SSS | ナノ


(えっちな雰囲気になります)



 お初にお目にかかる、という語句にはどうしても慣れないものがあった。正味な話、それを口にしたこともないけれど、この世に存在する言葉であるのは確かだった。
 蘭陵王。またの名を蘭陵武王。
 昔、叔父の部屋にあった古びたスピーカーの向こうで、初老の男性が彼のことを熱心に語っていた。朧げな記憶の中には耳にしただけの知識しか詰まっていない。それもほぼ忘れている。憶えているのは蘭陵王という将軍の名と、背中越しに伝わる祖父の温もりだけだった。
 蘭陵王とは大変見目麗しい人だと藤丸さんから聞いたものの、わたしの眼にそれは映らず、ただの人間のカタチとして捉えられた。確かに、わたしが今までに捉えたことのない顔のつくりをしていたのはよく憶えている。ただ、そのつくりに対し、秀や美を判断出来るだけの材料を、わたしは持ち合わせてはいない。
 顔の形は判る。表情も。集中すれば、三百六十度どこからでも周囲の物体を感知することが出来る。範囲を狭める、もしくはメインの魔術回路を開くことでさらに詳細な情報を得られる。
 わたしは普通の人よりも広い視野で、世界を知ることが出来た。
 ただ――わたしは暗闇の中でしか、それらを視ることが出来ない。

 仰々しい鉄の仮面の奥には、清らかな麗貌と、芯のある凛とした声があった。軍を率いる者の気迫と、確かな勇猛さを感じる。数多の視線を集める気高い背中。剣豪と見紛う程のしなやかで効率的な動き。風に乗って流れる絹糸は、目を見張るものがある。一点を見据えるその視線は、宝石が放つ輝きのようだ。

 わたしはそれらを視ることが出来ない。
 この身に与えられたのは、物を見据えるための耳と、音を聴くための肉肌と、あってないような両眼だった。
 ものの外殻と、その構造を全身で捉える。肌の上に薄い魔力の皮膚を張れば、色光以外はなんでも視えた。
 美しい、とされる造形の人。その言葉ひとつあれば、彼という人を表すには充分なのかもしれない。
 集中して、遠くで他の職員と会話をしている彼を視る。
 心優しい笑顔を浮かべる人だな、と思い、それを藤丸さんに話すと、そんなに細かい表情まで分かるのかと驚かれた。流石に目線までは分からないけれど、ある程度なら、と笑って感覚を切り替える。
 何やら、彼の瞳の色はわたしの瞳の色と同じらしい。「何色ですか」「えっ、うーん、アメジストみたいな……むらさき…? 藤色……?」紫は嫉妬や色欲の色であると聞いたことがある。ただ、藤色。藤丸さんの色……そう思うと、見たこともない自分の瞳の色が、少しだけ好きになった。
 意識を藤丸さんのほうへと向けると、こちらをじっと見ているような気がした。鼻先もこちらを向いている。瞳の位置を知るために余計な魔力を使う訳にもいかず、半端憶測でものを言う。

「あまり見つめないでください。流石に分かりますよ」
「うーん、やっぱり、全然見えてないように見えないんだもん。なまえさん、いつも目開いてるし、瞬きもするし……説明されない限り気づかないよ」
「それは良かった」
「……やっぱり、綺麗な目の色!」

 そう聞いて、咄嗟に瞼を下ろす。「なんで隠すんですか!」「は、恥ずかしい、でしょう……」わたしは適当に会話を流して、蘭陵王さんの話をしようと促した。
 彼は何事も、己で解決しようとするのだとか。蘭陵王とは名だたる将軍だから、細事や雑用などは部下に任せきりなのだと思っていたのに、大抵のことは一人でこなし、それを自慢げに話すこともなく、嫌味の一つも口にせず、さも当然のようにそれをすると。
 良い人ですね。そう返すと、藤丸さんは元気よく頷いて、満面の笑みを浮かべながら「うん!」と言った。
 その頬肉の盛り上がり方、瞼の閉じる様子、唇の溝の広がり具合。わたしの知る限りでは、それは紛れもなく笑顔である。喜びの表情だ。


