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(そうさ開幕嘔吐描写のつづきです)


 今日は二回吐いた。昨日は一回で済んだ。明日はイベントだし三回は吐くだろう。割ともうそろそろ限界か。っていうのは嘘で、でも結構本当、隠すべきは本性、けれど生きるからには本能ってやつを大切にしたい。
 ホストになりたての頃の記憶は未だに新しく、朝焼けを見ながら仲間と飲む水は格別だったことをよく思い出す。ただのミネラルウォーターが死ぬほど美味かった。朝の冷たい空気は酒焼けした内臓によく沁みた。
 臓物を潤すのは三鞭酒だけじゃない。伊弉冉一二三の身体に鞭を打つのが酒だった。依存とは違う。寧ろ俺に依存しているのが酒のほうだ。俺がいないと売れもしなかった酒だってごまんとあるんだ。
 客層もだいぶ変わった。だから俺たちも変わらざるを得なかった。当初の標的は大抵キャバ嬢の子だったが、今では一般の女の子も大々的にお客の対象になった。
 嬢を連れてくるのは容易い。夕方から夜にかけて少し営業すれば大抵の子は店に来てくれる。その子からホストに興味がありそうな身内か一般の子を紹介してもらうのが正解だ。嬢は金払いが良いけど店の基本システムを理解してるから途中からパタリと来なくなる(本気でのめり込む子もいるから、結局は相性なのだと思う)。今は定時退社のOLさん、四十代後半のおばさまあたりが狙いどころだ。理由は一つ。自由に使えるお金があり、尚且つ暇さえも持て余している人が多いからだ。
 このご時世、並大抵のキャッチでは人は寄り付かない、だからと言って今の俺には前みたいにキャッチをやらせてもらえるほどの暇はない。裏方の仕事すら減ったものの、自ら率先してやると逆に仲間の迷惑になる。
 どれだけ店の指示通りに動き、どれだけ客の思想通りに動けるか。その中で輝くものが俺であるならばそれが一番良い。
 同伴するのは特別な太客のみだ。店の外だからって手は抜かない。普段通りの接客をする。普段通りを毎回こなす、それが一流というものだ。
 スーツを脱いでからがプライベートで、それまでは勤務中の俺と何も変わらない。見た目もトークもそのままだ。
 変わるのは外の世界だけ、目まぐるしく動くのは人と物と光だけ。
 俺はずっとこのままで良い。変わらなくて良いんだ、だって一度は変わり切ったのだから。

「あ、伊弉冉さん」

 本当に現状維持だけが最適解なのか?
 変化を望まないことは退化への布石ではないか。退化とは進化のうちの一つ、けれども俺にとっては現状維持だけが自分を保つことの出来る最大の……。

「イザナミさん?」

 首の骨が軋んだ。肩が跳ねたのは気のせいじゃない。「ふぁ」間抜けな声が出たのは気を抜いていたからでもない。
 その声の主が、俺が何重にも塗り固めた筈の分厚い膜を、丁寧に剥がすことを得意とする人間だからだ。

「こんばんは」
「こん……ばんは」
「あれ、おはようございます? もう朝でしょうか」

 剥がすなんて甘いものではない。これは融解だ。
 溶かしてくる。今まで折り重ねてきた強固な膜が、一度撫でられただけで爛れ、腐り果てる。しかもそれを無意識の内にするのだからたまったものではない。
 街灯と薄明るい世界に照らされながら俺の目の前に現れたなまえちゃんは、いつにも増して俺の心を揺らしてくる。

「帰りですか。ご一緒してもいいですか」
「あ、ああ、勿論!」
「伊弉冉さんの後ろについていくと、お隣さんと言えど、ストーカーと間違えられてしまいそう。ふふふ」

 そんなことないよ。いやぁ、君みたいな人と一緒に帰れるだなんて素敵だな、今度食事でもどうかな。
 言え! 言うんだ一二三、いつものように! 今の君はそういう人間キャラだろう!
 嫌だ! だってまだ俺っちなまえちゃんの名前も知らないって体なんだぜ! 配達員の人が持ってた封筒チラ見したから名前知ってるだけなんだよ! そこまで仲良い訳じゃないし!
 でも向こうから話しかけてきたってことは、悪い印象も持たれてないんじゃ……。い、一応、ストーカーのこととか、知ってるみたいだし……。

「……この前はごめんね、取り乱してしまって。酷く酔っていたみたいで……あまり憶えていなくて。いや! キミに介抱されたことはよく憶えているよ」
「観音坂さんが丁度帰ってきてて良かったですね。あのとき、わたしどうしようかと」

