SSS | ナノ


 視界いっぱいの吐瀉物を見るのには慣れきっていた。職業柄、他人の嘔吐物を処理しなければならない場にはよく直面してきたし、俺自身も今の仕事に就いたばかりの頃は良く吐いたものだった。
 凡そ人体に影響のある量の酒に身体が慣れたのか肝臓がバカになったのか――嘔吐の頻度は減ったけれど、それでも、戻さねばならないときは戻す。
 問題は、一番吐きたくないタイミングで脳が吐けと身体に命令してくることだ。我儘な仔猫ちゃんのほうが余程可愛い。こちらからすれば、毛玉などでは済まないものを吐いている。
「う¨ッ、ぉ」
 最早液体なのか個体なのかすら分からない。口内で咀嚼し体内で丁寧に掻き回されたそれ。酒とつまみと胃液で構成された半液体状のドロドロは、水っぽくて、なのに固形物が浮かんでいるのが視認できて、本当にいつ見ても、気分の良い絵ではない。
 吐くのが仕事みたいな俺たちにとってこの光景はさほど珍しいものではないし、週末はどの店の裏口も今の俺みたいなやつで溢れかえっている。書き入れ時なんざもう地獄だ。
 うまく吐けない奴のために、細い喉奥に指を突っ込んでやったこともあった。昔先輩が俺にやってくれたことを、そのまま俺の後輩にやってあげただけだ。でも、めちゃくちゃ感謝された。感謝に連鎖があることを再認識したとは云え、それを得る手段はあまりにも一般的ではなかった。然し、有り難みに上下などある筈もないのだ。
 ゲロ吐いて気分良くなるやついるけど、どういうことなんだろうな。少なくとも俺は食ったものが体内で逆流して尻の穴以外から汚物と同系のもん噴くなんてやっぱりムリだよ。
 顔は伏せても目線までは下げたくなかった。吐く要因をさらに作ったって苦しいだけだ。
 ぐるんと回した眼球が見たのは冷たい電柱の陰だった。見慣れた近所のコンクリートにクソと同質のもん吐きかけて何が楽しい。楽しくない。泣きそうだ。既に少し泣いている。
 もしこの場に俺一人であったなら、子どもみたいにわんわん泣くことだって出来たんだ。いやそれは少し言い過ぎかな。感情のままに悔し涙流してスッキリしたらいつもみたいに何気ない顔で家に帰って風呂入って歯磨いて布団に入れた。
「伊奘冉さん、大丈夫ですか。お水買ってきましたよ。これで口ゆすいでください」
 なんでよりにもよってなまえちゃんが家から出てくるんだろうな。お隣さんとは云え窓の外に意識向けすぎなんじゃないのか。俺を心配してくれたのは嬉しかったけど、このスーツを着てなかったら、きっと今頃俺はその辺で泡を噴いて死んでいただろう。
 道端で吐いてるところ、なまえちゃんに見られちゃったし。水買ってきてもらっちゃったし。背中さすられてるし。失礼します、なんて礼儀正しい挨拶までもらってしまって。
 優しい声が直に胃に響く。俺はここで吐いてもいいんだ、そんな幻想の赦しを感じてまた嘔吐く。
 最悪だ、最悪だ、最悪だ、どうして今日に限って俺はこんなツイてないんだろう。体調悪いのに酒飲んだからか。早く帰れってお叱りまで受けて店から叩き出されたからか。そうか。でもこんな格好悪いところなまえちゃんに見られるとかムリだろ。そんなことまでしなくていいだろ神様。俺に気を遣ってくれたのかよ仏様。フォローになってないよ。
「スーツ汚れますよ」
「うん、大丈夫」
「ジャケット持ちますよ」
「大丈夫だから、気にしないで」
「観音坂さん、まだ帰ってないみたいで」
 ああほらもう独歩のこと気にしてるし。早く俺のこと回収して欲しいとか思ってるんだろうなぁ。
 然し俺も道端でホストが跪いてたら同じことを思うに違いない。自分以外の誰かが介抱してやればいいのにって。
 赤いのか青いのか分からない顔で、ぼうっと電柱の陰を見る。口の周りは臭いかすで塗れている。足元も。空ばかりは綺麗なんだろう。きっと珍しく星が見える。
