SSS | ナノ


 若草色の頭を掻きむしりながら、男は溜息をついた。二人掛けのソファの真ん中を占領し、隣には破魔の竪琴を侍らせている。
「勘違いをしているようだけれど」
 彼の怪訝そうな顔は、唐紅に染まる長髪の男に向けられていた。その男もまた、二人掛けのソファの中央に座していた。長い足を組みながら、彼の言葉に耳を傾ける。
「彼女……なまえはね、僕の竪琴の音色がシーツに染み付いてからじゃないとうまく眠れないんだ。可哀想だろう? だから君の出番はないんだ」
 そう言って、ぬるくなったコーヒーを口の中へと流し込む。「冷めてしまったな」君のせいで、と云う言葉は空気に触れることなく、対面の男に向けられた視線のみに込められていた。
「ですから、竪琴を奏でられるのは何も貴方だけではないでしょう?」
「それが竪琴だって? 笑わせるよ」
 緑髪の男、ダビデは肩を竦めて笑ってみせる。コーヒーカップを卓の上に置き、取っ手の位置を正す。脚の上に肘をついて、組んだ指の束に顎を乗せた。「竪琴と云うのはね、音が出れば良いってものではないんだ。その弓なんだか竪琴なんだかわからないもの……面白いとは思うんだけどね」それを聞いた赤髪の男、トリスタンはぴくりと眉を跳ねさせる。
 己の妖弦を馬鹿にされたのだ。そして、それをつま弾く自身のことも。
 トリスタンの伏せられた瞼の向こうには、金の瞳が埋まっている。その眼が見開かれるのは、彼が獲物に狙いを定めたときくらいのものだ。
 だから、ダビデはまだ、彼が仕留めるべき獲物になり得ていない。
 薄く開かれた双眸は、まるで金の糸のように細かった。まだ口をつけていない自身のコーヒーを眺めながら、トリスタンは心を落ち着かせる。
「音を矢にして打ち出すんだって? そんなものでなまえを射られてはたまらないからね、彼女の前ではその弓だか何だかわからないものに触らないでくれるかな」
「そのような愚行、私には到底出来る筈もありません。彼女は私の竪琴の音色を褒めてくださったのですから」
「へえ」
「なまえさんも、貴方の竪琴の音色には飽いていることでしょう。ここは一つ。一晩、私に彼女を任せてみては?」
 寝付きの悪いなまえのためにと、ダビデは毎晩なまえの枕元で竪琴をつま弾くことを日課としていた。その役割を、突然現れた弓兵とも呼べぬ輩に奪われようとしている。ダビデは眉をひそめた。そんなこと、許されて良い筈もない。
「一晩どころの話ではなさそうだ。僕の羊を横取りするつもりかい?」
「羊とはベッドの中で数えるもの。彼女を羊と例えるのなら、それこそ、柵から出してしまっては如何ですか? それに、」
 彼女が本当に貴方の羊なら、羊を飼う者である貴方の元へ帰ってくる筈でしょう?
 トリスタンは口元に薄く笑みを浮かべ、長髪の毛先を肩から落とした。
「……、」
 己の資産に強い執着を見せるダビデは、己の家畜を盗もうとする者に対して、当然ながら容赦をしない。彼にとっての羊飼いの経験とは、己の人生の根本を彩るものでもある。
 だからと云って、羊飼いである立場を逆手に取られてしまうのは、ダビデにとってそう面白い話ではなかった。何事もなかったような顔をして、彼は口を開く。
「彼女にはイヤータグだって付いている。見たことがあるだろう? 右耳の。正真正銘、なまえは僕の羊さ」
 ダビデは、数日前に彼女へ贈ったピアスの話を持ち出した。なまえの右耳に下がる金板は、彼にとって羊の耳標となんら相違のないものだったのだ。トリスタンは、このことを彼女が聞けば悲しむだろう、と男の独占欲に心を痛めた。
 なまえがダビデの家畜であるかどうかは定かではないが、トリスタンは少しばかり悩むふりをしたあと、薄く笑った。
「では、なまえさんを……私に売ってはいただけませんか?」
「は?」ダビデは目を剥いて間抜けな声を出す。
「確かに、彼女は貴方の羊です。ですので……これを機に、その羊を譲っていただきたいのです、王よ」
 ダビデは息を飲む。そして間も無く声を弾き出した。「僕は君の王じゃない」「存じています。ご気分を害されたのでしたら申し訳ありません」「商談のつもりかい? 口が下手な商人の話は聞く気にならないな」コーヒーカップを傾ける。それを持つ手が震えなかったのは、彼なりの意地だった。
「なまえさんは貴方にとって家畜であり、財産である。そうでしょう?」
「そうだね。何度も言ってるけど、彼女は不眠症に悩む可哀想な羊、」
 ダビデははっとして、そこで言葉を切る。そして、軽く瞠目した。トリスタンの瞳の色を視認したのだ。
 薄く開かれた瞼の間で、金色の眼が煌めいている。
 うっそりと笑う赤髪の男は、足を組み直しながら鼻を鳴らした。
「それは安心しました。貴方にとって、彼女はただの家畜。では、私がなまえさんを女性として口説いてしまっても、構わないということですね」
 ダビデは表情を少しだけ曇らせる。それでも、普段となんら変わりないと云ったようすで、トリスタンの発言を馬鹿にするように眉を下げた。
「何を言うのさ。人の家畜を口説こうだなんて、とんだ変態だな、君は」
 揶揄うふりをして、胸についた擦り傷を隠そうとする。彼女の寝顔で癒えれば良いが、見えぬ矢に毒でも塗られていたか。じくじくと痛みを広げていく胸に、ダビデはしてやられたな、と鼻から息を抜く。
 トリスタンはちらりと壁掛け時計を見遣った。
「さて。そろそろですね。なまえさんの終業予定時刻です」
「よく知っているね」
「ええ。“羊”を……回収してこなくてはなりませんので。彼女は眠りにくいのをいいことに、いつまでも働こうとします」
「僕は君を牧羊犬として雇った覚えはないのだけれど」
「牧羊犬」
 トリスタンは驚いたような顔をしてから眉を集めた。「牧羊犬……、」舌の上でその言葉を転がしながら、少しずつ眉間に刻まれた皺を取り除いていく。
「牧羊犬」
「なんだよ、気味が悪いなあ」
「ええ。ええ。牧羊犬。良い……響きですね」彼は機嫌を良くしたのか、柔らかな手つきで妖弦をつま弾いた。心地良い音色がダビデの鼓膜を撫でる。
 おっと、いけない。
 トリスタンがそう独り言ちながら顔を上げると、ダビデが呼吸を荒くしながら自分に杖を掲げているのが見えた。弓から弾き出された音色を聞いて思わず飛びのいたのか、ソファの背もたれに強く背中を押し付けている。
「……攻撃されたのかと思ったよ」
「まさか。羊飼いである貴方様に牙を剥くなど」
「牧羊犬と呼ばれたのがそんなにイヤだったのかい?」
「赤毛の犬はお嫌いですか?」
「……うわあ、僕、君のそういうところ、最高にニガテかも」
 爽やかな笑顔を以て、彼らは毒を吐き続ける。眉尻を下げながら、ダビデは苦みの残る笑顔をつくった。


