の髪を弄りながら気付く。次から次へと起こる事象についていけないのは、凡人たる所以。
震える声は甘美なもので、俺を俺たらしめる音の流れについ、癒える。
「そぉ、俺はアサシンさん。おねえさんがだぁいすきな、アサシンさんだ!」
笑って、ぎゅうと抱きしめて、埋められていなかった部分の距離を無くす。
彼女が俺をアサシンさんと呼ぶのなら、俺は真のアサシンさんで間違いはないのだ。だってホラ、先ほどのあれは燕青であるのだから、俺がアサシンさんということは、街に放たれた炎を見るよりも明らかだろう。
なまえが俺を燕青と呼んだ暁には、きっと。俺はそこからいなくなる。いなくなって、然るべきなのだ。