「すみません。ありがとうございます、僕は大丈夫ですから。女性が、う¨、こんな夜中に外に出るのは危け、お¨、」
「大丈夫に見えないので」
「……んん、面目ない……」
 人と話すときは相手の顔を見ろよ。でも今の俺って人の顔見て話せるような顔面してないだろ。お前顔だけはいいよなって言われ続けて、武器にすると決めた顔も遂に使い物にならなくなった。
「頭ぶつけたりしてませんか」
「うん」
「さっき、私がここにくる前、悲鳴あげてましたよね。絶対転んでどこかに頭打ちましたよね。髪のセット、一部ぺちゃんこですよ」
 ぺちゃんこなんて言葉使うのかわいいな。
「ぺちゃんこ」
「はい」
 ぺちゃんこだって。復唱したらなんだかおかしな気分になってきた。頭の中がぐるぐるしている。胃が軽い。脳味噌も一緒に吐いたんだって、頭も軽くなってきた。
「ふ、ふふふ……あ、あは、あはははは!」
「え」
 ぺちゃんこ、ぺちゃんこだって。かわいいな。あれほど意識して作っていた声も、もう崩れてしまった。
 喉声で笑う。気の抜けたいつもの声だ。普段ならこんなことしないし、出来ないのに。感覚的には鼻のあたりで喋っている。気が狂って頭の配線がいくつか焼き切れたみたいだ。視界がぐるぐるする。「あはは、う¨ェ、」ゲロでうがいをして、笑いながらまた少し吐いた。
「伊奘冉さん?」
 なまえちゃんが心配してる、笑うのやめるか吐くのやめるかホストやめるかしないと。まずホストはやめられないけど吐くのはそろそろやめられそう、笑うのやめんのは無理そう。
「帰って水飲んで寝てください、観音坂さんに連絡とか……」
「えぇっ、ドッポにはァ、あんまり言いたくないかもぉ〜、へへ、へへへ」
「え!?」
 ぼうっとする、身体は熱いのに内臓が寒い。色んな場所がスースーするな。さっき転んだときにいくつか落としたのかもしれない。身体のあちこちがひゅうひゅうする。顔は熱いのに。変だ。
「伊奘冉さん」
「ひひっ、オレげろなんか吐いてだっせえ〜〜、ほらパイナップルの残骸浮いてるもんねえ! 独歩にばれたらどやされるなあ〜」
「伊奘冉さん」
「うわズボンの裾汚れてんじゃん! くぅりーにんぐー! 出さねえとまっじぃ〜、かもォ……」
「伊奘冉さん」
 ふと首を捻ると、眉を下げたままのなまえちゃんの顔があって。俺の緩みっぱなし、開けっぱなしの臭い口から、ゲロ以外の何かが出た。
 あの日からここに至るまで何回も出したそれ。やめたくてもやめられない、俺の絶望を形にしたもの。形なんか無いくせに、確実にそこにあるもの。
「ア¨」
 己が感じた恐怖を、そのまま音にした声だ。
 胃が跳ね上がった。吐き気じゃない。俺は即座に後ずさった。乾いたコンクリートでケツ摩り下ろすつもりかよってほど長く尻餅をついて、歯茎の間で唾液の泡を作った。
 なんで、俺、今スーツ着てるのに。
 このときだけは、女の子を目の前にしても大丈夫な筈なのに。
 喫驚と心配を混ぜた顔のなまえちゃんは、「伊奘冉さん」と、また俺のことを呼んだ。喉から出たものはやはりゲロなんかではなく悲鳴になりかけた情けない声で、不透明な脳みそが意識を曇らせていく。
 食道が詰まる。鳴咽で済むならそれでいい。でもこれは物理的な要因による嘔吐きではなさそうで、肝が冷えた。
「伊奘冉さん、とりあえずお口濯いで」
「ぐ、ぎ」
 差し出されたペットボトルの中身は透明で、中に入った水はゆらゆらと揺れていて、つられて俺の頭も揺れる。舌がうまく動かない。歯の根が震える、眉間が絞られていく。
 あれで口を濯げって。おいおいここは神社じゃないんだ、ていうか手も洗ってないし柄杓もないし鳥居もくぐってないし何の話だこれ?