 演奏を録音させて欲しい。そう頭を下げてきたのは、目の隈が薄くなりつつある不眠症の羊、なまえだった。
 眠れない子どもを安眠に導くため、羊は柵を飛び越える。いつしか羊は柵を飛び越えることがやめられなくなってしまい、子どもが寝たあとも柵を飛び越え、また次の柵を見つけては飛び越えた。どこまでも広がる原っぱの果てを目指し、羊は眠らずに足を前に出し続ける。羊飼いに行く手を阻まれて、やっと果てを目指すことを諦めたのだが。
 彼女は上手に眠ることが出来なくなってしまっていた。
「録音? 何故だい?」
「ダビデさんの竪琴の音色、とても好きなんです。安眠出来ますし……でも、毎晩のように部屋で竪琴を弾いていただくのも、ダビデさんのご迷惑になってしまいますから……」
「とんでもない。僕は生演奏ナマのほうが良いと思うよ」
 ダビデの奏でる穏やかな竪琴の調べは、睡魔を跳ね除けてしまうなまえをすぐに快適な眠りへと誘った。「音の揺らぎ、歪み、色……日によって変わる微細な音の変化すら楽しめなくなってしまうだろ?」彼は、所有物が自分の手から離れていくことを恐れた。眠りの象徴が自己の不眠に悩まされている。それを解消してやりたいと彼女の部屋に足を運ぶようになったのは、なまえが彼の羊になる前からだった。
 なまえの右耳に付けられた金の耳標が揺れる。ダビデはそれを見るたびに、彼女は自分の所有する羊なのだと実感することが出来た。錯覚だとは、決して思いたくなかった。
「まあまあ。録音については考えておくよ。今日はもう寝てしまおう。ほら、部屋に行こうか」
「……、」
「どうしたんだい?」
 なまえは少し俯いて、申し訳なさそうに話し始める。
 毎夜毎夜、ダビデがなまえの私室に誘い込まれて行くのを複数の職員に目撃されてしまっている。聞こえてくるのは竪琴の音色のみ。だとしても、断片的な情報から低俗な推測をする者は少なくなかった。
「なるほどね。別に、言わせておけば良いじゃないか。僕は自分の手で眠らせた女性に手をつけるほど、狼ではないし。あまり説得力は無いかもしれないけれど。まあ、人の良さそうな顔をした狼はたくさんいるだろうから」
 特に、赤毛の犬には気を付けて。
「赤毛の犬」なまえは復唱した。
「私のことでしょうか?」
 二人の間に、赤髪の男が介入する。「赤毛……」なまえはトリスタンの髪色を見るなりそう呟いた。
「改めまして、牧羊犬のトリスタンと申します」
「嘆きの、だろう」ダビデが口を挟む。
「犬らしく、なまえさんを部屋へと追い込みに参りました」
 彼はなまえの身体を反転させると、狭い背中に両手を当てて前方へと押し出した。「わん、わん」そう鳴きながら、なまえの部屋がある方角へと、狙いを定めた羊を押しやっていく。
「あの、私、一人で眠れます。大丈夫ですから……」
「眠れないまま何時間もベッドの中で寝返りをうつのはお辛いでしょう。あの男を部屋に入れるのがけしからんと窘められるのでしたら、犬である私が寄り添いましょう」
「おい君、犬なら犬らしく僕の言うことに従わないか」
「これはこれは。駄犬で申し訳ない」
 廊下に六つの足音が刻まれていく。「破魔の竪琴では睡魔を祓ってしまうかもしれません」「睡魔を癒して引き寄せているんだよ」「待って、二人も部屋に来るなんて、そんな」その後も、会話の節々に刻まれるなまえの申し出を男たちは華麗に躱し、着実に歩を進めていった。追い込まれた羊は安全な柵の中へと放り込まれ、大人しく寝床へと横たえられる。
 扉の向こうから聞こえてくる竪琴の二重奏に、なまえの部屋の前を通りかかった職員は不思議そうな顔でその音色を聞いていた。随分と熱心に練習しているのだな、となまえの目の隈を思い出しながら。

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