 ほら向こうも前回のこと気にしてるんだ、食事に誘って謝礼をするんだよ! こんなチャンスは今しかない!
 なまえちゃんと一緒にメシ食えたらラッキーだけど、まだ怖くね? そもそもなまえちゃん俺っちに好意持ってるかもわかんねーし! これ以上迷惑かけんなって思ってるカモ……。
 今日一段となまえちゃんの声冷たくないか? も、もう話題変えるか野暮用思い出すかしたほうが……。

「あんまり無理してお仕事すると、またゲロ吐いて倒れちゃいますよ」
「うん、もうあんなカッコ悪いところは見せられないからね。体調管理には気をつけるよ、ありがとう!」
「わたしはいくら目の前でゲロ吐かれても大丈夫ですけど」

 ふふ、と俺の見えないところで笑う。世界がまだ薄明るいからか、俺の視力が落ちたのか、なまえちゃんのうなじはよく見えなかった。
 それってどういう意味、と口から出る前に、「仕事柄、慣れてるので」と補足が飛んできた。しかも、若干照れくさそうに踵を強く蹴り上げて。

「伊弉冉さんみたいな人があんなにげーげー吐いてるの、ちょっと意外でした」
「えっ……ひ、引かれちゃった……かな?」
「いえ。わたしはうまく吐けないタイプなので、ちょっと羨ましいなと思います。吐くと、逆になんか変な気持ちになっちゃって……なんの話してるんだろ。ごめんなさい。そういう意味じゃないんです」

 そういう意味ってどういう意味。ヒールの音は答えにならないよ。今ここで聞いたとしてもはぐらかされそうな気がして、追って詮索するのはやめた。
 俺と帰宅時間が同じということは夜勤か水商売か独歩のような残業朝帰りコースの人間ということだ。もしくはオールで遊び歩いていたか。「そういえば、こんな時間に女性が一人で出歩くなんて危ないよ。いつも帰りはこの時間?」さり気なく普段の行動パターンを聞いてみる。これってストーカーなんだろうか。いや、俺はなまえちゃんを心配して……心配したところで人のライフスタイルに口を出して良い理由にはならない。

「今日は遊びの帰りです。友人が終電に乗り遅れてしまったので、朝まで飲んでました」
「朝まで! 凄いなぁ、お酒は強いのかい?」
「いえ、そんなには。ワインを多少飲むくらいです」

 ワインならうちの店でも各種取り揃えているし、もし来てもらえたらサービスするんだけどな。なんて言ったら勧誘だと思われそうだ。それに、ワインを多少飲むくらい、と言っている人間にワインのサービスは効果的ではない。特別好きなおつまみなんかがあれば多少は。でも今は“そういう時間”じゃない訳だし、このナリの俺が少しでも営業じみたトークを挟んだら嫌がられるだろう。
 だって彼女は僕の子猫ちゃんではない。オレっちのトモダチでもない。俺のコイビトでもない。
 ただの、お隣さんだ。
 少し話をする機会に恵まれただけの、赤の他人なんだ。
 でも、それって結局、皆そうだよな。

「あ、そうだ。お名刺ください、お名刺」
「ふぇ」
「名刺、伊弉冉さんのお店の」
「え、お、おれの?」
「そうですよ、ほかに誰がいるんです」

 今日の彼女はあまり表情がない。愛想笑いも薄い。目も少し潤んでいる気がする。
 だから、どうしても。本気っぽく見えてしまう。何に本気かなんて、この俺に言える筈もなく。

「わたしみたいなのは客層じゃない感じですか」
「いや、とんでもない! 是非来てほしいくらいだよ。はい、僕の名刺。来る際はここに書いてある連絡先のどれかに連絡してもらえれば」
「わかりました。……あ」

 素敵なお名刺ですね。
 社交辞令であることは分かっているし、ホストの名刺と言っても何ら特別なものではない。
 今回の名刺はそれ一枚に付加価値を付けないために顔写真も入れていない。少し前にバストアップの写真を入れた名刺を配ったら、オークションサイトでそれなりの値段で取引されてしまったことがきっかけですぐに廃止された。
 だから今回は、ただ必要な情報のみが記載されただけのものだ。名前と、MCネームと、店名と、仕事用の連絡先しか書かれていない。
 彼女に、なまえちゃんという人に。
 自分以外の要素を褒められるというのは、なんだか。