 声が出ない。しゃがんだなまえちゃん。スカートの中見えそうだよ。この前また猥褻行為の罪重くなったよな。目を閉じ切ってしまいたいのに視界を埋める絶望が俺の瞼を固定する。荒くなった息は死ぬほど臭くて、でも俺がまだ生きていることを教えてくれる。
「一二三」
 俺の名前は、すべて口から吐いた息に乗って抜けていくんだ。
 聞き慣れた男の声が背後に生えた。なまえちゃんは肩をびくりとさせると、俺を通り越した先に視線を送った。その表情はなんだか少し嬉しそうで、でも俺に向けられた表情でないことだけは確かなのだと理解してしまって、虚しさと安心感で眼球が乾く。
「なにしてんだお前……」
 首をブリキにして、振り向く。
 俺の後頭部に突き立てられた独歩の声音は、疲労と眼前に広がっているであろう惨状によって淀んでいた。「す、」震えた声が聞こえる。相当やばい状況だってのに、口内は仄かな安堵の味で満たされつつあった。
 鞄が地面に落ちた。独歩が風を切る。すかさず俺の前に滑り込み、すうっと息を吸い込んだ。
「すみませんうちの一二三が! あああ水まで頂いて誠に申し訳ない! うわしかも結構吐いてるじゃないか! 汚いものをお見せしてしまって本当にすみません!」
 俺の前に躍り出た独歩は、その場で綺麗な直角のお辞儀をしてなまえちゃんに誠意のある謝罪をした。本当は俺が真っ先にやらねばならないものだ。独歩の顔が、冷や汗と緊張と俺への怒りでめちゃくちゃなものになっているのが見えた。
 立ち上がったなまえちゃんは慌てた様子で片手をゆるく振って、微笑みながら焦った素振りをする。独歩が間にいるってのに、俺はその仕草がどうにも怖かった。
 心臓が一際早く大きく動いている。鮮明に聞こえる脈のおと。頭がぐらぐらと揺れる。身体全体で鼓動を刻んでいる。世界が揺れてるんじゃないのか。
「伊奘冉さん、酔って帰宅する途中で転倒されたみたいで。頭を打っているかもしれません。こちらのお水差し上げますのでお好きに使ってください」
「本当にすみません、あの、警察とかって……」
「呼んでませんよ」
「大家さんに連絡とか……」
「してません」
 それからの独歩は、女と対面した俺みたいに、終始怯えたままだった。
 それもそうだ、だって相手は男の俺たちよりも立場の強い女なのだから。警察なんか呼ばれたらたまったものではない。
 朦朧とする意識の中で聞き取れた内容は……なまえちゃんは警察にも大家にも連絡はしておらず、なんとか俺を家の玄関まで運ぼうとしてくれていた、というものだった。
 なまえちゃん、俺のこと本気で心配してくれてたんだ、嬉しいな。まだ苗字に敬称でしか呼んだことないけど、向こうは俺のことを隣室のサラリーマンと住んでるチャラいホストとかくらいにしか思ってないんだろうけど。
 でも俺のためにここまでしてくれるってことは、やっぱりなまえちゃんは、俺のことを……。
「ほ、本当に、すみませんでした……」
 ぼうっとしながら、頭を垂れる独歩の綺麗なお辞儀を眺めていると、俺の視界はゆっくりと細くなり、世界が傾いて、それから少し経って、光を失った。



「う¨あ¨あ¨あ¨あ¨なまえ¨っ、なまえ¨ぢゃん¨ぜっだいに俺のごどずぎだよお¨お¨ー……っ」
「ああもううるさいな彼女に聞こえるぞ!」
「や¨ぁー……、なまえぢゃんはぜっだいおれのごどずぎなんだよ……」
「声小さくすればいいってもんでもないだろ……」
 天井に向けて叫んだ感情は、明らかに自分本位のものだった。