 それから数日後、彼は食堂で配られた茶菓子を分けに、わたしの部屋へと訪れた。
 あの場におらず、業務中以外は部屋に引きこもりがちなわたしに、彼はわざわざ他者の分を、分け与えに来た。刑部姫さんでもなく、カーミラさんでもなく、あの、蘭陵王が。
 差し出された饅頭のひとつに、わたしはとても困惑した。どうしてわざわざ。頭の中はそれでいっぱいだった。
 とても烏滸がましく、愚かしい発想ではあるけれど――何か裏があるのでは。そう、思った。
 だって、余りにも不自然なのだ。わたしが視えるのは物の形と、ある程度の構造のみ。特に、包装されたものの中身が何かまでは、どうしても判別が難しかった。匂いなどで分かることもあれど、生地とビニールに包装されたそれはあまりにもただの“饅頭の形をしたもの”であり、饅頭と言われなければわからないものだ。いや、視覚のある人でも、そうなのだけれど。あの包装されたものの見た目が確実に粘土であったとしても、わたしには判別がどうにも難しい。
 一歩引くわたしを見た彼が、ぱちくりと大きく瞬きをしたことをよく憶えている。

「これは失礼いたしました。とても美味しいお茶菓子だと聞きましたので、その、なまえさんにもどうか、と」

 花びらの飜る笑顔、と言うのだろうか。何かの朗読を聞いていた際に使われていた一文が浮かんだ。

「私が、思ったのです」

 その美しいとされる顔を視ることは、到底叶わないのだろうけど。
 仮面の奥で少しだけぎこちなく動く表情筋の動きが、眉の形が、瞼の震えが。わたしには分かる。彼の手元に顔を向けたまま、それらを感じ取れる。
 美しい、と思った。
 彼のことを美しいと感じたのは、茶菓子を分け与えてくれたからではなくて、部屋に閉じこもりがちなわたしを気にかけてくれたからではなくて、ただ、彼がそこに居るから。
 幼い頃から、陽だまりの色が知りたかった。一体どんな色なのか、わたしには知る由もないのだ。けれど、なんとなく、分かりそうな気がした。少しだけ、視えた気がしたような。気のせいで終わらせたくはない。わたしにとって温もりとは心を癒してくれるものであったから。


 なのに、今は、怖い。
 あんなに、あんなに美しかったのに。
 わたしを壁に押し付けて、神獣の仮面の向こうで、禽獣の瞳をぎらつかせ、野獣の呼吸をする彼が。

「なまえさん、」

 視界が、ぼやけて、ゆがんで、滲むほどに恐ろしい。
 昨日までの彼とは、まるで別人のようで。突き飛ばしてしまいたい。罵声を浴びせる間もなく逃げ出して、誰かに助けを求めたい。
 それが出来ないのは、彼の手に込められた力があまりにも強いから――そして、わたしがまだ、彼に淡い期待を抱いているからだ。
 少し経てば落ち着くかもしれない。何か事情があるのかも。こんなことをするなんて、きっと本心からではない筈だ。
 熱を灯した瞳がわたしを捉える。「も、う……」辿々しい言葉のつくり。口角がゆるく上がっていくさまを見て、背筋が凍る。

「そ、んなに、見つめられては、」
「っ……」
「……もち、ません」

 凛とした声が熱を帯びる。首筋にぬるい息がかかる。わたしの思考が凍っていく。
 胸を押してもびくともしない。こんなにも細い人が、わたしに組み付き、行動を制限出来る程度の強い力を持っている。当然だ。彼は武将であり、英霊であり、男であるのだから。「ふう、」耳の近くで細い形の風が通る、「いやっ」身動ぐも、わたしを温めるのは彼の身体ばかり。
 わたしは寒さを感じたい。温かいところばかりにはいられない。この身を削いででも彼と密着する肉を減らしたい。熱い。熱い。「ん……」吐息がわたしの皮膚を焦がす。さむい、あつい、さむい……。