「ありがとう」

 褒められるのは嬉しいことの筈なのに、咄嗟に出た言葉はそれだけだった。もっと女の子が喜ぶような言葉だって出る筈だった。
 変な気分だ。

「今度、お店。お邪魔してもいいですか」

 勿論、と二つ返事が決まり文句の筈だ。なのに、唇が震えて、咥内が粘ついてしまって。
 なまえちゃんがうちの店に来たら、他の人が、俺よりも長い時間、なまえちゃんの相手をするんだよな。
 それは、少しだけ。嫌かもしれないことだった。「うん。是非来てくれたら嬉しいな」嘘ではないけれど、本当とも言い難い。来て欲しいけれど、来て欲しくない。俺を見て欲しいけれど、見て欲しくない。どの俺も俺の筈だから、どの俺を見られても構わない筈なのに、どの俺もがどれかの俺だけに特別な正負の感情を向けられることを恐れている。
 パタリと足音が止んだのは、歩く必要がなくなったからだ。それはお別れの合図と同じだけれど、気を緩めるにはまだ早すぎる。

「あ、ではここで。送っていただいて、ありがとうございます」
「もうそんな、寂しいな……。次はお店で会えたら……僕を独り占めにして欲しい、なんてね」

 何言ってんだろう俺。別になまえちゃんを客として呼び込みたい訳じゃないのに。何気ない勧誘はホストとしては満点かもしれないが、この場で決行するのは失格であるし、隣人としてはもっと失格だ。
 嫌われたくない。訂正すべきか。なまえちゃんは既に自分の部屋の扉を開けてしまっている。時間はない。けれどもここでしっかり言い直さなければ伊弉冉一二三としての価値を下げてしまうことになる。ホストに悪い印象を持たれる原因の一つさえ俺になってしまうのは避けたかった。
 嘘だ。嘘つき。俺は大嘘つきだ! 俺はなまえちゃんに軽蔑されたくないだけだ。俺はただ、なまえちゃんにとって不利益な人間になりたくないだけだ。そう見られたくないだけ!

「伊弉冉さんは、みんなの前で独り占めにされたい人なんですね」
「え」
「あ。営業トークでしょうか、失礼しました。じゃあ、また、独り占めしにいきます」

 おやすみなさい。
 その一言に返そうとした、歪な挨拶を遮断するかのように、金属の扉は固く閉ざされた。
 またってなんだ。また独り占めしにいきますって、なんだ。

――ご一緒してもいいですか。

 その言葉が脳内でリフレインして、胃の底から熱いものがぐっと込み上がってくる。
 俺が大好きな表情で、なまえちゃんはそう言った。

「ご、ご一緒しても、いいですか、だってえ……え、へへ、へ」
「うげ……一二三、流石にキモいぞ……」
「へへ……」

 休日にしては珍しく、朝早くから起きていた独歩に事の一部始終を話した(起きていたというより、ただ眠れていないだけのようだった)。
 帰宅するなりすぐさまスウェットに着替えた俺は、ソファの定位置に座ってクッションを抱きしめ、惚気話にもならないような、なんとも言えない話をする。

なまえ、なまえちゃん、やっぱりおれのこと、す、好きなのかなぁ……っ」
「いやそれはなんとも……」
「だ、だって俺に話しかけてくれたし」
「お前がこの前道端で吐いてたからだろ」
「ってことは、俺っちのこと心配してくれて……!」
「そりゃあんだけやらかしたんだから心配するだろ、あとは、痴漢予防だろうな」

 痴漢。俺になまえちゃんを守れるだけの力なんて、「ある!」「うわ、急にでかい声出すなよ……」「んっんー、ごみんにぃ……、痴漢かぁ……なまえちゃんに痴漢なんてするやつは、俺っちのラップでボコボコだ! Oh No! って言わしてやんぜ “何で!?”なんて言わせないぜ」「程々にしとけよ色男」「あ、独歩ちん眠い? 子守唄歌ってやろっかぁ?」「いや、頼むから静かにしててくれ、頼むから」独歩はするんと寝室に滑り込んで、布団に倒れた音を戸越しに響かせてきた。相当疲れていたんだろう。あの疲れ様なら、俺なら二秒で寝息を立てられそうだ。
 布団というのは、いつでも独歩を独り占めにする。俺だって例外ではないけれど、誰かに独り占めにされるというのは、結構満更でもないということを俺はよく知っている。

「独り占め、に、……」

 ぎゅっと後ろから抱きしめられる想像をして、不本意にも全身に悪寒が走った。これじゃいけない。腕の中のクッションをなまえちゃんだと思って抱きしめようとしても、脂汗をかくばかりで、意識した瞬間から全てがだめになる。
 お酒も入ってたみたいだし、なんだか色っぽかったな、なまえちゃん。あのうなじを思い出してごくりと生唾を飲み込むと、不意に下半身が反応してしまっていたことに気がついて、嬉しいやら悲しいやらで、ぼすんとクッションに顎を埋めた。
 だって俺、なまえちゃんとそういうことしたい訳じゃないもん。じゃあ何がしたいんだ。何がしたいんだろ、俺。

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