 全身が鎖に繋がれたみたいに気怠く、暑いのに寒い、寒いのに暑い……それを身体の中でずっと繰り返している。口から出てくる言葉の殆どは、理性に発言許可を得ないまま口から勝手に飛び出してきたものばかりで、無法地帯に等しい。
 なまえちゃんはきっと俺のことが好きなんだ。じゃないとあんなに親身になって駆け寄っては来ないし、他者の吐瀉物を見ながらそいつの背中をさすらない。ゴミ捨ての日に玄関先で鉢合わせる時だって、こちらが日和っていても常に笑顔だし、俺のことは伊奘冉、独歩のことは観音坂ってちゃんと分けて憶えていてくれているし。
「おれのことすきだから助けにきてくれたんだもん」
「酔っ払いを介抱する理由は好意以外でも成り立つぞー」
「そういうこと言うなよぉ……」
 独歩が体温計をしまいながら、「何か作るから、食べて薬飲んでゆっくり寝ろ」と母親のような声色で言った。「俺らはもう若くないんだから、無理した分だけこうやって身体に返ってくるんだよ」そう呟くなり、即座に苦い顔をして台所へと旅立つ。自分で自分の地雷踏んでやがる、俺の地雷でもある訳だけれど。
 確かにもう無理のできる歳ではない。この前も年齢を理由に先輩がホストを辞めた。その日の夜はいつもよりたくさん飲んだ気がする、でもアフターがあったから少し吐いてから店を出たんだ。
 いやなことを思い出してしまった。この前っていつだ……そうだ四日前。
 喉が跳ねる。嘔吐く。頭痛が付与される。
「ちょっと前になまえちゃんにアフター見られたかもしんない……」
「は?」独歩がこちらに向かってくる音がする。
「この前アフター中に街でなまえちゃんっぽい人みた」
「見ただけだろ。気にするなよ。お前がホストやってるのも向こうはたぶん知ってるよ」
「……なまえちゃん」
 女の子と一緒に歩いてる俺のことを見てどう思ったのかな。変な言い方にはなるけれど、そう、その、少し、ワクワクした。少しだけだ。そのときは自分に都合の良い想像しか出来なかった。今ではもう、不安要素でしかない。
 俺にとって女の人というのはどうしても恐怖の対象でしかなく、未だにあのスーツを着ないと女の人と話せなくて、側に寄られるのも怖くて、だから家のチャイムが鳴っても相手が男だって分かってからじゃないと出ないようにもしているし、それは相手がなまえちゃんだからって覆せるようなものではない。
 一般的な仕事をするにしても最近はどこの職場でも女の人がいる。なまえちゃんも俺の知らないところで懸命に働いているんだ、あんな月みたいに優しい笑顔を浮かばせて。
 脳裏に思い描くと、気怠さもすこし軽くなるような気がした。
「すき」
 ぼやいて、全身の力を抜く。
 なまえちゃんのすっぴん見れたの嬉しかったな。思考は支離滅裂で、なのにそれにしては纏まりがあるように思えた。
「そういうのは本人に言ってやれよ」
「で、でも、なまえちゃん、お、女の子だしぃ……」
「そりゃそうだろ」
 ん、と言われ渡された器には、独歩お手製のお粥が詰められていた。食欲がなくても何か食べないと。独歩が寝込んだときに俺がよく言う言葉だ。同じ言葉をかけられて、悔しさと嬉しさで唇が歪む。
 礼を言って、匙でふやけた米を静かに掬う。ぼんやりと白く濁る汁に浸かった米粒は、噛みしめるたびに涙みたいな味がした。

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