「なまえさん、」
「い、っ!」

 彼は距離を限界まで縮め、強い抱擁で以てわたしを拘束した。肺が圧迫される。腕の骨が軋む。「なまえさん、なまえさん、ああ、っ」息が出来ない。苦しい。心が揺らされる。胸がきつい。距離が近すぎる。何も、見えない。「ぃ、やっ!」身動ぎ、振った頭が彼の仮面を掠めた。留めていた紐が緩んだのか、予め外す予定でいたのか、それは分からない。
 床の上に落ちた鉄の仮面がカラカラと笑う。「あ、ああ、まだ、隠していたかった、と、言うのにっ……」彼の跳ねる声がおぞましい、だって、現状を楽しんでいるかのような、そんな印象を受けてしまって。
 ひどく、いびつな笑顔だった。

「は、はなして、」
「……、いや、です、嫌だ、こんな機会……」

 声が笑っている。歓喜の色が聞こえる。言うなればそれは紫色の声。
 ――いやらしい、声音だ。
 彼はそのままわたしの腰に腕を回し、自分のへそを支点にしてぐいとわたしを持ち上げた。「んん、」上擦った声に背筋がぞわりとする。怖い、あんなにも綺麗な透明感のある声が、ここまでの色に染まるなんて、信じたくはない。

「ふ、ふふ、」
「や、はなして、やだ、」
「それは、聞けない」

 わたしが向かうための、逃走経路である扉が遠ざかる。突き飛ばして、走って、内鍵を開けて逃げ出したい。なのに、足は宙を彷徨っている。ぐっと喉の奥が開く。
 助けて! わたしがそう叫んだ途端、彼はわたしを寝具へと放り投げた。「きゃあっ!」硬い布団に背を打ち付け、肋骨が軋む。
 唸り、少しずつ視線を上げ、息を詰めた。

「……、ふー……っ」

 自身の股のあたりを隆起させ、破顔した彼が立ち尽くしている。荒い息を緩めた口から吹きながら、腰紐を解いて、衣服をはだけさせようとしている。ぞっとして、頭の奥が熱くなる。いやだ、彼は一体、何をしようとして。
 分からないふりが、出来ない。したところで。

なまえ、なまえさん、いい、ですか……?」

 着物を乱したまま、彼はわたしへと覆いかぶさった。背に手を添えられて、ぐいと体を起こされる。微かな涙声がわたしの胸に突き刺さる。
 逃げたい、逃げたい、逃げ出したい。目の前の脅威をなかったことにしてしまいたい。「なまえさん」この男の人の眼には、わたしは性の対象として映っている。
 どんなに顔が綺麗な人だったとしても、やはり男の人なのだ。どれほど女性的な風貌であれ、彼は、歴とした男性なのだ。顔のつくりこそ女性らしい、なのに、骨格はどこまでも男性的で、声を聞けばすぐに分かる。声帯は誤魔化せない、特にわたしのように音を頼る者に対しては。
 相手の性別を否定してまで自分の理想を押し付けようとしていた、その事実に、わたしはどうしようもない罪悪感に震えた。そして、彼の要求を受け入れることは、ある種の罪滅ぼしになるのではないかと考え始めてしまった。
 赦されたいから。
 なのに、どうしても、明らかな恐怖が勝ってしまう。

「う、ッ、いやっ、こんなっ……! 誰かっ……」
「――……ッ!」

 苛立ちを含む声がした頃、追って、破裂音がした。間も無く頬に鋭い痛みが走り、彼に頬をぶたれたのだと察した。
 分かっていた。わたしは視界を必要としないから、常に周囲の状況が把握出来る。「だ、まれ、」今のわたしと同じように唇を震わせ、苦痛に悶える彼の顔は、やはりどう視ても怒れる婦人のようだった。
 左頬の痛みに、ぼろりと涙が溢れる。すると、彼は驚いた様子で自分の手のひらを眺めたあと、わたしのことを強い力で抱き寄せた。「すみません、違うのです、貴女に、こ、こんなことはしたくない……!」骨が折れるのではないかと思うほどの力でわたしを抱きしめて、そのくせ、わたしの太ももに熱いものを押し付けてくる。
 泣き出してしまえばきっと楽なのだろう。感情的になって暴れれば――彼は本当に心優しい人だから、例えば慌てたりなんかして――隙の一つも生まれ、逃げ仰せる可能性は大いにある。なのに、何も出来ない。恐怖の対象を見つめていることしか。
 何をしでかすか分からない、目の前の男性が、怖い。

「あ、貴女の声を聞くと、頭が、真っ白に、なる、意識が、飛びそうになる……っ! こん、なことは、したくないのに、とっ、止まらない……!」

 わたしの足の上で、びくびくと脈動を続ける熱いそれは、すでに軽く湿っていた。「あ……っ、」少しでも動けば彼は声を上げ、わたしの腕を強く握りこむ。
 脅すような吐息。わたしの身体をこの場に押し留める、ぎらついた視線。揺れる腰、膨らむ肉のかたまり。

「あ、あの……っ、せ、めて、っ、触るだけ、でも」
「……や、」
「貴女でないと、意味が、ない、貴女のせいだ、貴女が私をこんなにしたっ……」

 わたしのせい。
 幻想が砕け散る。最後まで大切に温めてきたものが、高い音を立てて散り散りになった。
 彼の言い分はあまりにも身勝手過ぎた。自分本位で、なんの情もない、冷たい言葉だけが降りかかる。
 もうすでに、彼はわたしの知っている蘭陵王ではなくなってしまっていた。違う、何も知らなかっただけだ。だってわたしは相当気を張って初めて、人の視線を追うことが出来るから。「ぁあっ、なまえさんっ、わたしは今ッ、おかしいっ、おかしくなっているの、です」彼の息が激しく乱れて、わたしの首筋を溶かそうとする。ぬるりとした感触に悪寒が走ったけれど、身体を拘束されていて抵抗の一つも実らない。
 彼の眼球の動きを追うのが怖い。魔術回路を追加で開くことが出来ない。知りたくない、認知したくない。

「やめて、」
「やめられるものならば、とうの昔に……! 本当に、心の底から嫌でしたら、わたしの全身の骨を折って、首を刎ねてでも止めてください、でなければ、止まらない、もう……っ!」

 彼がわたしに求めることは、出来る筈のないことばかりだった。熱く火照った手のひらがわたしの服の裾をめくり、腹の上を這う。
 叫び、腕を掴んで止めたら、また頬をぶたれるかもしれない。そう思うと、「……ッ、」喉が、開かない。息が吐けない、呻くことで精一杯で、大きくてしなやかな手の甲に、手を添えるだけに終わる。

「あ、……、ふ、ふふ、」
「や、めて、やめて……」
「なまえさん、に、逃げないで、逃げずにいてください、私は今、お、おかしい、抵抗する貴女を認められないのです、貴女を逃がしたいのに……っ、」

 本音と嘘の継ぎ接ぎが、より恐ろしい。何が本音で何が嘘なのか、もう、何も信じられずにいる。
 彼は、もうすでにわたしなど眼中にないのだと気づいた。彼が見ているものはわたしではなく、目の前で固まって震えているだけの女の身体で、「はっ、はぁっ……、ふ、ふふ、」それを如何にして味わってやろうかと、吟味しているだけのように思えた。
 彼の吐息ひとつひとつが、わたしの身体にのしかかる。それは肌へと染み込み、関節に絡みつき、四肢の自由を封じてこの身を嘲笑う。今でも全身が震えて仕方ないのはそのためであるとしか思えず、奥歯が揺れた。
 わたしの頬を舐め上げる彼の、乱れた呼吸が、挙動不審な仕草が、いやらしい形の破顔が。もうすでに、わたしの知る彼その人ではないということを表していた。
 男の放つ荒い息が、わたしの首を緩く絞める。肩口に走った痛みでは到底正気には戻れない。無抵抗だと察した彼は、そのまま薄く笑って、「なまえさん、」と嬉しそうにわたしの名を囁いた。
 魔術回路を閉ざす。
 世界とわたしが切り離される。
 安寧の色の奥に、明確な脅威を感じる。それも、もう。

「貴女の視線は、不思議と、心地良い……、いつものように、私を、見てください、見ていて、くださいね、」

 何も見えてはいないのに。寧ろ、一度も見たことはないというのに。
 生ぬるい無の視界の中で、すべてが終わるのを待った。もう何も視たくない。何も、何もかも。

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